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2010年4月20日火曜日

4月20日・新田長次郎氏と親交があった陸軍・秋山好古大将

「琴ノ浦温山荘園」開園の新田長次郎氏『坂の上の雲』 の 秋山好古大将と同郷人で深い親交があった!

庭園が「国指定名勝」に指定されている海南市船尾の「琴ノ浦温山荘園」。 ニッタグループの創業者・新田長次郎 (1857~1936) が造らせ晩年を過ごしたこの地に、 わが国騎兵の父と仰がれた陸軍将軍・秋山好古 (1859~1930) が度々訪れていたことはあまり知られていない。長次郎と好古は実は無二の親友。 温山荘に残る2人の足跡とその人柄を紹介する。




秋山好古 (よしふる) といえば、 司馬遼太郎が 『坂の上の雲』 に描いた秋山兄弟の兄=弟は真之 (さねゆき) =として有名。 昨年末のNHKテレビでは阿部寛が演じて注目を浴びた。

 フランス留学で騎兵の重要性を感じ、 帰国後は騎兵の創設に尽力。 日露戦争では騎兵第一旅団長として、 特に奉天大会戦で大活躍した。 現役を退いた翌年には、 請われて郷里松山の北予中学校長に就任。 在職6年3カ月の間、 欠勤も遅刻もなく、 また、 怒った顔も見せず、 叱られた生徒は一人もいなかったため、 全国教育界の名物となり模範となったという。

 そんな好古と長次郎が初めて会ったのは明治30年、 大阪の旅館でだった。
ともに愛媛県松山生まれの2人は、 同郷出身ということで意気投合。 交際は好古が死去する昭和5年11月まで30年以上続いた。 温山荘では布団を並べて夜通し語り合っていたという。 また好古は、 長次郎の会社の社員への講話や、 関東大震災時の支援協力も行っている。

 そんな2人の交友を示す扁額が、 広大な庭に面した同園主屋の24畳の大広間に掲げられている。 好古が揮毫(きごう) したもので、 「静者安」 と書かれている。 「剛毅ぼくとつで知られる好古ですが、 字は非常に柔らかい」 と同園の阪井新二園長。












長次郎の別荘「琴ノ浦温山荘園」にて昭和5(1930)年5月。同年11月好古死去。左:長次郎/右:好古

 主屋には、 長次郎と家族、 好古が一緒に写った写真も展示されている。 では新田長次郎とは、 どんな人物だったのだろうかは、大方前回に描いたが、以下に掲げる新田長次郎氏の自伝ともいうべき「明治の空 至誠の人 新田長次郎」の「あらまし」をご参考にして下さい。
「騎馬将軍・秋山好古」アドレス
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6006/retsuden/yoshihuru.html









大広間にある秋山好古揮毫の 「静者安」

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「明治の空 至誠の人 新田長次郎」

松山高等商業学校(現・松山大学)の生みの親である新田長次郎翁(雅号・温山)の生涯を、近代日本の形成と発展という視座からドラマチックに描いた自伝小説。
司馬遼太郎は秋山好古の親友だった新田長次郎を高く評価していたが、作品のなかに登場させることはなかった。本書はそうした意味で、司馬遼太郎が書かなかったもうひとつの『坂の上の雲』でもある。
(まえがき)
「日本騎兵の父」とよばれた秋山好古(よしふる)には生涯、刎頸(ふんけい)の交わりをかわした事業家がいた。 
 新田長次郎といい、好古と同じ伊予松山の生まれである。 
二十歳のときに大阪へ出て、皮革(ひかく)業に身を投じ、倦(う)むことのない研究心で発明と改良をつづけ、江戸の昔からの家内工業であった皮革業を一躍近代的な産業へと育てあげた立志伝中の人物である。かれは名声を望まなかったから、その名が後世にひろくのこることはなかった。
長次郎は事業家の役回りを心得て、時代の後見役に徹していたところがある。 

「皮革業界のエジソン」とも称される長次郎と好古との親交は明治三十年からはじまり、好古が他界する昭和五年十一月までつづいた。とくに人生の円熟期から晩年になればなるほど、ふたりの交流は親密度をふかめていく。 

予備役となった好古は大正十三年四月から郷里の私立中学の校長を勤めているが、この頃から夏休みを利用して毎年、北海道の十勝をおとずれ、長次郎が経営する製(せい)渋(じゅう)工場(槲(かしわ)の樹皮から皮のなめしに必要なタンニンを抽出する)、ベニヤ工場、煉乳工場を視察し、そのあと乳牛と競走馬の牧場へ通い、ここで馬の改良にとりくんでいた。
 
 昭和五年四月、七十二歳の好古は高齢を理由に校長を辞した。他界するのは七か月後の十一月四日である。
 何か感じるところがあったのだろうか。

好古は五月に松山から和歌山の長次郎の別荘へゆき、夜は座敷で長次郎と布団をならべて眠っている。それから六月に上京し、西銀座の新田ビルの落成式に参列して、長次郎と一日一緒のときを過ごした。さらに七月、好古は脱疽(だっそ)におかされ、左脚が疼痛に襲われる不自由な身になっていたが、恒例になっている北海道行きの途中、わざわざ大阪へたちよってベルト工場を見学し、夜は長次郎の邸(やしき)のいつもの和室でともに枕をならべながら語りあった。、
 
「好古が別れを告げにきた。そんな思いが胸中をよぎった」と長次郎はのちにこの夜のことを語っている。
 時代はあいにく、金融恐慌のさなかだった。
 この夏、長次郎は大阪にとどまったため、好古と新田牧場で過ごすことはできず、この夜がふたりの最期となった。

十一月十日、東京の青山斎場で催された秋山好古大将の葬儀に臨席した長次郎は、東郷平八郎や鈴木貫太郎など居並ぶ将軍たちから、「あなたが、秋山君の親友の新田長次郎さんでしたか」と声をかけられ目頭を熱くするのだった。

 晩年の好古がなにかに憑(つ)かれたように通いつづけた新田昭栄(しょうえい)牧場は、いまも「十勝ワイン」で名高い池田町の丘陵地にある。大正時代に建てられた厩舎(きゅうしゃ)や草原のなかにのこる槲の大木が、牧場の昔日の面影をつたえ、変わることはない。 

長次郎の北海道進出は、槲の大樹林をもとめることからはじまったが、やがて長次郎は経営の多角化と北海道の大自然を後世に残すことに力をそそぐようになる。開拓で荒れた大地に幾種類もの樹木をうえて森をよみがえらせ、乳牛や競走馬の牧場を経営して産業にそだてた。 

新田昭栄牧場のあるあたりは、日本でも晴天率が一二位を競うほど高く、夏はいつもぬけるような青空がひろがっているという。

幕末にうまれ、明治という時代に生きたこのふたりの男は晩年、牧場の青空の下で何を語りあったのだろうか。育ちも経歴もまるで異なる好古と長次郎が互いに惹(ひ)かれあったのは、郷里を同じくしているということだけではなかったであろう。

 ふたりが共有していたものは何だったのか。
 家出同然に郷里をとびだし、「東洋のベルト王」となった長次郎の生涯にこそ、この問いかけへのこたえがあるように思われる。

(青山 淳平著・四六判 384頁・定価(本体1800円+税)・ 燃焼社)
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 このあと、しばらく小休止します。ご了承下さい!

4 件のコメント:

  1. しげやん^^おはようございます^^
    温山荘の建物も流石に古いですね!
    木造でこれだけの年数がもつものですね
    ところでしげやん小休止とは??
    ブログ書きすぎてしんどいの??ワハ

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  2. RE:       atitiさん
    温山荘は大正初期から築造にかかり昭和初期までかかって
    います。建物は大正時代の終わり頃ですから、100年弱
    経つと思います。建築材料は厳選された良材を使い、拵え
    もしっかりしてますから、まだまだ大丈夫でしょう。
    木材は腐らなければ、かえって金属よりも長持ちします。
    その証拠に、法隆寺や東大寺等古いお寺や神社が沢山あり
    ます。ただし、メンテがよければのことですが・・・

    しげやんのブログ、シリーズで続けて書いています。
    との処、「サクラ」「温山荘」について書きましたが、次に
    何を書くのか思案します。纏まるまで一寸お待ちください。
    それと、atitiさんを除いて常連さんは、ごく限られていま
    す。書いているワリに読む人が少ないのでどうしようか、と
    いうこともあります。少し時間をもらい考えてみたいです。

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  3. おはようございます♪
    秋山好古は、主人の大好きな歴史上の人物です。
    松山市に生家が再建されたと聞いて、早速訪れたほどです。
    生家は繁華街の中にもかかわらず、地域の方々が熱心に管理をされていました。大きな秋山大将騎馬像も建立されていました。
    昨今の「天下り」をかんがみるに、功なった後、故郷に戻り後進の育成に尽力した秋山大将の潔さを思うと感慨深いものがあります。また、その故に、後世になっても地域の方々にも深く敬愛されているのでしょうね。
    ところで、ブログを休止されるとのこと、お体が悪いわけではないでしょうね。
    たま駅長ニュースをお待ちしていますよ。

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  4. RE* EYASUKOさん
    昨年12月にNHKで司馬遼太郎の「坂の上の雲」を大河
    ドラマ化して放映がありました。今年、来年12月の3回
    に分けて3部構成で放送予定と聞いており、後編を楽しみ
    にしているのですが、1部を見る限り、好古は相当変わっ
    た人物のようで実際に質素で簡潔、金銭に無頓着な人物で
    あったらしく、いろいろ調べていて分かりました。
    また、風貌も日本人離れをしていて外国人と間違われた
    ことが多かったよう聞き及んでいます。
    お尋ねの体調はまずまずです。ブログ休止はしばらくの
    休止でほんの小休止です。かなりハイペースで来ましたの
    で、ウサギとカメの、ウサギです。ご安心下さい。

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