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2010年9月30日木曜日

30日・紀州と坂本龍馬の関わり・その4.陸奥陽之助(宗光)

 今まで紀州と坂本龍馬の関わりについて述べてきましたが、勝海舟が開設した幕府の神戸海軍操練所以来坂本龍馬の長崎「亀山社中」「海援隊」で龍馬の片腕として行動を共にしてきた元紀州藩士陸奥陽之助(宗光)の事績に触れて「紀州と坂本龍馬の関わり」を終わることにしたい。
 
 地元和歌山県が選んだ「紀の国の先人たち」には陸奥宗光について以下のように顕彰しています。
 彼は坂本龍馬暗殺以後、明治新政府に出仕し、後年わが国の外交問題で輝かしい成果を挙げ「カミソリ大臣」と称された郷土が産んだ偉人の一人なのです。坂本龍馬との関係についてはウイキぺィディアから補足して書きます。

陸奥 宗光(むつ むねみつ)・弘化元年(1844)~明治30年(1897)・和歌山市生まれ・日本外交史に輝かしい功績を残した「カミソリ大臣」


 弘化元年(1844)、藩の勘定奉行、寺社奉行を務めた伊達宗広の六子として現在の和歌山市に生まれる。のちに姓を伊達から陸奥に改め、源二郎、陽之助、宗光と名乗った。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 安政5年(1858)、江戸に出て幕府の学問所で安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
 
 文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(18677年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

 明治維新後は、津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させ、兵庫県知事や地租改正局長などを務めたが、薩長藩閥政府のあり方に不満を持ち辞職の後、元老院議官となる。明治11年(1878)、西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与したとされ、禁獄5年の刑に処せられるが、山形監獄に収容された陸奥は獄中にも関わらず猛勉強し自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。この薩長藩閥政府に批判的な陸奥の思想は自らが紀州藩出身のほか、坂本龍馬からより広く大きな立場でモノをみる考え方を陸奥自身が身につけたものと思われる。明治16年(1883)赦免により出獄、2年余りのヨーロッパ留学を経て外務省に入省する。

 江戸幕府が諸外国と締結した条約は、種々の不平等な条件を強いられており、これらの改正は、近代国家としての地位を確立するための重要な外交課題であった。明治21年(1888)、駐米公使としてアメリカに赴任した陸奥は、同年11月メキシコとの間に、わが国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結。また、明治25年(1892)には第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、明治27年(1894)、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結に成功。これによって各国は英国にならい、次々と日本と改正条約を結ぶことになる。同年、日清戦争が勃発、翌28年に陸奥は伊藤首相とともに、下関で行われる清国との講和会議に出席し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させる日清講和条約の調印を成功させた。














   (左・外務省構内に建つ陸奥宗光像・右・和歌山城近くの岡公園に建つ陸奥宗光像)
 日本の近代化に辣腕を振るい、機略に富んだ資質から 「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光は、明治29年(1896)に病気療養のため大臣の職を辞し、その翌年53歳で亡くなった。
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陸奥宗光がわが国の紹介したベンサムの「功利主義」・・・「最大多数の最大幸福」について追記しておきます。
 ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。
 ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)をもたらすものであると論じた。

 「最大多数の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。

功利主義よりも公正重視
 菅総理が「最小不幸の社会を作る」と語ったことは、経済思想の点でみればベンサムの考え方と対置される。「大きな幸福を求めること」とは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を指し、そうした考え方を功利主義という。
 しかし、最大幸福の原則では、分配や公正の尺度が欠落しており、下手をすると特定集団の幸福を高めることを優先して、少数者の幸福が犠牲になることに配慮を欠く。20世紀アメリカを代表する政治哲学者ジョン・ロールズは功利主義とは別に、「最も不遇な人々の利益の最大化する」ことを“公正としての正義”とした。
 菅総理の「最小不幸の社会を作る」という見解は、このロールズ流の経済思想に重ねたものであろうが、国民に対する社会保障と消費税増税のあり方については正しい将来展望のもと慎重のうえにも慎重を期して取り組まれるよう切望する次第である

2010年9月27日月曜日

27日・紀州と坂本龍馬の関わり・その3「龍馬暗殺」

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は昨夜から最終章に入り、いよいよクライマックスを迎えます。このなかで「いろは丸事件」は10月17日に放送予定で、ドラマではどういう風に描かれるのか興味あるところです。
 このドラマは「龍馬暗殺」で幕を閉じますが、この坂本龍馬・中岡慎太郎(土佐出身・陸援隊)暗殺事件は「近江屋事件」と呼ばれ、暗殺の犯人には諸説が入り乱れ、
 その一つに「いろは丸」沈没事件で多額の賠償金をとられた紀州藩の報復説まであります

 それは竜馬暗殺を紀州藩の仕業と思い込んだ元紀州藩士で海援隊士の陸奥陽之助ら海援隊士が紀州藩の三浦休太郎を襲った「天満屋事件」をおこしたが失敗に帰しています(慶応3・12・7)し、紀州藩犯人説は根拠が薄いと云われています。

 それでは、「坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件」=「近江屋事件」をウィキペディアから引用します。

「近江屋事件」
 近江屋跡近江屋事件(おうみやじけん)は、幕末の慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組実行犯説が定説となっています。

(経緯)
 龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。

 11月15日、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士で龍馬の従僕の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を知られてしまう。

 刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。
 





(左・坂本龍馬      右・中岡慎太郎)

 


 暗殺直後に真っ先に現場に着いたのは土佐藩の田中光顕、谷干城、毛利恭介、薩摩藩の吉井幸輔、海援隊隊士の白峰駿馬らである。
なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。


(右・近江屋二階暗殺現場再現図)






「 実行者は誰か ?」
 当初、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた。事実、大石は龍馬暗殺の罪で殺されている。また、明治になるまで新選組の仕業とされていたことや、池田屋事件などもあり、戊辰戦争においては新選組に対して徹底した粛清が行われている。特に谷干城は新選組犯行説を強力に信じており、近藤勇への厳罰を強く主張した。

 この事件に関しては見廻組実行説が学説として最も有力であるが、薩摩藩陰謀説をはじめとする数々の陰謀説が唱えられたり、小説などでの創作もさかんに行われている。 

「 京都見廻組実行説」
 幕府の命を受け京都市中を取り締まる見廻組の佐々木只三郎らが実行犯とする説。通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。
 1870(明治3)年、見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し取調べを受けた際に、龍馬暗殺について自供を行っている。今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が証言を行っている。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるほか、誰が佐々木に命令したのかについては解明されていない。

「 新選組犯行説」
 龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある(ただし、実際に斎藤が後世の創作のように左利きであったかどうかの問題もある)。

事件後、11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定した。現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。

「 紀州藩報復説」
 海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光・紀州脱藩藩士)は、いろは丸事件をめぐる紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)が海援隊隊士らに襲撃される天満屋事件が発生したが、失敗に終わった。その説の信用性は薄い。

「 薩摩藩陰謀説」
 西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側による陰謀だとする説。

松平春嶽や勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じた。西郷、大久保らは新政府のあり方について意見の異なる龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らすなど暗殺に関与したとする説。

 明治新政府の時代になってから、薩摩出身者によって新政府で役職を得た京都見廻組の剣客が数人おり、この例外の根拠として薩摩藩と一部の京都見廻組とのつながりが指摘される。

 この武力倒幕派による大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。しかし、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるとする指摘もある。

 テレビ・小説などではこの説を採用することが多く、これまで歴史学会多数派の主張とは異なり、一般では近年この説を支持する人が多い傾向にある。

「 イギリス陰謀説」
 武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体・ジャーディン・マセソン系のイギリス人・グラバー、外交官・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。加治将一らが主張しており、いわゆる「フリーメイソン陰謀論」に属する。





(京都・霊山護国神社の祀られている坂本龍馬(左)中岡慎太郎(右)の墓)

2010年9月25日土曜日

25日・高校野球球史に残る名勝負「星稜(石川):「箕島」(和歌山)OBによる再試合!

きょうは「紀州と坂本龍馬」の話を横に置いて、「温故」のモデルとして31年前に阪神甲子園球場でくり広げられた高校野球の「球史に残る名勝負」星稜(石川):箕島(和歌山)のOBによる再試合をトピックスとしてお伝えします。

熱心な高校野球ファンならこの18回に及ぶ両校の死闘を鮮明に覚えておられる方が多いのでは・・・結果は箕島高が神がかり的な2本のホームランで勝利し、その年県立高校でははじめて春夏の連続優勝を遂げたことでも知られています。記事は箕島側(和歌山)の立場で描かれています。

さて、きのうは野球の世界では大リーグ「マリナーズ」イチロー選手が10年連続200本安打達成、大相撲は横綱「白鵬」が60連勝と歴代2位の偉業を更新中、一方高校野球の世界では23日、31年前「球史に残る名勝負」として今に語り継がれる星稜ー箕島高のOB戦が31年前と同じ甲子園球場で行われた。

 当時の両校選手は4時間弱にも及ぶ死闘をお互いにたたえ合い、以来両校の選手は友好のかたい絆で結ばれて現在に至っているが、今回憧れの甲子園球場で再試合が実現したもの。
 スポーツの世界の固く結ばれた友情は何にもまして美しいものだと、わたしも熱い想いがした。

 高校野球・星稜高(石川)―箕島高(和歌山)再戦「尾藤スマイル」31年後も変わらず・9月24日

 第61回全国高校野球選手権大会(1979年)3回戦で延長18回の熱戦を繰り広げ、「球史に残る名勝負」と語り継がれる星稜(石川)ー箕島(和歌山)戦。阪神甲子園球場を舞台に23日、31年ぶりに再び星稜と対戦した箕島OBたちは、13―17と敗れはしたが、笑顔とはつらつプレーで野球を楽しんだ。
 がんで闘病生活を送る当時監督の尾藤公(ただし)さん(67)も久しぶりのユニホーム姿でベンチに入り、おなじみの「尾藤スマイル」で選手たちを見守った。

 試合前のセレモニーでは、両チームの選手たちが、当時プラカードを持った市立西宮高校OG2人に続いて入場行進。両校の校歌を歌った。

 試合は、箕島は石井毅(本名・木村竹志)投手(49)、星稜は堅田外司昭(としあき)投手(48)の当時の両エースが先発。石井投手は1回、星稜打線を0点に抑えた。その裏の攻撃、箕島は打者一巡の攻撃で一気に9点先取。しかし、2回に3点、3回に1点を奪われるなど徐々に追い上げられ、4回には9点をとられて逆転された。箕島は最終回の7回裏に2点を返す粘りを見せたが、13―17で敗戦。31年ぶりの甲子園での再戦は星稜が雪辱を果たした。

 試合には、当時ベンチ入りできなかった選手も含め両チーム計約65人がプレー。7回にはマウンドに尾藤さんの長男強さんが立ち、当時星稜監督だった山下智茂さんの長男智将さんとの「2世対決」もあった。

 当時延長18回を1人で投げた石井さんは「ストライクが入るか不安だったが、先頭打者をうちとって楽しくなった。当時のことを思い出しながら投げた」と感慨深げ。あの試合で延長16回2死から同点となる本塁打を放った森川康弘さん(48)は「ここでまた試合ができるなんて。今日は最終回にヒットを打ててよかった」。主将だった上野山善久さん(49)は「当時の場面が思い出された。全員がグラウンドでプレーできてよかった」と話した。

 尾藤さんは、教え子からプレゼントされた、現役時代より小さめのユニホームを着て、車いすで球場に入った。ベンチからグラウンドに出ると、スタンドから大きな拍手が響いた。ユニホーム姿で試合で甲子園の土を踏むのは91年の第63回選抜大会以来といい、「来た。甲子園に来た」と感極まって涙を流した。

 試合が始まると、おなじみの「尾藤スマイル」で選手たちのプレーを見守った。体調を考慮して、1回終了後には球場をあとにした。「あいつら(選手たち)年をとっているのに一生懸命になるんですね。必死でボールを追い、走った」と笑顔で話した。

 延長18回を戦った箕島と星稜のOBによる試合が、31年ぶりにおこなわれた =23日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場
    試合後、記念写真におさまる両校のOBたち
    選手のプレーを見守る尾藤公さん
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試合実況再現(1979年8月16日:阪神甲子園球場)
先攻星稜、後攻箕島で試合開始。

イニング 両軍得点 内容
1回表 箕 0-0 星 先頭の加藤が安打で出て送るが後続が凡退で無得点。
1回裏 箕 0-0 星 二死から上野山の二塁打が出るが無得点。
2回表 箕 0-0 星 三者凡退。
2回裏 箕 0-0 星 三者凡退。
3回表 箕 0-0 星 三者凡退。
3回裏 箕 0-0 星 二死から嶋田が安打で出て盗塁で二塁まで進むが無得点。
4回表 箕 0-1 星 一死後、北安博が安打で出て、続く川井のヒットエンドランで一塁走者・北が三塁へ。川井も盗塁で二塁へ。堅田の適時打で星稜が1点を先制。後続は凡退。
4回裏 箕 1-1 星 先頭の上野山が安打で出塁。北野の送りバントが失敗するが、上野敬三のヒットエンドランで一塁走者・北野が三塁へ。森川の適時打で箕島が1-1の同点に追いつく。さらに遊撃ゴロの間に上野、森川が進塁し、四球で満塁とするが逆転はならず。
5回表 箕 1-1 星 三者凡退。
5回裏 箕 1-1 星 一死後、四球で出塁するも無得点。
6回表 箕 1-1 星 三者凡退。
6回裏 箕 1-1 星 先頭から連続四死球で走者を貯めるが、送りバント失敗、その後中堅手への飛球の間に二塁走者・森川がタッチアップで三塁へ、一塁走者・久保も盗塁で二塁に進むが無得点。
7回表 箕 1-1 星 一死後、音、山下の連打でつなぐが、二塁走者・音が牽制で刺され、一塁走者・山下は盗塁で二塁に進むが三塁への盗塁失敗で結局三人で攻撃を終える。
7回裏 箕 1-1 星 一番からの好打順も三者凡退。
8回表 箕 1-1 星 三者凡退。
8回裏 箕 1-1 星 三者凡退。
9回表 箕 1-1 星 二死から川井が安打で出塁するが盗塁失敗。
9回裏 箕 1-1 星 先頭が遊撃手の失策で出塁するが盗塁失敗。続く浦野が安打で出て投手ゴロの間に二塁に進むが無得点。
10回表 箕 1-1 星 二死から山下が安打で出塁するも無得点。
10回裏 箕 1-1 星 先頭の宮本が安打で出塁するも連続フライで二死、宮本の盗塁失敗で三者凡退。
11回表 箕 1-1 星 一死後加藤の安打、一死後北の安打も無得点。
11回裏 箕 1-1 星 三者凡退。
12回表 箕 1-2 星 一死後、音の安打と四球で走者を貯めると、続く石黒の二塁ゴロを二塁手・上野山がトンネル、その間に走者が還り星稜が勝ち越し。尚も一死一・三塁でスクイズを仕掛けるが失敗し三塁走者・山下がタッチアウト、打者・若狭徹も三振でチェンジ。
12回裏 箕 2-2 星 簡単に二死。続く嶋田は打席に入る前、尾藤公監督に「ホームランを打っていいですか」と言い、カウント1‐0から左翼ラッキーゾーンへの同点本塁打。箕島が土壇場で同点に追いつく。

13回表 箕 2-2 星 二死から北、川井の連打でつなぐが、続く堅田の打球を二塁手・上野山の好送球で無得点。
13回裏 箕 2-2 星 三者凡退。
14回表 箕 2-2 星 三者凡退。
14回裏 箕 2-2 星 先頭の森川が安打で出て送り、森川がディレイドスチールで三塁へ。絶好のサヨナラのチャンスとなったが、三塁手・若狭の隠し球で刺され無得点。
15回表 箕 2-2 星 先頭の若狭が安打で出塁するが、送りバント失敗と遊撃ゴロ併殺打で無得点。
15回裏 箕 2-2 星 先頭の石井が安打で出塁し、一死後犠打で二塁に進めるが無得点。
16回表 箕 2-3 星 一死後、死球と堅田の安打で走者を貯め、その後投手ゴロで一塁走者・堅田がアウトとなるが、山下の適時打で星稜が勝ち越し。
16回裏 箕 3-3 星 簡単に二死。続く森川が一塁手へのファウルフライを打ち上げ誰もが試合終了と思った瞬間、一塁手・加藤がファウルグラウンドにこの年から設置された人工芝につまずき転倒。命拾いした森川はカウント2‐1から左中間スタンドへ起死回生の
同点本塁打。

実況を担当していた朝日放送の植草貞夫アナウンサーはこの時、「甲子園球場に奇跡は生きています!」という名言を残した。
17回表 箕 3-3 星 三者凡退。
17回裏 箕 3-3 星 三者凡退。
18回表 箕 3-3 星 一死後川井、堅田の連打でつなぎ、その後も山下の安打で満塁とするが無得点。この時点で星稜の勝ちはなくなり、負けるか引き分けるかのどちらかになった。(ちなみに引き分け再試合は3試合日だった翌日の第1試合に組み込まれる予定だった。)
18回裏 箕 4x-3 星 先頭の辻内が四球で出塁し、一死後北野も四球で出塁。続く上野の適時打で二塁走者・辻内がヘッドスライディングで生還。箕島がサヨナラ勝ち。試合時間3時間50分、19時56分試合終了。

[審判](球)永野 (塁)小林・木嶋・達摩 (外)片岡・橋本

2010年9月21日火曜日

21日・紀州と坂本龍馬の関わり・その2「いろは丸」事件

 坂本龍馬と紀州の関わり・その2

 いま世のなかの「龍馬像」は多くは司馬遼太郎の大作「竜馬がゆく」からイメージされ定着しているが、この竜馬像に対し歴史家や小説家のなかには、これとは違った意見を述べたものも多い。
 
 そのなかに地元出身の直木賞作家でもっぱら剣豪小説・歴史物を執筆している津本陽氏は龍馬を大言壮語を弄し狡猾で悪賢い人物として描き(氏の「龍馬」「商人龍馬」「龍馬残像」等)これから述べる「いろは丸」事件でも紀州藩側から龍馬をあくどい金儲けのためあらゆる手段を弄する人物として扱っている。


 そこで、坂本龍馬率いる海援隊が伊予大洲藩から用船した「いろは丸」を瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突・沈没した「いろは丸」事件の概況と近年沈没した「いろは丸」から4回にわたって海底27mから引き上げられた残骸に龍馬が積荷と主張した400丁の最新の銃が一つもなく龍馬が紀州藩相手の交渉にウソ・ハッタリを云ったという新聞報道までもありました。

 これらからすると、世間で云われている「龍馬像」がある意味見直されなくては?
と紀州藩が多額の賠償金の支払いの応じたのか?このしばらくあとの11月に京都「近江屋」でおこった坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件があり、この多額の賠償金が果たして誰の手に渡ったのか、いろんな疑問が残る事件でもあります。

◎いろは丸事件の概要
 坂本龍馬率いる「海援隊」(土佐藩の後援を得、亀山社中を改組)が伊予・大洲藩より15日に付き500両で借り受けている借用船「いろは丸」と、紀州藩船「明光丸」が衝突、「いろは丸」が沈没した事件。
   (海援隊用船「いろは丸」と紀州藩軍艦「明光丸」衝突の図)
          (「いろは丸」)
      ({いろは丸」衝突および沈没の位置図)
 

 慶応3年4月15日、積荷を満載したいろは丸は、長崎を出港し馬関海峡から瀬戸内海を航海中の同月23日午後11時ごろ、同じく瀬戸内海を長崎に向けて航海中の明光丸と、讃岐の箱の岬沖で濃霧のため衝突。
160tのいろは丸は、880tの明光丸の船首を右舷に受けて浸水し、船首から沈みそうな状況に。
明光丸は90mほど後退した後、なぜか再び前進していろは丸の船腹に衝突。
龍馬は、沈没の危機を感じて乗組員を明光丸に乗り移らせる。
龍馬は明光丸船長の高柳楠之助にいろは丸の曳航を依頼するが拒絶され、沈没。
龍馬と高柳の合議のうえで明光丸は備後の鞆に入港し、長岡謙吉とともに今後の交渉に臨むが事件の解決まで出港を見合わせるようにとの依頼を、高柳は藩命を理由に拒絶。

 代案として龍馬はとりあえず1万両の用立てを求めたが、後日の交渉でこれが賠償金の一部であることを知った紀州側が拒否したため、交渉は難航。
 そこで長崎で正式の談判を行い、公論によって決着をつける以外にないということになり、隊士と共に鞆を出立し29日には下関、5月13日に長崎に到着し、長崎での交渉は15日から始められました。交渉には当初は海援隊と紀州藩との談判に終始していたが、途中からどうにも進展しない状況を察知した土佐藩の重役・後藤象二郎が加わり、事は土佐藩対紀州藩の事件に発展した。そして当時の我が国には、こうした事件の判例がなかった為、イギリス海軍の提督に、外国の事例に当てはめて公平に判断して貰おうと、そうした場の設定まで話は進んだ。しかし紀州藩が是を避けて、最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれた。茂田一次郎は土佐藩側に押されて、やがて自藩に勝ち目が無いことを覚り、薩摩藩の五代才助の周旋によって、遂に賠償金の支払いに同意したのである。
 
 この決着のうらには、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。つまり龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった、とする見方が多い。

★龍馬がとったいろは丸事件の交渉術(高知市・坂本龍馬記念館の見解)
●まず、航海日誌をお互いに持ち出すようにした。
●海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟でやるんだ!」と檄をとばし、航海日誌や談判記録の保全を再度命令。
●龍馬が家を借りている人に「家には誰も近づけんように」と見張りを付けた。
●京都の出版元に「万国公法」の印刷を依頼。
●紀州藩の船長らと交渉。(龍馬の言い分がもっともなので、船長は交渉の席に着きたくないので逃げ回っていた)
●土佐藩から後藤象二郎を呼び、交渉にあたった。龍馬も一緒に応戦した。
 さらに、後藤がうるさく責め立てたので紀州藩は薩摩藩の五代友厚に仲介を依頼。紀州藩は賠償を支払うことに同意。
●この間、龍馬は世論を味方につけるため長崎の花街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」という歌を流行らせた。これにより、長崎の人々は海援隊に「紀州をやっつけろ」などと応援に来たという。

※つまりこういう事をやったのです!
 ◎一戦交える臨戦態勢
 ◎世論操作と情報発信
 ◎身内の安全確保
 ◎筋を通した交渉
 ◎強力な応援体制の確保
 ◎交渉の結着点、結着対応を決める
とは、坂本龍馬を産んだ土佐の高知の「坂本龍馬記念館」の龍馬観。
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 これに対して「いろは丸」沈没の海底から都合4回にわたって潜水調査し引き上げられた残骸物の報道記事を併記します。

いろは丸事件、積み荷の銃は龍馬のはったり?(産経新聞・2008.4.12)
 広島県福山市の鞆の浦沖で幕末に、衝突事故により沈没した坂本龍馬率いる海援隊の商船「いろは丸」(160トン)とみられる船体の第4次調査で、海中から引き揚げられた遺物が11日、保存処理作業にあたっていた京都市埋蔵文化財研究所から福山市教委に返還された。

これまでの調査では、積み荷とされた銃の部品などは見つかっておらず「交渉を有利にするための龍馬のはったり」との見方も出ている。

 平成17年に行われた第4次調査では、船体後部から遺物を収集しており、船体前部で収集を行った昭和63~平成元年にかけての3回にわたる調査の結果とあわせて全体の遺物をほぼ網羅したことになる。

 今回、返還されたのは約220点で、ドアノブなどの内装品や船具、積み荷の水銀朱を入れた木箱、刀の柄などに用いられた鮫皮(エイの皮)を保管するための台座などのほか、履き込まれた革靴の靴底などが含まれている。

 紀州藩の軍艦「明光丸」(887トン)と衝突、沈没したいろは丸をめぐっては、龍馬が船体のほか、積み荷の最新式銃などの補償をめぐって紀州藩と交渉。巨額の賠償金の獲得に成功しているが、これまでの調査では銃の部品はまったく見つかっていない。

 このため、調査にあたった水中考古学研究所の吉崎伸理事(水中考古学)は「積み荷に銃があったとしたのは、補償交渉を有利に運ぶための龍馬のはったりだったのでは」と話している。

2010年9月17日金曜日

17日・紀州(和歌山)と坂本龍馬の関わりについて(その1)

 このブログは『温故創新』のキーワードを通して地元の話題を採り上げてきました。
9月に入り、少々お休みを頂いくのが半月にもなり、大変失礼しました。

 その間、政権与党である民主党の代表戦で菅総理と小沢前幹事長氏と党内実力者同士のガチンコ勝負の結果、国民の民意を背景にした菅総理の勝利となり、今夕にも菅改造内閣が発足する予定ですが、日本の国の内外とも幾多の難問を抱えつつ、いままでにも増してわが国「日本丸」を嵐のなか如何に乗り切るのか、待ったなしでその信念・リーダーシップが問われることかと思われます。

 話が替りますが、百四十数年まえわが国の幕末の状況はまさにいまの日本の国の置かれた状態よりも更に難しい状況下にありました。
 
 このなか一大ブームを巻き起こしている「龍馬ブーム」の主人公坂本龍馬達の”日本の国を根本から変えゆかねば!”という決死の想いがNHK大河ドラマ「龍馬伝」からも、ひしひしと伝わって来ます。ドラマは第3部の山場「寺田屋騒動」「龍馬の妻」を経て龍馬・お龍の薩摩への新婚旅行のあと、いよいよ第4部へと向います。

 このドラマは坂本龍馬、岩崎弥太郎の視点から幕末を描いたものですが、意外にも紀州と坂本龍馬の関係が深いのです。
 
08年のNHK大河ドラマ「篤姫」でも登場した人物にもある意味重なっています。篤姫が輿入れした第13代将軍徳川家定の後継者に紀州徳川藩主であった徳川慶福が一橋派(慶喜)・紀州派の派閥争いの末、家定の遺言、井伊大老の推挙の結果、名を慶福から家茂と改め若年ながら第14代将軍に就任、幕府の第一次・第二次長州征伐の時の将軍であり、第二次長州征伐の途中大阪城で逝去、そのため戦が終息しました。(この第14代将軍選びのとき篤姫の父島津斉彬は一橋派すなわち慶喜を推し立てるべく意を含めて篤姫を輿入れさせたと云われていますが、家茂就任後篤姫は家茂の英明さを理解したと云われています。)

 その後龍馬は長崎で亀山社中を「海援隊」に組織替えし、借りた「いろは丸」を運行中瀬戸内・鞆の浦沖で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突、紀州藩と談判の結果勝利し莫大な賠償金を勝ち取った史実も残されています。
 
 またドラマにも登場する紀州藩士陸奥陽之助(宗光)とは勝海舟が開設した神戸海軍操練所以来の同輩で長崎の亀山社中、海援隊の会計担当者として龍馬の信頼厚くその片腕として手腕を発揮、のちに明治政府に仕え「カミソリ外相」として紀州が産んだ偉人100人の一人としてその偉業がいまに伝えられています。

 ここでは紀州(和歌山)と龍馬の関わりから、神戸海軍操練所時代・勝海舟を訪ねて和歌山入りした龍馬、「いろは丸」事件の紀州藩と龍馬の談判、龍馬の同輩の一人で龍馬の片腕として活躍し、地元和歌山が産んだ偉人の一人に数えられる陸奥陽之助(宗光)を採り上げたいと思います。

 では、まず最初は紀州入りした勝海舟を訪ねて紀州和歌山入りした龍馬のエピソードの紹介から!

坂本龍馬、 和歌山参上!
「龍馬ブーム」のなかNHK大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入り、ますます関心が高まる坂本龍馬。わずか33年の短い生涯であったが、その活躍ぶりは周知の通りで、幕末に現れた巨星といえよう。
そんな龍馬と和歌山の関わりを追ってみました。

 勝海舟とともに4日間和歌山に滞在した坂本龍馬!


 黒船が襲来したのは、1853年(嘉永6年)のこと。それ以降、紀州藩でも幕府の命に従って、海岸に台場(砲台)の建設を進めていた。その10年後、幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、防備の状況把握のために家臣とともに和歌山に入った。1863年(文久3年)4月3日のことである。

 勝海舟が紀州藩家老・久野丹波守と友ヶ島砲台や海軍について話し合いを行った4月10日に、勝の塾生であった坂本龍馬が和歌山にやってきた。その後、勝の供をして和歌山の台場各地を視察する。

 勝たちの宿所になった橋丁両替商清水平右衛門は、明治末期に龍馬たちの様子について述懐している。
以下、『木国史談会雑誌』の「勝海舟先生と坂本龍馬の事ども」と題した清水平右衛門の一文より抜粋し、解釈。

・・・「私はまだ少年でしたが、海舟先生はまるで自分の子か甥っ子のように可愛がり、昔話や浮世話を聞かせてくれました。随従の士は、坂本龍馬、近藤長次郎、千谷(屋)寅之助、黒木何某、高松何某。

 坂本さんは丈も高く筋骨も逞しく、先生の供をして海岸へ行くときは近藤さんと交代で先生の刀持ちをして馬廻りを離れずに歩き、駆け、帰ってからは畳の上に大の字になって吐息を『うっ』と吐かれるのをたびたび見ました。

 ある日、先生の供をして和歌浦から帰ってきた坂本さんは、疲労のあまり無言で座敷に倒れていましたが、先生が湯殿から出るのを見るやいなや、裸になって風呂に入ったところ、『ピチピチバチン、ドスン、ザザー』という凄まじい音が響いたと同時に、『あっ、しまった!』と声がしました。
 皆で見に行くと、風呂桶の輪がはじけ、底が抜け、湯が流れ出るという大騒動。坂本さん当人は濡れ仏のように板の間に突っ立っているという体たらくに、皆は抱腹絶倒。この出来事を「坂本さんの湯殿の滑稽演劇」と名付けて言い伝え、来訪の客人に話しております」・・・












宿の跡には「勝海舟寓居地」の碑が建てられている(和歌山市舟大工町。なお清水家の正確な位置は、これより約50m西)。
 つづく・・・

2010年9月1日水曜日

1日・9月入りに想う

 きょう9月1日は「防災の日」前は「二百十日」と云われたものだ。夏も近づく「八十八夜」と同じく旧暦の「立春」から数えて88日、210日という訳だ。
 以前は210日は220日とともに日本の国の台風の厄日と云われてきたが、それにしても今年の暑さは特別だ。
 各地の「猛暑日」「熱帯夜」の連続記録は次々塗り替えられている。東京都心の「熱帯夜」は昨夕時点で連続48日を数え、観測史上最長を更新したそうだ。
そのうえまだ当分このヒートアイランド現象は収まりそうにもないから、大幅記録更新は時間の問題であろう。

 この熱い戦いは何も気温だけの問題ではない。日本の国の経済問題は冷え冷えしていて、これに円高、株安が拍車をかけている。
 米国の景気も低迷状況から脱せず、ドル安容認で輸出増加に米国としての期待をかけている。したがってわが国の円高(対ドル、対ユーロ)には協調介入する国はなく、一刻を争う的確な円高対策の政策発表が待たれる現況のなか、政権与党である民主党の代表戦が現総理の菅代表と前幹事長の小沢一郎氏との実力者同士のガチンコ勝負という局面に入った。
 その間前総理の鳩山由紀夫氏が挙党体制とかトロイカ体制とか両者の歩み寄りによる一人に集約化を意図したが、結局実現せずに、今日の両者の告示日を迎えた。

 来る14日の民主党国会議員、地方議員、民主党党員による投票により決着することになるが、選挙による政治的空白は許されることではなく、さりとて密室での話し合いによる国民不在の談合政治もノー、党が分裂する危険はあるものの、菅、小沢両氏の考え方には大きな隔たりがあり、その溝は埋めがたいと予想していたので、結果的には二人の投票になってよかったと思う。
 この際正々堂々国民に向かって自らの信念・政策を問いかけ正面から政策論争を戦わせて欲しい。政権を担う民主党がより成長するためにも今回の二人の対決は所詮避けては通れない途なんだろうと考える今日の日である。

 それからわたし自身この暑さで少々バテ気味である。ついてはこのブログは、わたしの次のテーマの模索に当たってしばし充電期間を頂きたく、おそい夏休みを兼ねて小休止しますのでお知らせします。