ブログ アーカイブ

2010年3月31日水曜日

4月1日・今日は「新年度入りにエイプリル・フール・デー!」


   4月の花・左から「サクラ」「フジ」「チューリップ」



 

今年もはや、4月を迎えた。今日4月1日は365日の内の1日というのではなく、特別意味がある「1日」ということではないだろうか?すなわち新年度入りのスタートの日である。

「暦」にはカウントの仕方が、暦年と(会計)年度との両方があって、我が国では新暦で新年が1月1日、役所や大半の会社は今日4月1日から「新年度入り」ということになる。
 そうそう、今日はもうひとつ、「エイプリル・フール」の日でもある。
 そういう訳で、きょうは「新年度」と「エイプリル・フール」についての雑学を披露しましょう。



「会計年度のはなし」・「役所の一年は4月から・・・」         
 
 暦における一年の始まりは1月ですが、日本の社会生活にはこれとは別に4月始まって翌年の3月まで続く1年の周期があります。これが会計年度。単に「年度」と言っても通じるほど我々の生活に浸透しています。

 さて、このように生活に深く浸透している会計年度、どのようにして生まれ、どうして4月からとなったのでしょうか?江戸時代には将軍さまに御台所さまも、われわれ庶民も師走の大晦日まで大忙し、明けて新しい年を迎えました、と云っても、当時は旧暦でしたが・・・それに勘定は盆暮れ勘定の超信用経済時代。

 これとは、異なりいまは、暦による「年」と「(会計)年度」が並立している。
I.「会計年度とは?」 
 
そもそも会計年度とは何でしょうか?「会計年度」を辞書で調べると、「予算を執行するための一定の期間。日本の官公庁では4月1日に始まり3月31日に終わる。」と言うようなことが書いてあります。
 
予算の執行・・・ということは役所に限った話しではありませんが、4月から始まる一年間を会計年度としたのは、「お役所」からと言って間違いないでしょう。

 官公庁の会計年度が4月1日から始まる1年間と言うことは、しっかり法律(財政法や地方自治法)によって定められています。ですから年度末にあたる3月頃になると、その年度の予算の帳尻を合わせにお役所は躍起となるのです。そして役所がらみの道路工事が3月頃になると増えるというわけです。

現行の法律による会計年度の期間
1.財政法・地方自治法によって、国、普通地方公共団体の会計年度は、毎年4月1日に始まり、翌年3月31日に終わるものとする。と定められています。
2.会計年度はいつからある? 
 現在のような4月に始まる政府機関の会計年度は明治19年(西暦1886)から始まったものです。ざっと120年ほどの歴史と言うことになりますか。(都道府県、市町村はやや遅れて明治23年と明治22年から)
3.なぜ会計年度が出来たのか 
 
今は当たり前のこととして受け入れてしまっているこの会計年度ですが、どうして暦の一年と同じく1月に始まって12月に終わるものでは無いのでしょうか。わざわざ二種類の一年を作る必要がなぜあったのでしょうか?

1.税金徴収の都合
 暦年と異なる会計年度が必要な理由として挙げられるものに、税金徴収の時期があります。かつての日本は、主たる産業が農業(主力は稲作)でしたから、政府が税金として徴収するの主な財源も当然この農業に対して課税したもの(地租)でした。
 稲作の場合、その収穫時期はもっぱら秋。税(地租)は物納ではなくお金で徴収しましたから、秋に収穫した米が現金化されてから徴収というのが一番無理のない姿。とすると、税金の徴収が一段落して、収入がハッキリした段階で、次の「一年」の予算を定めて実行に移すタイミングとしては、4月頃が都合がよいのです。

2.そしてもう一つの理由
 明治のはじめの頃は、会計年度の開始時期は何度も変更されています。最終的にイギリスにならって、4月からになりました。 日本の「会計年度」の始めが4月になった理由の一つは「イギリスが4月からだから」

 では本家のイギリスはなぜ4月からなのでしょうか。実は、イギリスの会計年度が4月からとなった理由にはイギリスのグレゴリウス暦への改暦が関係しているのです。
 イギリスがグレゴリウス暦を採用したのは1752年のこと。 1751年までは年初は3月25日だったと言うことになります。3月25日なんて半端な日付が「年の初め」とは何とも奇異に感じるかもしれませんが、この日付は古い時代の春分の日。つまりは、春分をもって一年の始まりと考える「春分年初」の考えかたの伝統が残っていたものなのです。
 
 1752年になって、イギリスでは諸外国とのやりとりの便を考えてグレゴリウス暦へと移行しました。
ついでに年初も至極まっとうに思える1月1日に変更されました。
まあ、これはこれで良かったのですが、そう簡単にいかない問題があります。これがお金の問題。「その年の支払いはその年のうちに!」が原則。
 
 暦を変えるのはいいですが年の初の日付の変更はすなわち、「年の終わりの日付の変更」と同じことですから、「その年の支払いは・・・」の期限が急に変更になってしまうわけです。
 
当時のイギリスでは中世以来の伝統として、「年の払いは、年明け後1週間まで猶予する」というシャレた習慣が残っていました。とすると、昔ながらの3月25日を年初とすると、3月31日はまだその猶予期間中。
 
それなら、税金も含めた1年のお金のやりとりは3月31日を〆切として精算するという方式に変えれば、今までの商習慣を少しも変えることなく、なおかつ、多少は区切り良い 「4月1日から翌年3月31日までを、経済活動の1年とする」とできると考えたのです。

 そして生まれたのがイギリスの会計年度です。

「かくして、お役所の1年は4月に始まる」 
 イギリスで18世紀半に行われたグレゴリウス暦への改暦の結果生まれた4月からの会計年度は、19世紀後半のお金に困っていた日本の明治政府へ伝わりこれが採用され、それから120年。

今でも日本のお役所はこの会計年度という4月から始まる1年のサイクルで活動しています。これに対して民間の会社では、特別決算時期を決められていませんから、その会社の自由に任せられていますが、お役所と合わすと、何かと都合が良いので、大方の会社は3月決算、4月1日から新年度が始まるとしています。

「会計年度の雑学」・よその国では?
暦年と会計年度が一致している国と、一致していない国は、さまざまです。
  国々の会計年度例
 年度期間 主な国
 暦年   中国・韓国・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・ロシア他多数
 4~ 3月 日本・イギリス・カナダ・デンマーク・インド・パキスタン他
 7~ 6月  オーストラリア・ノルウェー・スウェーデン・ギリシャ他
10~ 9月  アメリカ・ハイチ・ミャンマー他

(外国との関係)
 その中で当時の日本との関係から重要な国としてはイギリスとアメリカ。会計年度の初めはイギリスは4月、アメリカは10月。日本は、当時世界一の経済力を誇ったイギリスの会計年度に倣って4月としたのだと言われています。

(新学期・新学年)
 4月1日から翌年の3月31日を「年度」として括ります。 元々日本では、特に入学の時期は定められておらず、年中入学可となっているのが普通でした。1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定め、1888(明治21)年から全国一斉にこれにならうようになりました。
 ただし、大学や高等学校では欧米の習慣に合わせて9月に新学期を始めていました。

 4月1日生まれの人は、前年度の3月生まれの人と一緒に入学することになります。これは、学校教育法で保護者は、子女の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初から就学させる義務を負う。と規定しているためです。「年齢計算ニ関スル法律」では年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算スとし、「民法」第143条では年を単位として期間を定めた場合には、起算日の応答日の前日に期間が満了することとしています。

つまり、4月1日に生まれた人は、その6年後の3月31日をもって五歳の期間が満了することになり、その翌日の4月1日に始まる学年から小学校に入学するわけです。
------------------------------------------


エイプリル・フール・デイ
 4月1日はエイプリル・フール・デイです。この習慣はヨーロッパが発祥であることは想像できますが、いつ頃、どこで、どんな事が切っ掛けになって始まったのか諸説が別れています。
 

 この習慣が日本に紹介されたのは古く江戸時代からで、当時は「不条理の日」といい、普段、付き合いや義理を欠いている失礼をわびる日とされていました。
 軽い悪戯で嘘をついたり人を担いだりしても咎められないという風習が18世紀頃から欧米でおこり、日本にも大正時代に伝わってきました。「万愚節」などといっていたときもありましたが、今では「エープリル・フール・デイ」で、担がれた人を「四月馬鹿」と呼んでいます。

 エイプリル・フール・デイのルーツについては、いろいろな説が伝えられています。そのひとつが、ノアの箱船を起源とするものでノアは洪水がおさまってきた頃を見計らって、陸地を探すためにハトを飛ばすのですがハトは陸を見つけられずにノアのもとへ戻ってきます。伝説ではこれが4月1日とされており、「無駄なことをさせられる日」だというものです。
 
 一方、フランスでは、エイプリル・フールのことを「4月の魚(Poisson d'Avril)」といいます。一説によると、1564年国王シャルル9世がグレゴリオ暦を採用し一年のはじまりが4月1日から1月1日にうつされ、子どもたちは1月1日にお年玉をもらい、4月1日には誤魔化しの贈り物をやり取りしたことから始まったとされています。また、4月生まれは魚座ではないことから、「4月の魚=嘘」となったとも、4月になって暖かくなると、魚がいとも容易く沢山釣れることから由来している、ともいわれています。

 エイプリル・フール・デイの起源は他にも、キリストがユダに裏切られたのを忘れないように設けられたというもの、一日だけ主人と使用人が入れ替わるという古代ローマの逆さまのお祭りがルーツというもの。
 ローマではこの日だけは主人が奴隷に仕え、道化師が聖職者になり、といった逆さまのどんちゃん騒ぎが行われたといいます。いつもなら身分の一番高い人が座る席に道化(FOOL)を座らせて無礼講の君主(The lord of Misrule)としたことから、という異説もあります。
 
 こうしたヨーロッパ起源説に対して、アジア由来の説もあります。その昔、インドの仏教徒たちは、3月25日から31日までの一週間、座禅を組んで修行をしましたが、つらい修行が終わった4月1日には、悟りの境地から再び迷いの世界に戻ってしまうため、からかいの行事を行うようになったというものです。
 
 諸説がうずまくエイプリル・フール・デイの起源ですが、洋の東西を問わず、「嘘をついてもよい日」ということには違いがないようです。欧米、特にヨーロッパでは、放送局や新聞社といったマスメディアまでが大嘘の報道を流す、という日本では考えられないようなおフザケが行われます。
 
 過去にあった報道では「火星人が来襲した」、「国連が財政不足解消のため月の土地を一般に販売する」、「市内の運河に鮭が押し寄せてきて手づかみで取れる」、「欧州合同原子核研究機関(CERN)で新粒子発見」などといったものがあったそうです。 嘘は嘘でも、あとで笑えるユニークなもの、悪気のない嘘に留めておきたいものです。


 4月1日には、TVニュースでジョークニュースを報道したりといった事が広く行われています。インターネットが普及してからは、実用性のない冗談コメント募集が公開されたり、ウェブサイトではジョークコンテンツを公開するといったことも行われています。
  ジョークの規模についても、簡易なものから大きな労力をつぎ込んだものまで存在し、ウェブサイトにおいては個人発から大手企業発まであります。

 逆に習慣を逆手にとって、ありえない内容に見えて事実の内容であったり、翌日以降に「嘘ではない」「本当に実施する」といったウラのウラをかいた記事が書かれることもあります。これらのネタは、一種のファンサービスの行為にもなり、一種のお祭りとみなすこともできます。
 
 時に、閲覧者から嘘の情報の内容についての問い合わせが来ることもあり、以前には(BBC(英国放送協会)の「ビッグ・ベンのデジタル化」など)。ビッグ・ベン (Big Ben) とは、英国の首都ロンドンにあるウェストミンスター宮殿(英国国会議事堂)に付属する時計台 (Clock Tower) の大時鐘の愛称。この時計台は世界的に有名で英国を象徴するモデル、高さ96.3m、11階建て、1859年竣工と歴史ある建造物、この時計がデジタル化により時計の針が不要になり、この針をオークションするというニュースに、世界中がアッと驚いたといいます。

 恒例行事としてジョーク記事を作成している場合、『ネタ切れ』を防ぐためにその年度の時事的・風刺的な内容のジョークになっているものも多く、4月1日のみの刹那的なジョークではない、一年の総決算的な要素も持ち合わせていると見ることができる。

 なお、かつては通信社が配信した嘘記事を日本の新聞社が本当のニュースとして掲載したことがあったほか、2005年に日本の新聞社が掲載した「スマトラ沖地震の余波で沖縄南端に新島が出現」という記事を、韓国の新聞社がニュースとして掲載するなど、別のメディアが真に受けて情報元のメディアに騙されてしまった事例もあります。

 また、エイプリルフールに便乗し、4月1日に発動するコンピュータウィルスを設置するなどの犯罪行為が行われることもある。これらのなかには笑おうも笑えないハナシもあるとか、悲喜こもごもの一日となる。みなさんもこの種のジョークに振り回されない4月1日でありますように・・・!

 かつて東京新聞は「東京タワーが傾く。原因は足元の“おなら”」と嘘報道した(2006年)ことがあり、人々を驚かせた!


マジ?」「エイプリル・フール!」




人に迷惑をかける嘘はNG.笑って許せるシャレた嘘につとめましょう

2010年3月28日日曜日

3月29日・「サクラいろいろ!」ー俳句・和歌にみるサクラー

           (奈良・吉野山の山櫻)

 ”春に三日の晴れ間なし”のことわざ通り、昨夜から雨風で、雨はあがったが、花冷えなのか季節が逆戻りした今日のお天気である。

 一昨日27日は足を延ばして紀三井寺の桜を見に行ったが、わたしのところへ朝日新聞社のアスパラ・クラブから四季折々に「NEXT-AGE」が送られてくる。
 
 最近送られてきた「2010春」号をのぞくと、そこには女優の竹下景子さんの「奈良の都は咲く花の匂うが如く今・・」(遷都1300年祭開催中)と並んで、作家の森村誠一さんの「カメラとペンを持ってお花見に行こう!」が載っていた。 

そこには「ひねるより 一句一写の 花便り」とあり、”幻の 樹影を見たり 迷い花”の句が添えられていたこれが、いま流行りの写真俳句だそうである

           "歳月を 浮かべる酒や 霧の音”  森村誠一
    ◇                  ◇
 一昨日の紀三井寺の桜見物にはペンこそもって行かなかったが、カメラを持って行き、画像はきのうアップしたので、きょうはペンの代わりに昔からの有名な歌読み人に登場願い、自慢の俳句や和歌をご披露いただきパソコン画面での花見と参ろうか!

 われもまた 写真俳句 なるものを 見よう見まねで やってみるべし!
                                                     「桜を詠んだ和歌・俳句」あれこれ!

・さまざまの こと思ひ出す 桜かな    松尾芭蕉
・よし野にて 桜見せふぞ 檜の木笠  
・花の雲 鐘は上野か 浅草か

(花曇りの空に鐘の音が聞こえてくる。あれは、上野東叡山寛永寺の鐘か、はたまた浅草浅草寺の鐘か。芭蕉には、梅の句に秀句が多いのに比べて桜の句には見るべきものが少ない。そういう中で最も有名な桜の一句である。)

・行く春や 白き花見ゆ 垣の隙     与謝蕪村
・さくら狩り 美人の腹や 減却す 
・花ちりて 身は下やみや ひの木笠 

・見かぎりし 故郷の山の 桜哉     小林一茶  
・あの鐘の 上野に似たり 花の雲
・桜花 何が不足で ちりいそぐ

・散る桜 残る桜も 散る桜       良寛

・桜咲く 前より紅気 立ちこめて     山口誓子

・山の日は 鏡のごとし 寒桜      高浜虚子

・観音の 大悲の桜 咲きにけり     正岡子規

・行く方に また満山の 桜かな     中村汀女

・夕桜 あの家この家に 琴鳴りて   中村草田男

(現代短歌)
・さくら桜 そして今日見る このさくら  俵万智
   三たびの春を われら歩めり

・花も葉も 光りしめらひ われの上に  若山牧水
笑みかたむける 山ざくら花


(和歌)
・花の色は 移りにけりな いたづらに
     我が身世にふる ながめせし間に
       小野小町 古今集・小倉百人一首

(桜の花の色はすっかりあせてしまったことよ。長雨がふっていた間に。わたしの美しかった姿かたちもおとろえてしまった。むなしく世をすごし、もの思いにふけっていた間に。)


・久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に
    しづ心なく 花の散るらむ
       紀友則 古今集・小倉百人一首

(「のどかな日のひかりのさしている春の日に、なぜ桜の花は静かな心もなく、このように忙しく散ってゆくのだろうか。」)

● 明日ありと 思ふ心の あだ桜、
   夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは   親鸞。

(今は盛大に咲き誇っていても、夜半に嵐が吹けば桜は一瞬にして散ってしまう。世は無常であって、やるべきことは必ずできる時にやって、明日桜を見に行こうというが如き気持ちではいけないということ。)人間のことを桜に例えて戒めた歌。親鸞が9歳の時、出家しようと慈円和尚の元へ行ったが、既に夜も更けていたので慈円和尚が「今夜はとりあえず休め」と言ったところ、この歌を詠ったとされる。

・しき島の やまとごころを 人とはば 
   朝日ににほふ 山ざくら花     本居宣長

(サクラは私たち日本人が古来からもっとも愛した花である。そしてわが国民性の象徴であった。宣長が用いた「朝日ににほふ山ざくらばな」という下の句に特に注目されたい。大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。自然に生じた、という意味では野生のものである。それは日本の風土に固有のものである。その性質のあるものは偶然、他の国土の花と同じような性質を有しているかもしれない。だが本質において、これは日本の風土に固有に発生した自然の所産である。
 また、私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものではない。サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。)(新渡戸稲造「武士道より」


・おしなべて 花の盛に なりにけり  
    山のはごとに かかる白雲   山家集 西行
・願はくは 花の下にて 春死なむ 
   そのきさらぎの 望月のころ   西行


・さざ浪や 志賀の都は あれにしを  
   昔ながらの 山ざくらかな  平忠度

・世の中に 絶えて桜の なかりせば 
    春の心は のどけからまし        在原業平

(世の中に桜というものがなかったなら、春に(桜はいつ咲くだろうかとか、雨風で散ってしまわないだろうかなどと)心乱されることはないだろうに。)




あす30日、明後日31日と2日間、お休みを頂き、4月から再開します。ご了承下さい!

2010年3月27日土曜日

3月28日・「紀三井寺のサクラ」

 わが国で「花」といえば、「サクラ」の花を指す。この日本人の「サクラ」の花好きは、どこから来たのだろうか?どういう遺伝子のなせる業なんだろうか?少しこれを探ってみよう!



 春を代表する花は、日本では「」、その次に「梅」ということになる。ところが俳句歳時記で「」の項をひくと、花一般をさすのではなく、「桜」に限定されている。
 つまり「花」といえば「桜」のことで、「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)の花も「人体冷えて東北白い花盛り」(金子兜太)の花もなのである。 
 いつ頃からこのようなことになったかというと、中古・王朝時代からのようだ。
それ以前はむしろ梅のほうが優勢だった。「万葉集」で詠まれた花のランキングを調べてみると、1位は萩で141首、2位が梅の118首、3位は松、4位は藻、5位は橘、6位は菅、7位は薄、そして8位に桜の40首あまりが位置する。梅のほぼ3分の1ほどしか詠まれていないのである。
 これが「古今集」になると、桜の53首に対して、梅は29首と逆転する。

 その理由としては、まず桜が日本にもともと在来し、東アジアに広く分布していたのに対して、梅は橘などと同じく中国原産で、奈良時代以前に渡来したものだという事情がある。
 外来のものへの好奇心や憧れは今日の私たち以上に強いものがあったはずで、梅は中国文化を象徴するものとして、当時の貴族たちの憧れの的となったのである。
 ちょうど明治以降のバラに対する日本人の嗜好には、西洋文化への憧れが濃厚に含まれていたのと同じである。

 桜は観賞用というよりも、当初は実用性において認識されていたようだ。福井県の鳥浜遺跡からは、5千年以上も前の縄文前期の弓が多数出土しているが、その中に桜の樹皮を巻いて補強しているものが発見されている。桜の樹皮を張り皮として茶筒や小箱に使ったり、曲げ物の綴じ目に用いたりする細工は今日にも続いている。

 木材としても、緻密で加工しやすく家具材や船材に利用され、「中華には梓を以書を刻む。日本には桜を用ゆ。材堅くして良材なり」(大和本草)といわれているように版木としても広く用いられてきた。浮世絵の版木もサクラの板を何回も削って再使用している。

 その桜が観賞用の花木として梅の地位を奪った背景には、視覚的な興趣がより重視されるようになった美意識の変化がある。
 「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし窓の梅ぞも」(古今―春上三三)と詠われているように、梅は色や形よりも香の面で尊ばれた。
 
 それに対して、咲き散る桜の花の動きや色の微妙な変化に一喜一憂するような鑑賞態度が生まれてきたのである。日本国語大辞典第2版には209もの「」を冠した熟語が収録されているが、その多くは桜の色を利用して作られたことばである。
  -------------------------------
 前置きは此のぐらいにトドメて、現実の「お花見」を楽しみましょう!いや「」より「団子」?  それとも”酒なくて なんの己が かな”? 
きのう27日は「3x9=27サクラに日」、久方ぶりの晴天に恵まれチョット紀三井寺まで足を伸ばしてきた。というのも、朝日新聞土曜日Beランキングに「一度は訪れたい桜の名所」がランク・アップされていて、これを見ると紀三井寺は第20位とあった。

 いまは6.7分咲きだが、このところの悪天候に逆戻りして強風に見舞われれば、まさに「花の生命は短くて・・・」ということになり兼ねない。

 そこでそういうことになる前に一度は見ておこうということで、一路紀三井寺緑道を一走りに相成った。
 それに、先にアップした松尾芭蕉の句碑も見たいから、流石に週末と快晴で人の波が続いている。頬にあたる風は冷たくて、日陰になれば肌寒いが、陽が射す処は心地よい。

 では、紀三井寺の「サクラ」を存分にお楽しみ下さい。お日様が射している明るい画像と暮れなずむ夕暮れどきの画像とを、両方アップしておきます。さらに紀三井寺から和歌浦湾の遠景の景観もカメラに収めて帰ったので、それともう一度芭蕉の「句碑」の画像も添えておきます。
 

(和歌浦遠景-紀三井寺より)





















(下・夜桜風景)












「芭蕉句碑」
 

”見あぐれば さくらしまふて 紀三井寺” 
 芭蕉の句碑は紀三井寺正面参道山門から登る231段の中程、清浄水の所にあります。 芭蕉は貞享4年(1687)に江戸を発ち旅に出ました。翌年和歌浦を訪ね桜見たさに紀三井寺まで足を伸ばしましたが・・・ときすでに遅し、あとのまつり!と相成った次第である!

2010年3月26日金曜日

3月27日・「3月27日はサクラの日」です!

  いざ往かん、桜は見ごろで天気良し!今日は「サクラの日」いま5.6分の咲きです!

 今年のサクラの開花は例年からみて早く彼岸入りの前ごろから「サクラの開花便り」が聞こえてきたが、ここ3.4日雨模様の悪天候続き、ようやく天候が回復基調、これだったら週末は「お花見」が楽しめそう!

 きょう27日は「日本サクラ協会」によると「サクラの日」だとか、27(3x9=27(サク)だそうで、多分に数字の語呂合わせである。

 ところで、サクラの木の寿命を調べてみた。そうすると、普通は6.70年だそうで、我が国のサクラの大半を占める「ソメイヨシノ」の殆どが寿命を迎えていると聞く。
 とりわけ日本人はサクラが大好き、花といえばサクラとなる。このサクラの花見を楽しめるよう、この桜の木の保存に全国各地に「桜守」がおられて、桜木の保存に当たられているそうだ。きょうは桜の木の寿命と、これを守る「桜守」のお話から始めよう!

※桜の木の寿命について。
 僧侶から桜の話を聞いたのですが、その時の話を。桜の木って寿命どのくらいだと思います??
 お寺は古くからの出来事を全て、書き残してありますので、どの木がいつ頃植えられたのか記録があるので分かるので、僧侶が庭師から教えられ、記録を調べて確認できた話なんですが、桜は普通、品種改良やすぐに栽培して増やすために、接ぎ木と言って他の木に枝を接いで栽培してますので、すぐに本数が増やせます。
 ですが、接ぎ木で栽培した桜の寿命はせいぜい60~70年で幹や枝が腐ってきて、折れるか枯れちゃうそうです。

 種から大事に育てた木だけが、樹齢200~400年とかになれるそうです。
種から育てた桜は、花が咲くかどうかは30年くらい経たないと分からないとかで中には数年で咲く木もあるそうです

 きょうはこの桜の木を守る「桜守」のことをまず最初に書いて、続いて27日「サクラに日」の話題と、地元にちなむサクラを愛でた歌・俳句をご紹介することにしよう。


 




           
       
      (京都・円山公園のしだれ桜)

 まず初めに「桜守」という言葉をご存知ですか? 
 桜の木の声に耳を傾け、各地の名木を守り続ける「桜のお医者さん」です。

 わが国で最も有名な「桜守」は京都在住の第十六代佐野藤右衛門、創業天保3年、代々御室御所に仕え、植木職人として御室仁和寺の造園工事に携わり、家業の植木屋を継承し、明治より造園業を営み14代目より滅び行く桜を憂い、日本各地の名桜の保存に努め、現在約200種を保存している。庭師十六代、三代目桜守を受け継いだ佐野藤右衛門さんは、桜と心を通わせ、桜を通して自然や生活環境の変化、日本人の心の変化を見続けてきました。

■「桜守」の仕事 ■
「人が桜を愛でるのはほんの数日やけどな、桜はそれ以外の季節も花や実のためにエネルギーを蓄えて、成長しようとしとるんです。  そして、日光、土、水、鳥、虫、周りの木・・・どれか一つとの関係が壊れただけで、弱って枯れてしまったり、自生できなくなるんですわ。 桜の声に毎日耳を澄ませて、周りの自然にも目を配らなあきまへん。 そうして桜が寿命を迎える日まで手塩にかけて守り続ける・・・この仕事に必要なんは、なによりもまず桜への愛情です。春になって、つぼみがふくらんできた状態を『笑いかけ』と言いますが、わしは桜がやさしく微笑むこの瞬間がいちばん嬉しいんですわ」。

■ 円山公園の枝垂桜 ■
「この枝垂桜は、わしの親父が命がけで守った桜ですわ。先代の桜が寿命で枯れた時、親父はその種子から育てていた若い桜をここに植え替えたんです。京都市の命令で親桜と同じ場所に植えなあかんかってんけど、実はこれが良くない。桜は連作に向かへん木です。なかなか花をつけへんかった・・・『ひんそうな桜やな』と陰口を言われながら、親父はこの桜を毎日のように世話して、ジェーン台風が来た時には、ずっと木にしがみついて幹をささえたんです。ほんま、命がけやったと思います。その後、だんだんと花をつけるようになって、今では見事な花を毎年咲かせてはる。たくさんの人に見てもろうて桜も親父も喜んでると思います。当時の親父の苦労を知ってる人はほとんどいはらへんけど、桜が一番よう知ってるはずですわ」
花見のマナー ■
「酔っ払って桜の根元に酒をこぼしたり、立小便するのはよろしい。土の栄養になりますから。しかし、ビニールシートはあきまへん。桜が呼吸できないんですわ。空気を通すゴザがよろしおす。根を痛めるハイヒールや、振動を伝えるカラオケも桜が嫌がります。桜も人間も、同じ世界で呼吸する生き物。ちょっとした配慮と、桜と対話する気持ちを持って花を愛でてほしおすな」
    ----------------------------------------------
 きょうは「サクラの日」に寄せて地元「紀州権現平桜」の「桜守」の話題と、地元の桜の名所の「サクラ」に寄せる歌や俳句をご紹介することとしよう。

 3月27日は「さくらの日」(ニュース和歌山3・24)  
  
 
 開花が早い今年の桜前線。例年なら見ごろの3月27日は日本さくらの会が定めた「さくらの日」だ。「日本を代表する花の桜への関心を高めよう」と「3×9(さく)=27」の語呂合わせで1992年に制定した。和歌山には「日本一の桜」と絶賛されながら一時壊滅し、和歌山市内の女性の尽力で、その美を後世につないだ桜がある。「紀州権現平桜(ごんげんだいらざくら)」。紀北には県植物公園緑花センター(岩出市東坂本)に1本残っている。



 再び日本一に? 紀州権現平桜、一市民の力で美受け継ぐ 

「紀州権現平桜」は、西富田村(現白浜町)から北米へ移住した6人が1901年、「故郷に報いたい」と同町の熊野神社に植樹した。紀南の山桜を改良した品種で、花は地元で評判を集めた。
 
 これを見た植物学者で、水上勉の小説『櫻守』のモデルとなった笹部新太郎氏(1887〜1978)が自著『櫻男行状』で絶賛。「この桜こそ今日以後の日本の桜の品種改良の基盤となるもの」と讃えた。しかし、戦中戦後の食料難で畑にするために神社の木は伐採。壊滅状態に陥った。
 
 復活のきっかけを作ったのは和歌山市の薬剤師、妙中康子さん(65)。妙中さんは94年、当時、京都大学教授だった山田康之さんの講演で、権現平桜の種がバイオで増殖され、西宮市で「西宮権現平桜」となり花を咲かせているのを知った。「和歌山のものなら和歌山へ戻してあげたい」と妙中さんは教授に直談判し、約2メートルの苗木を譲り受け、和歌山県の研究施設に育苗を依頼。接木で苗木を増やし、99年に大半を熊野神社に植樹し、毎年、花を咲かせている。

 県植物公園緑花センターには2002年に県林業試験場から一本を譲り受け移植した。現在、高さ約3メートル50センチで桜としてはまだ幼木。「紀州ふるさとの店」前で、細い枝を精一杯に伸ばしている。同センターの畑田和伸所長は「花びらは普通の山桜より大きい感じ。笹部さんは数多くの桜を見ており、目は肥えているはず。今は幼木ですが、孫子の世代にやっぱり『日本一の桜だ』となるかもしれない。大切に育てたいですね」。 
 
 権現平桜の開花は4月の見込み。妙中さんは「和歌山まで苗木を運んでくるのは大変でしたが、一本でも紀北に来てくれうれしい。紀の川土手沿いに権現平桜が並べばいいなと時々思いますね」と話している。
 緑花センターは午前9時〜午後5時。火曜休み。同センター(0736・62・4029)。
写真上=心なしか花びらが大きくみえる=2007年撮影
写真下=右は権現平桜。芽を確認する畑田所長
     ◇                 ◇

地元紀州に関わる有名人でサクラの花を詠んだ二人を紹介します。一人は「西行法師」その人であり、あと一人は本居宣長である。
 
西行は佐藤義清といい、秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘(紀の川中流域の現・紀の川市粉河町)の預所に補任されて裕福であった。

 16歳ごろから徳大寺家に仕えた。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面の武士としても奉仕していたことが記録に残る。 

和歌と故実に通じた類稀なる人物として知られていたが、同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。諸国放浪のほか高野山や吉野に庵を結んだ。サクラを人一倍愛し辞世の句ともいえる 

 ”願わくば 花にしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ”(この花は桜を指す。)

はあまりにも有名で、実際この歌の通り旧暦二月十六日に息を引き取った。

 あとの一人、本居宣長(享保15年(1730)5月7日生-享和元年(1801)9月29日没 享年72歳 )伊勢国松坂本町生、松坂魚町で内科、小児科医を開業、29歳 松坂魚町宅等で古典講釈塾を開き『源氏物語』等町人に教える、34歳☆ 江戸の国学者賀茂真淵氏と一夜対面、翌年入門、通 信教育で指導を受ける(賀茂真淵氏死去まで約6年間)。63歳 紀州徳川家(五十五万五千石)に仕官(但し松坂住み)、資格は医師ながらもっぱら古典講釈をおこなう。没年までに和歌山に三度出府し藩主、また清信院に進講する。わが国随一の国学者、その子孫等も代々紀州藩に仕えた。

 彼の「山櫻」に喩えて「大和心」を詠った歌はこれまた有名で、前の世界大戦時に、散り際の潔さが特攻隊の精神にと軍に悪用され、もてはやされたことでも有名である

 ”敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花”

 そうして、あともう一人は、旅は百代の過客にしてで有名な松尾芭蕉である。
芭蕉は春とサクラを追って和歌浦・紀三井寺を訪れ、句を遺している。この句碑が紀三井寺にあり、「花見」の折、この句碑を訪ねることができるので、おマケに加えておこう


「芭蕉句碑」
 

 ”見あぐれば さくらしまふて 紀三井寺”
 

芭蕉の句碑は紀三井寺正面参道山門から登る231段の中程、清浄水の所にあります。 芭蕉は貞享4年(1687)に江戸を発ち旅に出ました。翌年、名勝・和歌浦に来て、こんな句を残しています。

  ”行春を 和歌の浦にて 追付たり”
 
 当時45歳だった芭蕉は51歳で亡くなっているので、晩年に近かったと言えるかも知れません。老俳諧師は春を追いかけて南へ南へと旅を続け、和歌の浦まで来てようやく春に追いついたと思ったのでしょう。 
芭蕉はその足で紀三井寺にも参り、冒頭の「見あぐれば…」の句を物したのです。                                                              歌の浦でやっと春に追いついたと思い桜見しようと喜び勇んで紀三井寺に来たら、もう桜は無かった…。旅人の落胆する気持ちが素直に出た句だと云えます。

 

2010年3月25日木曜日

3月26日・「徳川夢声の話術」その3.ー夢声の俳句ー

        写真は昭和三十一年三月、菊池 寛の墓参りをする徳川夢声。

 徳川夢声の「話術」について、いろいろ述べてきました。「座談十五戒」にもあるように、結局分かりやすい平凡な言葉で、至極あたり前に喋る、ということではないでしょうか

 彼は俳句を好みました。俳句はご存じ五七五の十七文字のなかに季節を初めあらゆるものを歌い込む、そうしてみれば如何に短い言葉で、如何に全体を表現するかが尊ばれる訳です。
 
古い中国の老子の言葉に、「天網恢恢疎にして漏らさず」(てんもうかいかい そにしてもらさず)というのがあります。この意味は平たく云えば、「天(神、自然の理法、摂理)の網は抜け穴だらけ、すきだらけのように見えるが、結局は悪は必ず その報いを受けていく」というほどの意味です。

 この言葉は、徳川夢声がいう「話術」の極意に通じるものがあると思います。なぜなら短い言葉で、全体をすべて表す、ということになるのではないでしょうか。

そこで、彼が好んだ俳句から、いくつかを引き彼の考え方に迫ってみたいと思います。

 
 俳句好きな彼は、1934年(昭和9年)から久保田万太郎が宗匠の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及びました。号を「夢諦軒(むていけん)」といいました。戦時下の句に〈口軽き吾れを悔ゆるや豆の花〉とあるが、言論の不自由な当時、とがめられる舌禍があったのかも知れません。号は「無定見」の洒落である。定見がなく、その時々で自分に都合よく判断することをご都合主義というが、彼はユーモアにも秀で自虐的なブラックユーモアにも巧みであったので、「夢諦軒」と称し、軍国主義のオカミに盾突いた心境だったのであろう。彼は毎日のように俳句をつくり続けたので、膨大な凡作の山ができたそうです。

※いとう句会
昭和9年4月より、渋谷・大和田町の「いとう旅館」にて催された句会。久保田万太郎を宗匠に、「万太郎人脈」に連なる作家、編集者、画家、俳人、俳優、実業家らが参会し、句会というより「文壇サロン」の色合いが濃かった。
  同人には、久米正雄、高田保、徳川夢声、渋沢秀雄、川口松太郎、堀内敬三、森岩雄、佐佐木茂索、宮田重雄、内田誠、秦豊吉、五所平之助、小島政二郎、大場白水郎?、伊志井寛、小絲源太郎?、らが名を連ね、富安風生、水原秋桜子、中村汀女、獅子文六、永井龍男、車谷弘、柳永二郎、籾山梓月、小寺健吉、安住敦、戸板康二らもたびたび参加しました。

 名の由来となった「いとう旅館」は戦災で消失し、会場は田園調布にある渋沢秀雄邸に変更。『いとう句 藻』(私家版、昭和11年7月)、『いとう句会壬午集』(私家版、昭和18年5月)『句集・いとう句会』(いとう書房、昭和23年10月)、『いとう句会随筆集・じふろくささげ』(黄揚書房、昭和23年2月)など句集や随筆集も少なくない。昭和38年に要である万太郎が急逝し、同人も相次いで物故。昭和40年代には、その歴史に幕を閉じました。



夢声が詠める句4首と名言1言

雪の夜 長き「武蔵」を 終わりけり

徳川夢声というひとがいた。ラジオがまだ娯楽の王座にあった時代、夢声の朗読は「話術の至芸」として日本国中知らないものはなかった。特に有名だったのが吉川英治の『宮本武蔵』の朗読で、その本物を聞いたことがない田舎の子供でも口真似ができたほどである。ラジオではNHKで昭和14年から15年まで続き、その後戦時国民意識高揚に18年から20年1月15日まで続いた。
 
 この句はその最後の日に作られたものである。夢声は俳句好きで久保田万太郎の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。日記代わりに作ったので膨大な凡作の山であるが、そこがいかにも夢声らしい。  「武蔵」の朗読は戦後復活し、昭和36年から38年に「ラジオ関東」で放送され、レコードになった。私達が聞いたのはそれかもしれない。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。
________________________________________

 春の宵 歯痛の歯ぐき 押してみる

 この気分は経験者にはよくわかる。ずきずきする歯ぐきを、本当は触りたくないんだけど押してみる。押すことによって痛みを一段深く味わう、こんな倒錯した心理は、歯痛を経験したことのない者にはわからないだろうな、と半分は空威張りしているのだ。
 
 この素朴のようでいて下手でなく、平凡のようでいて非凡のような句の作者こそ誰あろう。戦前・戦後ラジオや映画で大活躍をした「お話の王様」徳川夢声。この句は、実は歯痛どころではない大変な時代の産物だった。時は昭和20年(1945年)3月13日、あの東京下町を焼き尽くした東京大空襲の3日後のこと。同じ頃の句に「一千機来襲の春となりにけり」「空襲の合間の日向ぼっこかな」とある。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。
________________________________________


 凍つる夜の 独酌にして 豆腐汁

季語は「凍(い)つる」。現在は1月7日までが通常「松の内」と呼ばれるけれど、古くは15日までが「松の内」だった。江戸時代には「いい加減に正月気分を捨ててしまえ」という幕府の命令も出たらしい。大きなお世話だ。掲出句の情景としては、妻が作ってくれたアツアツの豆腐汁に目を細めながら、気の向くままに独酌を楽しんでいる姿と受けとめたい。妻はまだ台所仕事が片づかないで、洗い物などしているのかもしれない。 

 外は凍るような夜であっても、ひとり酌む酒ゆえに肴はあれもこれもではなく、素朴な豆腐汁さえあればよろしい。寒い夜の小さな幸せ。男が凍てつく夜に帰ってきて、用事で出かけた妻が作っておいた豆腐汁をそそくさと温めて、ひとり酌む・・・・と解釈するむきもあろうが、それではあまりにも寒々しすぎるし、上・中・下、それぞれが切ない響きに感じられてしまう。ここは豆腐汁でそっと楽しませてあげたい、というのが呑んべえの偽らざる心情。豆腐のおみおつけだから、たとえば湯豆腐などよりも手軽で素っ気ない。そこにこの俳句のしみじみとした味わいがある。この場合「・・・にして」はさりげなく巧みである。
 
 現在、徳川夢声(むせい)を知っているのは60~70代以降の人くらいだろう。
活動弁士から転進して、漫談、朗読、著述などで活躍したマルチ人間。その「語り芸」は天下一品だった。ラジオでの語り「宮本武蔵」の名調子は今なお耳から離れない。渋沢秀雄、堀内敬三らとともに「いとう句会」のメンバーだった。「夢諦軒」という俳号をもち、二冊の句集を残した。「人工の星飛ぶ空の初日かな」という正月の句もある。『文人俳句歳時記』(1969・生活文化社)所収。
________________________________________

 不機嫌に みな眠りをり 夏の汽車

 もちろん観光などといったしゃれた旅ではない。夢声のことだから、仕事での旅で夜汽車に揺られているものと思われる。御一行はもはやお互いによく知った顔ぶれであって、特に珍しくもないし、もちろん気をつかう必要もない。仕事の疲れと夏の暑さゆえに、みなくたびれて無口になり、不機嫌な様子で目を閉じているのだろう。といって、本気で眠りに落ちているわけではあるまい。現在のような冷房車ならともかく、せいぜい扇風機がカタカタまわっている車内は、暑くてやりきれない。座席だって居心地良くはない。起きていてもつまらないから、無理に眠ろうとしてみるのだが、なかなか眠れそうにもない。句からは面々の不機嫌な様子が見てとれるのだけれど、どこかしら可笑しさも拭いきれないところが、この句の味わいである。
 
 作者も「やりきれんなあ」と内心で呟きながら、そこに少々の苦笑も禁じえない。快適な汽車の旅をただ満喫してはしゃいでいるようでは、詩にも俳句にもなろうはずがない。

 せいぜい今はやっているテレビの旅番組の、いい気なワン・シーンにしかならない。掲出句のような光景は、なかなかお目にかからないことになってしまった。♪今は山中、今は浜、今は鉄橋わたるぞと・・・・の歌が皮肉っぽく聴こえてくるようではないか。夢声には「青き葉のあまりに青し水中花」という涼しい夏の句もある。また2冊の句集『句日誌二十年』『雑記・雑俳二十五年』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。
________________________________________
 徳川夢声の名言・「不愉快なのは、自己的な親の方が愛情深い親よりも孝行者に恵まれることだ。」
 - 解説 -自分のなかで愛情深く接していると思っていても、相手にとって思っているように感じていると は限りません。自分の伝えたいことを明確にもちましょう

 
これにて徳川夢声に教わった「話術」のお話の幕を閉じます!

2010年3月24日水曜日

3月25日・「(徳川夢声)話術の続き(その2)!」


「徳川夢声・話術(その2)」

徳川夢声のすごい話術の巧さは、どこから来たものだろうか?
(ここに挙げた断片は徳川夢声「話術」からの抜粋です。いわばエッセンスといえる部分です。Pとあるのは掲載されているページです)



 以下にあるように話術にはハナシの内容もさることながら、マ(間)の取り方が大切なんです。世の中にマが抜けた人のことを「間抜け」と呼ぶではありませんか?また、間が悪い、間伸びしたとか、間が持てないとかに使います。このようにマ(間)は、われわれのとって塩・胡椒のように言葉の味付けに、如何に大切なものかをよくお分かりいただけたと思います。 みなさんも「間抜け」にならないように努めましょう!)

 前回「良い話をするには、別に雄弁を必要としません」という夢声の言葉を述べました。ハナシ方は訥弁でも、場合によってはドモリでも、心の良い人は、良い話ができます。

 もちろん、心が良き人で雄弁なら、それに越したことはありません。例えば、新渡戸稲造、福沢諭吉などという人々は、心も良くして雄弁だった実例でしょう。

 大隈重信、犬養毅、島田三郎、尾崎行雄、永井柳太郎など、むかしの政治家には、雄弁家が多い。
 ですが、しからば、これらの人々が、良き心の持ち主であったかどうか、それは疑問であります。

 けれども、こうした人々は、いずれも個性の強い演説をやっています。善悪にかかわらず、自分自身の人格を、まともにさらけ出して語っています。それが、この人たちを雄弁家たらしめたのであります。

 だから、彼らのハナシすなわち演説は、良き演説とはいえないかもしれない。しかし、聴衆を感動させる演説であったことは確かです。個性の魅力が、聴衆を縛りつけたのです。(pp. 31-32)

 司会者が、どうぞ五分間に、と注意したら五分間で終わらねばなりません。それを十分間も十五分間も喋っているのは、罪悪であります。それだけ、他人の時間をつぶすことになるからであります。

 五分と指定されて、十五分もやる人は、必ず面白くないスピーチをやるに決まっています。自分だけ好い心もちになって、長談義をするような神経では、とうてい、他人を愉快にするような芸当は思いもよりません。

 五分というと、大層短い時間のような気がしますが、実は相当の長い時間であります。大ていの話が、五分あればまとまるものなのであります。(p. 85)

「間」について
 ハナシに限らず、芸術と名がつくものには、音楽はもとより、美術、彫刻、文学、演劇、みな「マ〔間〕」が、重要な位置を占めています。目立たない、目に見えない重要な位置をです。

 日本画を例にとってみますと、ここに一幅の名画がある。(一)尺五(寸)の紙に、赤い唐辛子が二本描いてある――それっきりで、あとは画家のサインと印があるだけの、何にも書いてない白紙です。
 
 せっかく、まだたくさん書くところがあるのに、もったいない話だ、などと思ったら落第です。
それが名作である以上、その空白も一杯に詰まっていて、一点の加筆もゆるさないはずであります。
 同時に、その二本の唐辛子が、上下左右、どちらに一分一厘動いても、画面全体の調子がくずれるはずです。

 つまり唐辛子と、広い空白とが、動きのとれない調和・バランスを保っているからであります。ハナシで申すと、唐辛子やサインや印が喋ってる部分、空白が喋らない部分であります。すなわち、この空白が「マ」なのであります。

 「じゃア、ベタ一面に描いてある、西洋の名画は、マがないじゃないか?」という疑問が出ましょうね。  なるほど油絵具は隅から隅まで塗ってあります。何か描いてあります。
 しかし、焦点はちゃんと定まっていて、日本画の空白に比すべきところは、画面のいたるところに置いてあります。バランスが、みごとにとれています。「マ」がちゃんとあります。

 彫刻も然りです。乳房のふくらみを、美しく表わすためには、その周囲に「マ」の役をつとめてる部分が、必ずあるわけです。それなくしては、乳房が彫刻家の想う通りに、ふくらみません。

こうして考えてまいりますと、「マ」とは「沈黙」なり、では誤解を生ずるかもしれません。

――「マ」とは虚実のバランスなり。
 こう申すと、また別の「マ」の面が、おわかりかと存じます。(pp. 44-45)
高座に落語家が出てきました。彼は、高座に姿を現わし、中央まで歩いて、座蒲団にすわり、お辞儀をしました。

 ただこれだけで、この落語家は巧いか、拙いか見物にはわかってしまいます。
たったそれだけの動作、あるかないかの表情、その中にバランスの破れたところがあったら、これはもう拙いに決まっています。

 一人二人では鈍感な客も、大勢そろうと一種の連鎖反応が起こるでしょう。群集心理というものは、恐ろしい「勘」をもつものです。(p. 46)

 ハナシの場合でも、この「マ」が正確であるとき、聴衆は快感を味わい、陶酔の境地にまで入るのであります。いいかえれば、バランスに対する快感です。(p. 47)

――「マ」とは動きて破れざるバランスなり。
 〔「波瀾層々、起伏定マラズ」〕これこそ、演壇話術における「マ」の問題を暗示しているものです。

 波が、次から次へ、層々と押し寄せてくる、しかもその高低はけっして単調でなく、見ている人間の予想を超えたものである。もしも私たちが、この波の如くに語ることができたなら、聴衆は退屈しないでしょう。  
 

 事実、私たちが海岸の砂丘などに腰をおろして、打ち返す波をみて、ぼんやりと小一時間を過ごすことがあります。もしも、その波の運動が、判で押したように、何時も同じであったら、そんなに長くはみていられないでしょう。(p. 97)

 聴衆の耳に聞えていない部分が、聞えている部分と同様に重大なのである。聞えていない部分に、注意が行き届いていないと、聞えた部分までウソになってしまう。(p. 209)

3月24日・「成熟した会話のマナー」ー一旦口から出た言葉は決して元には戻らないー


 春の彼岸の間はブログを、しばしお休みさせて頂き、彼岸明けに「言葉のマナー」についてコメントしようと思っていたところ、選抜高校野球の試合終了後、大方の予想に反して敗北した強豪高校の監督さんが、インタービューに応えて発言した言葉が、とんでもない暴言であったと大きな反響を呼び、この言葉を巡ってその発言の真意を弁明するなど、この発言を巡って大きな渦がうず巻いている。

 一旦口から発した言葉は決して元には戻らない
 "覆水盆に戻らず”の譬えどおり、われわれも口から言葉を発するときには、よほど慎重に発言しなければならない。
 自分の発言に対して、国民に「誤解」を与えたことにお詫びするとは、政治家がいつも口にする常套文句であるが、わたしはそうは思わない。
 "火のないところに煙は立たぬ”の譬えどおり、「」を立てたのは政治家本人であり、「」を立てたのだから、結果として「」が出たのである。
 これを「誤解」という一言で片付けようとする政治家本人の心理が分からない。自分が発言したことは正しくて、これを誤って受け取ったのは国民の側にあると、そう海を隔てた隣の北朝鮮の金正日総書記と同じ発想なんだろう!
これまた、”頭隠して尻尾隠さず”のように、嘘がミエミエである。まさしく詭弁でなくてなんであろうか?

 丁度「言葉のマナー」について書こうと思っていたので、この件は反面教師として格好のモデルを提供してくれた。

ことの真相はこうだ。
<センバツ>開星監督「21世紀枠に負けて末代の恥」と発言(毎日新聞 03月22日)

 第82回選抜高校野球大会で22日、21世紀枠で出場した向陽(和歌山)に1-2で敗れた開星(島根)の野々村直通(なおみち)監督(58)が、試合後のインタビューで「21世紀枠に負けて末代の恥です。 切腹したい。 死にたい。」などと発言した。日本高校野球連盟は「事実確認をしたい」としており、発言の趣旨などを確かめる。
 野々村監督は「恥ずかしくて立ち上がれません」とも述べた。
 
 21世紀枠は、昨秋の都道府県大会ベスト8以上の学校などを対象に地域への貢献活動など野球以外の活動も加味して選考している。
 取材に対し、開星の大多和聡宏(あきひろ)校長は「監督と連絡がつかない」としながら「仮に相手に失礼な発言をしたのなら、礼儀に反すること。まずは事実関係を把握し、(監督に)指導すべき点は指導したい」と述べた。
 
 野々村監督は毎日新聞の取材に「相手を侮辱する気はなかったが、侮辱ととられたら謝りたい。負けた直後で冷静さを欠いていた」と話した。

 この監督さん、名前がノーノー(ムラ)ナオミチといい、余程の正直者とお見受けする。自分の思ったこととは反対には、ノー、ノーで、自分が思ったとおりなら、ナオミチ(直道)通り、まっすぐに突き進む、そうイノシシのようにまっすぐな性格なんだろう。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                 (クリックすれば拡大します)


「閑話休題!」 ハナシを元に戻そう!

 朝日新聞の土曜日には「Be」版という付録ページが付いていて、そこには日野原重明(聖路加国際病院理事長)『98歳・私の証、あるがまゝ行く』や磯田道央(歴史学者・茨城大准教授)の『この人、その言葉』等まことに興味深い読み物が連載されている。
 先週の日野原氏の記事は「成熟した会話のマナー」とあり、先にテレビの討論番組における討論や解説番組どの語りかけ方の未熟さについて触れ、「日本人と会話をテーマ」に考えようとして、氏は日本人同士の会話を聞いていると、「マナーを心得ていない人が多いことに気付きます。相手の意見を聞かず、自分の意見を長々と話す人が少なくありません。」と指摘し、医療現場の例を挙げ、医師は診察室で患者さんの病歴を聞きますが「こういうことがありますか?」などと、「はい」か「いいえ」 だけで答える質問、専門用語で「Closed question」という問いかけばかりしてしまう医師には、病気の本体が分かりません。
それに対して、「どんなことが起こりましたか?」「どのように進行しましたか?」などと、詳しく答える「Open question」をして、答えを考える時間も十分与えれば、患者のあるがままの状態を把握することができます。名医とは、このような質問が上手にできる医師をいうのです。とあります。

 氏は続いて、こうした会話のマナーは誰がいつ教えるのでしょうか。氏はまずは家庭、それも食卓で、親から子供へ正しいマナーが教えられていくべきものだと思います。口の中に食べ物がまだ残っているのに発言するのは、いかにも品がありません。また、人の話題を奪い取るかのように発言することもマナーに全く沿わない行動です。食卓のマナーは会話のマナーであり、ひいてはテレビ番組内での討論や座談の成熟にも繋がっていくものと思います。(以下略)とありました。


 話は変わりますが、このことによく似た話に、さきに挙げた磯田道央氏の『この人、その言葉』シリーズに、約一月半ほど前に載せられていた、話術の達人といわれた「徳川夢声(1894-1971)」の「良い話をするには、別に雄弁を必要としません」という文章がありました。

 ご存知、徳川夢声氏は森繁久彌氏と並び称される文字とおりマルチタレントで、ある程度歳がとられた方には記憶に残っていることと思います。テレビ時代に入る前に活躍された人だけに今では伝説の人ですが・・・
 ここには、徳川夢声特有の語り口で述べた興味深いハナシがありました。

 そこで、今回は2.3回に分けて徳川夢声の類まれなる話術の巧さが生まれてきた拠り所や、彼が日頃から気がけていた話術の勘所といったものを、かいつまんでお伝えしようと思います。ご静聴下さい。

「良い話をするには、別に雄弁を必要としません!」

 磯田道史(歴史学者・茨城大准教授)の「この人、その言葉」を紹介すると「良い話をするには、別に雄弁を必要としません」徳川夢声(1894~1971)、話すのが苦手という人は多い。この国最高の話術の達人、徳川夢声が「ハナシ」の極意を『話術』という本に書き残している。

 夢声はもともと無声映画を解説する活動弁士。ラジオやテレビで活躍しその話術は日本中を魅了。「話術の神様」とまでいわれた。 若い世代にはなじみがないが、「彼氏」「恐妻家」という単語もこの夢声の造語。1930年ごろ、彼がラジオでひろめた(『明治大正新語俗語辞典』)。
 
 夢声はいう。ハナシはコトバの材料で建てる建築。上手に話すには(豊富なるコトバの整然たる倉庫)になれ。と・・・
 
 本の音読や落語や他人の会話をきき、声調・口調、間の取り方を工夫するのもいい。しかし夢声は冒頭のように、雄弁は絶対条件でないという。ハナシも最後はその人の人格に行き着く。(ハナシは人格の表識。故に、他人から好意を持たれる人格を養うべし。あえて聖人たれとは申さず。ハナシには、個性が絶対必要なり)。良い心と強い個性を養うことが話上達の極意と断言した彼は人と会話するときの「座談十五戒」も残している。
「座談十五戒」
「一人で喋るな。
黙り石となるな。
(威張って)反り返るな。
馬鹿丁寧になるな。
お世辞屋になるな。
毒舌屋になるな。
(愚痴の)コボシ屋になるな。
自慢屋になるな。
ぼら吹きになるな。
知ったかぶるな。
賛成居士になるな。
反対居士になるな。
軽薄才子になるな。
朴念仁になるな。
敬語を忘れるな」

(磯田道史氏談)これらは、すべて他人への配慮である。言葉は人の心を温めるためにある。それさえ押さえておけば、話術なくとも、みんな話の達人だ。
この話術の神様が死に際に発した最後の言葉は妻へのもの。「おい。いい夫婦だったなあ」であったという。 むべなるかな!
(次に続く・・・!)


徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は原駿雄(ふくはら としお)。日本放送芸能家協会初代理事長。

 初め活動映画(無声映画)弁士として出発、昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じる。 1926年(昭和元年)に古川ロッパらと元弁士らの珍芸劇団「ナヤマシ会」を結成。1933年(昭和8年)、やはりロッパらと劇団「笑ひの王国」を結成するも意見の相違ですぐに脱退。1937年(昭和12年)、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加。ただし、新劇俳優としての夢声については悪評の嵐であり、文学座を退団。他に、映画にも俳優として出演する。

 また、漫談の研究団体「談譚集団」を結成。メンバーは、大辻司郎、山野一郎、松井翠声、泉虎夫、奈美野一郎、木下華声、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)ら。また、夢声の弟子の丸山章治、福地悟郎、吉井俊郎、木戸竝であり、月に1回、新作漫談の発表会をやっていた[2]。
なお、夢声は早くから老人めいた雰囲気があり、40代から「夢声老」と、50代では「夢声翁」とよばれていた。ラジオでも活躍。1939年から、NHKラジオで吉川英治の『宮本武蔵』の朗読を始め、人気を博す。独特の「間」は夢声独自のものであった。

 文筆に優れ、「新青年」などにユーモア小説やエッセイを多数執筆。1938年(昭和13年)、1949年(昭和24年)の直木賞候補にもなった。 また、俳句好きで、1934年(昭和9年)から久保田万太郎が宗匠の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。ただし、毎日のように作ったので膨大な凡作の山である。
日々、詳細な日記をつけており、その一部は『夢声戦争日記』として出版され、戦時下の生活の貴重な資料となっている。また、自伝や自伝的な書も何冊も出しており、それらの執筆に日記が役立ったと思われる。

 第二次世界大戦後は新しいメディアの波に乗り、ラジオ・テレビで活躍した。NHKラジオのクイズ番組『話の泉』のレギュラー回答者などを努め、またテレビ放送も初期から関わり、NHKテレビの『こんにゃく問答』(柳家金語楼と競演)などに出演、日本におけるテレビ創生期の立役者のひとりである。
1953年(昭和28年)の、エリザベス女王の戴冠式には、特派員として訪英。また、娘が日系アメリカ人と結婚していたため、その帰りにアメリカにも寄って娘や孫と会い、その旅を著書『地球もせまいな』にまとめた。

 1955年(昭和30年)、「年ごとに円熟を示している各方面における活躍」により、菊池寛賞を受賞。
代表作のラジオ朗読『宮本武蔵』は戦後も、1961年(昭和36年)-1963年(昭和38年)にかけてラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)にて放送。2002年(平成14年)から同局と東海ラジオで再放送されている。また、この『宮本武蔵』は1971年(昭和46年)に同局開局15周年記念としてレコード化され、エレックレコードから発売された。1965年(昭和40年)には愛知県犬山市にオープンした博物館明治村の初代村長となった。1971年(昭和46年)8月1日、脳軟化症に肺炎を併発して死去。享年78(満77歳没)。
著書、映画作品多数。
徳川夢声市民賞・夢声の生地である益田市が、2001年より、夢声にちなんで話芸に秀でた人を表彰する賞として授与している。以下この賞を受賞した錚々たる顔ぶれを見ただけでもこの賞の凄さが分かるというもの!
•第一回(2001年) 小沢昭一
•第二回(2002年) 中村メイコ
•第三回(2003年) 加賀美幸子
•第四回(2004年) 永六輔
•第五回(2005年) 山川静夫
•第六回(2006年) 浜村淳
•第七回(2007年) 宇田川清江
•第八回(2008年) 平野啓子
•第九回(2009年) 山根基世

2010年3月22日月曜日

3月22日・幕間狂言「世界から見ておかしな日本の7つの自動販売機」

 いま、「春の彼岸」の真っ最中、そこでブログはチョット一休み中だが、幕間の余興に風変わりな自動販売機を紹介しよう。
 みなさんは、いくつぐらい使ったことがあるのかなぁ~! しげやん、ネットサーフィンしていて見つけました。では、御開帳、ご開帳!

「世界から見ておかしな日本の7つの自動販売機」
 
 24時間コンビニは開いているし、そのうえわが国の自動販売機にはいろいろあって、我々は慣れっこになってしまっているが、未成年者に買えないように、例えばタボスとか、お酒の自販機もあるが、エロエロなものも買える仕組みになっている。
 われわれには慣れっこで当たり前だが、外国人からすれば異様だそうだ!
そこで、ちょっと変わった自動販売機を並べてみよう。
 
 海外のブログに“おかしな自動販売機”というタイトルでアジアのいろいろな自動販売機がまとめられていたのだが、残念なことにそのほとんどが日本の自動販売機だった。 
 私たち日本人の目からは普通に見えても、世界の人々からはとてもおかしな物として写っているようである。 いったいどんな自動販売機が載っていたのか? そのうちの7つを掲載されていたコメントと一緒に紹介したい。

1.コカコーラの自動販売機ロボット


 東京、渋谷駅に現れたコカ・コーラロボ。コーラを買わないとレーザーで撃ってくるぞ!

2.お米の自動販売機


 とくに何もしないが家族を養うには十分の量の米が手に入る。

3.卵の自動販売機

 今夜の夕食に卵が必要ならこれから買うと良い。

4.ネクタイの自動販売機

 ネクタイを忘れた時に必要になるだろう。日本のビジネスマンはカラオケや飲み明かした時に使うのかな?

5.使用済みパンティの自動販売機

 だから言っただろう? 日本は何でも手に入るって。あれは嘘じゃなくて真実だったんだよ。

6.ボードゲームの自動販売機

 本やDVDだって自動販売機から購入できる。モノポリーは3千円だってさ!

7.カブトムシの自動販売機

 日本ではカブトムシは珍しい生き物だが、一般的なペットでもある。そしてこれを自動販売機から手に入れるのも日本では一般的なのだ。
 ……うーん、こうしてみると日本ってけっこうおかしな国なんだなあ。