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2010年10月24日日曜日

24日・お知らせとお願い!

 秋の深まりとともに秋の夜長を楽しめる候となりました。
このブログも”気侭に、気の向くままに”綴って早や10ヶ月、この間、お越し頂いているみなさんにはまことにありがたく厚く御礼申し上げます。

 最近では郷土の誇る「温故創新」をテーマに編集主体に記事を綴っておりますが、創作性はなく”独断と偏見に満ちた独りよがりの自己満足”になっているのでは?
といささか危惧しており、これから先の継続にはわたし自身疑問をもっております。
 
 ところで、わたしの「ブログ」には残念ながらカウンターが備わっていません。
 したがって、果たしてどのくらいの方がお訪ね頂いているのやら、皆目見当がつきません。
 「コメント」を熱心に書き込んでいただけるお方は極ごく限られ、みなさんは「楽天プラザ」の会員さんで電車の相互乗り入れのようにブログの「お気に入り登録」がうまくできないのではと案じています。

 ついては、この月末まで小休止いたし、その間みなさんから率直な忌憚の無いご意見をお伺いしたうえで、これからの方向付けをいたしたく存じます。
どうぞ、ご意見をお聞かせ頂けるようコメントをお寄せください。

 では、秋の夜長の徒然に、「たまステーション」の「たまカフェ」でごゆるりとお寛ぎ下さい!!!

その前に「世にも珍しい!おそらくはじめてのネコ前結婚式が「たまステーション」で挙行されました!!!そのスナップをご紹介しておきましょう。


”末永くお幸せに!「たま前挙式」”
24日午後12時30分から、和歌山電鐵貴志駅舎前で、「にゃん前挙式」が挙行されました。両家の親族のほか、乗客のみなさんもお二人の晴れ姿をしっかりと見届け、たま駅長は、新郎新婦の「永久の誓い」の証人となりました。末永くお幸せに!!!

(左・「たま駅長」右・「たま駅長代理」の「ぬいぐるみ」(日曜日・夜間勤務))











2010年10月20日水曜日

20日・「稲むらの火」に見られる濱口梧陵の偉業とその精神

”実業家であり政治家でもあった7代目濱口儀兵衛(梧陵)”
 
 初代濱口儀兵衛の後、2代教了、3代教寛、4代安六、5代灌圃、6代保平と続き、創業から約200年後の1853年(嘉永6年)、5代目灌圃の孫にあたる梧陵が、7代濱口儀兵衛を名乗りました。
 梧陵は1820年(文政3年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に家督を相続し、幕末の風雲の中で、家業を守りました。
 彼はヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、私欲を顧みない社会福祉事業や政治活動に心血を注ぎ、近代日本や郷土和歌山県の発展に大きな足跡を残しています。


”小学校教科書のも載った「稲むらの火」の主人公”


 

 1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った安政の大地震に際し、偶然紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。
 梧陵は村民を避難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。

 身の危険や財産を顧みないこの行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。
 のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、小学国語読本に採用されました。

「稲むらの火」の詳しい内容は下記のアドレスをクリック


      http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/

 


  

     昭和10年代の和歌山県広村の防波堤

”津波から守る防波堤の建設”ー現在も残る防波堤ー

 梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、1855年(安政2年)から4年間、銀94貫(4665両,現在換算で約3億5千万円)を費やし、この築造工事に従事した延人員数は56,736名に及び大津波で職を失った村人には失業救済で大いに貢献し、村の衰退を防いだ大防波堤の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、国の史跡に指定されています。













”人材の育成・学問の発展に貢献”
 
 幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、「稽古場」を開設しました。
 西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
 また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所が火災にあい、焼け落ちたときは300両を寄付し再建。
 また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)
 梧陵は、このように人材育成や学問の発展、社会貢献のため労やお金を惜しまない人物だったのです。

”幕末から明治維新へ。近代日本を建設した偉人の一人”

 幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。
 商人の身分にありながらその才能を見込まれ藩政改革を託され和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。
 また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、梧陵は新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡りましたが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなくなりました。 和歌山県庁内には、梧陵の功績を称え銅像が建立されています。勝海舟はいたく梧陵の死を悼み、のち遺徳を偲ぶ碑に文をささげています。

”梧陵が生きた時代”

 梧陵は幕末から明治の激動の時代に活躍しました。ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫った時には、「いまや世界の大勢を見るに、何れも門戸を開放して、対外に交際せざる国なし」と喝破し、その意見を耳にした老中小笠原壱岐守と後日会談したと記録に残っています。また、当時の知識人たちとも親交が厚く、福沢諭吉の直筆文の中で「博識の人なり」と評されています。

◎梧陵の思想・”済世安民(世をうまく治め、民心を安定させる)”
※濱口梧陵のことは和歌山県HP.「紀の国の先人たち」に載せられています

2010年10月17日日曜日

17日・「稲むらの火祭り」と救世主・濱口梧陵

 秋たけなわの季節、各地で盛んに祭りが行われていますが、昨16日夕方地元広川町で「稲むらの火祭り」が行われました。この祭りは今から百五十数年前の安政元年安政の大震災の地震と津波によって全国的に多数の人命が犠牲となりましたが、地元和歌山の広村にも地震と共に大津波が襲ってきました。
 これに気付いた濱口梧陵は収穫を終えた稲の「稲むら」に火を放ち暗闇のなか村人を高台にある村の鎮守の「広八幡神社」へと村人を誘導し、尊い人名を救助しました。
 
 防災の先駆者とも讃えられる梧陵はこれだけではありません。再び襲ってくるかもしれない津波に備えて家や田畑を流された村人に失業救済を兼ねて強固な堤防を自費を投じて数年を掛けて構築し、「生ける神」としてその偉業が今に讃えられています。
 
 この火祭りは梧陵の遺徳を称えるとともに防災への意識を高揚するため地元広川町を挙げて、毎年行われている行事です。
 今回は「稲むらの火」と地元紀州が生んだ偉人濱口梧陵に人となりについて2回に分けて紹介することにします。では、「稲むらの火祭り」から・・・

 




 


 津波から村人の命を救った浜口梧陵(はまぐち・ごりょう)の功績をたたえ、市民が松明(たいまつ)を持って町内を練り歩く「稲むらの火まつり」が、16日夜、広川町で行わた。 実行委員会の主催で毎年この時期に行われています。
 まつりは、午後4時から広川町役場前の稲むらの火広場での式典で幕を開け、歌や太鼓などが披露されたあと、午後6時からの「火祭り行列」では、市民らが役場から広村堤防を越えて、広八幡神社までのおよそ1.7キロを、燃えさかる松明を手に練り歩き、梧陵が村人たちを高台へ避難させる様子を再現します。


 一方、広八幡神社の境内では、午後6時40分ごろから「平安の舞」の奉納や、炊き出しなどが行われます。実行委員会では「参加する人も見る人も、この祭りを日頃の防災意識を高める機会にして欲しい」と呼びかけています。

 『稲むらの火祭り
かつての小学校の国語教科書(地元小学教員・中井常蔵作)や、ラフカディオ・ハーンの小説「A Living God]でも伝えられなかった本当の「稲むらの火」です。濱口梧陵の偉業「百世の安堵を図れ」はこの実話の中に生きています。
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1 枯れた井戸の水
今から150余年前のある冬の朝、広村に地震*が起こりました。
いつもと違う海に、村人たちは津波を心配して広八幡神社に避難しましたが、被害がなかったことを喜びあいました。
ところが次の日のお昼過ぎ、あわてて梧陵さんの家にかけ込んできた村人が言いました。
「えらいこっちゃ、井戸の水が枯れているぞ!」
*1854年(安政元年)12月23日午前10時に起こった、のちに安政東海地震とよばれた地震です。全国で2000~3000人がなくなりました。
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2 大地震だ!津波だ!
 夕方の4時。きのうの地震とは比べものにならない大きな地震*が起きました。
家が倒れ、かわらが吹き飛びました。ドーッという、大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲がみるみる広がっていきました。
そしてついに大きな津波が押し寄せてきました。「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」
梧陵さんは波にのまれながらも必死で村人たちにそう叫んで、広八幡神社へと避難を呼びかけました。
*この地震はのちに安政南海地震とよばれ、全国で数千人がなくなりました。
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3 命の火、「稲むらの火」
 津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、今度はすごい勢いで海へ引いていきました。
あたりはひどいありさまで、おとなも子どもも家族をさがして叫びまわっています。
梧陵さんは、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからずさまよっている人がいるにちがいないと考えました。
とっさに、「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積み上げられた稲の束に火をつけてまわりました。すると、逃げおくれた村人が次から次へと火を目指して丘にのぼってくるではありませんか。「ああ助かった、この火のおかげや」9人目の村人が避難を終えたそのときです。さらに大きな津波*が押しよせて、稲むらの火も波に消されていきました。
*このときの津波がいちばん大きく、この後も何度も津波が押し寄せては引いていきました。
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4 生きる希望

 


 津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりでした。
村を捨てて出て行こうとする人もいました。梧陵さんは考えました。「このままでは村がほろびてしまう。広村で生きていける方法はないものだろうか…。よし、浜に堤防を築こう。村人に働いてもらってお金を払い、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ。」
地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、梧陵さんは家族や店の人*に村を守りぬくための協力を求めました。
*梧陵さんの家は、広村と千葉県の銚子というところで昔からしょうゆを造っていました。店や工場ではたくさんの人が働いていました。
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5 広村堤防
 広村の人たちは、梧陵さんの決断に心の底から感謝しました。畑の仕事や漁の仕事をしながら、一所けん命に働いて堤防を造っていきました。4年がかりで大きく立派な堤防が完成し、海側には松の木を、土手には、はぜの木を植えました。
長い年月がたちました。広村に大波がおそってきましたが、村は堤防のおかげで守られました。大きい地震*があったときにも、津波は村に入ってきませんでした。
今も広村堤防は広川町の人びとを守り続けてくれています。
*1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が起こり、4mの津波がおそいましたが、堤防に守られた地域は無事でした。
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 つぎは村人を救っただけでなく村人の失業対策を兼ねて村に強固な堤防を築いた紀の国が生んだ偉人・濱口梧陵その人を紹介することにします。

2010年10月13日水曜日

13日「ピンクリボン」と地元が生んだ医聖・華岡青洲

 地元の「温故創新」を発信するブログです!

ピンクリボン(Pink Ribbon)」とは、乳がんの正しい知識を広め、乳がん検診の早期受診を推進すること、などを目的としてに行われる世界規模の啓発キャンペーン、もしくはそのシンボル。
日本人女性のうち、乳がんを発症する割合は約20人に1人と言われており、また、乳がんで死亡する女性の数は年間約1万人弱とされ、そのキャンペーンは年を増すごとに拡大しています。

 
 いまから206年前、全世界で初めて全身麻酔による「乳がん手術」を成功させた世界的に医聖と称される医師が地元にいた。
奇しくもきょうが世界で初めて「通仙散」の全身麻酔でみごと乳がんの手術に成功した記念すべき日、その10日後が彼の生誕250年に当たる。有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」でその名を全国に知られた華岡青洲その人である。 
 彼の生誕の地である地元紀の川市を中心に記念行事が展開されている。

 今回は「華岡青洲の生涯とその偉業」と「生誕250年記念」して少数発売された記念切手フレームを紹介しよう。

華岡 青洲(はなおか せいしゅう)宝暦10年(1760)~天保6年(1835)ー世界で初めて全身麻酔手術に成功した医聖ー


 華岡青洲は、宝暦10年に紀ノ川中流域の紀の川市那賀町に生まれる。代々医者の家系であったため、父のもとで医学を学んだ。
 天明2年(1782)から3年間京都に遊学し、寝食を忘れて古医方、オランダ医学系統の外科学や儒学を学ぶ。この遊学時代に麻酔剤「麻沸散」を使って開腹手術をした古代中国、三国時代の医師、華佗の存在を知り、青洲は日本の華佗になることを決意する。
 当時切除により初期乳癌が治癒するという考え方は専門家の間にあったが、患部の切除手術には患者を無意識、無痛の状態にする必要があった。京都から帰郷した青洲は診療のかたわら麻酔剤の研究に努める。
 長年にわたる研究過程で、この当時としては新しい「実験」という手法を繰り返し、動物実験の成功後、自らの大切な妻と母を被験者として実験をおこない、曼陀羅華(まんだらげ・通称チョウセンアサガオ)を主成分とする麻酔薬「通仙散」を完成させる。
※「通仙散」の成分配合
・蔓陀羅華(マンダラゲ・別称チョウセンアサガオ) 八分/・烏頭(トリカブト) 二分/・ビャクシ 二分/・当帰 二分 /・センキュウ 二分/南星炒 一分
     (左・トリカブト 右・マンダラゲ)
 なお、このエピソードについては、有吉佐和子により『華岡青洲の妻』として小説化、劇化され、よく知られているところである。
 
 青洲は帰郷19年後の文化元年(1804)10月13日に、老婦人の全身麻酔による乳癌手術に成功する。アメリカ人医師モートンによるエーテル麻酔の成功に先立つこと40年余の快挙であった。このニュースは華岡流医学として全国に伝わり、1800人を超える医師達が青洲の門を叩いたといわれる。 
文化10年(1813年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用される。ただし青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。文政2年(1819年)、「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった。

 現在、米シカゴ市にある国際外科学会の栄誉会館の日本室には青洲が、そして中国室には華佗が顕彰されている。また地元では青洲の生家であり、病院・医塾であった「春林軒」が移築・復元されるとともに、「青洲の里」として整備され、数多くの遺品を展示し、彼の業績を紹介している。









 下は青洲の医療に対する考え方を示した言葉です
” 内外合一(ないがいごういつ)
活物窮理(かつぶつきゅうり)”
 内外合一とは、「外科を行うには、内科、すなわち患者さんの全身状態を詳しく診察して、十分に把握した上で治療すべきである」という意味です。活物窮理とは、「治療の対象は生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っている。そのため、人を治療するのであれば、人体についての基本理論を熟知した上で、深く観察して患者自身やその病の特質を究めなければならない」という教えです。内外合一、活物窮理はわずか八文字の言葉であるが青洲の医療理念であり、人生哲学でもありました。

      (左・「春林軒」主家 右・「春林軒」全景)

 「青洲の里」アドレス・ http://seishu.sakura.ne.jp/
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華岡青洲生誕250年の記念切手販売 地元紀の川・岩出市で! 10月8日

「華岡青洲生誕250年」を記念する切手

 今月23日は、世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した紀の川市出身の医師、華岡青洲の生誕250年の記念日。これにちなんで、青洲を題材にしたオリジナルフレーム切手が、紀の川市と隣の岩出市の郵便局で販売されている。

 紀の川市と郵便局株式会社が制作。図柄は青洲の住居兼病院、医学校「春林軒」や青洲の肖像画、青洲が考案した手術器具「コロンメス・バヨネット型剪刀」「曼陀羅華」など10枚で、価格は1200円(税込み)。1200部が作成された。同市西野山の「青洲の里」でも販売されている。中村慎司市長は「切手発売をきっかけに多くの人に青洲の偉業を知ってもらいたい」と話している。

 この他生誕250年記念行事として2日~31日まで「青洲の里」で特別展、23日の誕生日には記念シンポジューム、24日には「青洲まつり」が予定されている。 

2010年10月10日日曜日

10日・双子のパンダの赤ちゃんの命名とお披露目です(和歌山・白浜)

 地元の「温故創新」に関わる話題を紹介する「ブログ」です。
 今回はほほえましくてまことにおめでたいおハナシです。
そう地元白浜で双子のパンダが誕生しその命名式とお披露目がありました。


 わたしたち「海浜」と「陽浜」です 双子パンダ命名10月9日



 




 
 

 オスの海浜(左)とメスの陽浜=8日、和歌山県白浜町のアドベンチャーワールド


 和歌山県白浜町の観光施設「アドベンチャーワールド」で、2ヶ月前の8月11日に生まれた「双子のパンダ」の名前が決まり、8日、命名式があった。
 オスは「海浜(カイヒン)」、メスは「陽浜(ヨウヒン)」。
公募で寄せられた約1万5千通の中から選ばれた。

 海浜は「おおらかな海のように人々にやすらぎと希望を」、陽浜は「明るい陽光のように人々に笑顔と幸せを」との願いを込めた。命名式には、名づけ親となった同県田辺市の市職員壺井愛さん(30)ら大勢の人が詰めかけた。
 
 この日の体重測定では海浜が2515グラム、陽浜が2445グラム。生まれて約2カ月で20倍近くに成長した。双子の公開は屋内運動場で午前9時45分と午後3時から各20分ずつ。同施設ではこの双子を含め8頭のパンダが飼育されている。

「双子のパンダ誕生」 和歌山のアドベンチャーワールド・8月12日









(左) 生まれた双子の赤ちゃん=アドベンチャーワールド提供
(右) 赤ちゃんを抱く良浜=アドベンチャーワールド提供
 
 国内最多の6頭のジャイアントパンダを飼育する和歌山県白浜町の観光施設「アドベンチャーワールド」は12日、双子のパンダが生まれたと発表した。
 メスの良浜(ラウヒン、9歳)が11日午前7時44分から午前8時3分にかけて出産。1頭目がオスで158グラム、2頭目がメスで123グラム。いずれも元気だという。
 アドベンチャーワールドによると、3月下旬にオスの永明(エイメイ、17歳)と自然交配した。同施設では2003年以降5回あったパンダの出産がいずれも双子。担当者によると、世界的にも珍しいという。
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パンダの育成には世界的に定評がある{アドベンチュァーワールド」(和歌山・白浜町)の育成実績について下記に書いておきます。

中国との協力で進められているジャイアントパンダの繁殖研究事業では、現在までに12頭の繁殖実績があり、うち9頭が無事に成長している。これは、出産頭数、成長した子供の数、ともに中国本土を除けば世界最多である。また、アドベンチャーワールドは中国以外で双子のパンダを両方とも育てることに成功した唯一の施設である。
日本では、10年9月10日現在、王子動物園とアドベンチャーワールドを合わせて9頭のジャイアントパンダが飼育されているが、そのうち、実に8頭がアドベンチャーワールド内で飼育されている。
 中国本土以外の動物園で8頭も飼育されているのはここだけであり、世界一の規模である。
 
 地元白浜町では、このジャイアントパンダを最大の集客材料と位置づけており、白浜町役場には「パンダの町白浜」の掲示が行われている。
飼育されているパンダ
    「(愛浜(アイヒン)と明浜(メイヒン)」
• 永明(エイメイ)雄・1992年9月14日北京動物園(中国)にて誕生
• 良浜(ラウヒン)雌・2000年9月6日アドベンチャーワールドにて誕生
• 愛浜(アイヒン)雌・2006年12月23日アドベンチャーワールドにて誕生
• 明浜(メイヒン)雄・2006年12月23日アドベンチャーワールドにて誕生(愛浜と双子)
• 梅浜(メイヒン)雌・2008年9月13日アドベンチャーワールドにて誕生
• 永浜(エイヒン)雄・2008年9月13日アドベンチャーワールドにて誕生(梅浜と双子)
• 海浜(カイヒン)雄・2010年8月11日アドベンチャーワールドにて誕生(父:永明,母:良浜)
• 陽浜(ヨウヒン)雌・2010年8月11日アドベンチャーワールドにて誕生(父:永明,母:良浜)
※補足: アドベンチャーワールドで生まれたパンダの名前は、白浜町に美しい砂浜をもつ白良浜などの海岸があることから、2文字目は「浜」に統一されている。

2010年10月6日水曜日

6日・「たま電車」内で幼稚園児に楽しい絵本の読み聞かせ

 絵本がいっぱい「たま電車」「わかやまNPOセンター」が絵本175冊貸与!

                  絵本に見入る園児たち=和歌山市 
               たま電車車内
 和歌山電鉄(和歌山市)の猫の駅長たまのキャラクターがデザインされた「たま電車」内に、車内で自由に読める絵本や児童書175冊が新たに配備された。

 たま電車には以前から約240冊の絵本が置かれ、移動中の親子連れらに利用されてきたが、和歌山市美園町5丁目で絵本図書室を開いている「わかやまNPOセンター」が今回、絵本などを新たに無償貸与した。絵本図書室の分店「絵本ぐるぐるinたま電車」と名前を付け、今後、半年ごとに本を入れ替えるなど、センターが運営に携わる。

 去る9月30日、市立和佐幼稚園の園児約45人を招いて読み聞かせの会が開かれた。園児たちは「わーすごい」「きれい」などと歓声を上げて、大きな絵本に見入っていた。中嶋文也君(5)は「何冊も読んでくれてうれしかった。電車も窓とかイスにたまの絵がいっぱいでかわいい」と話していた。

 活字離れや本を読む慣習がうすれて来たこんにち、このように園児たちの大好きな「たま電車」内で大型絵本による楽しい絵本の読み聞か会はきっと子供たちに絵本に親しむ良い機会を与えたに違いない。これからもドシドシこんな機会を作ってあげて欲しいものだ。

 10月1日・模様替えした「たまステーション」と駅舎内の「たまパーツ」