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2010年12月31日金曜日

31日・今年も今日は大晦日になりました!

           ”日めくりの
             一枚寒し 替えれば「卯」”   しげやん0710



     「卯(う、ぼう」)は十二支のひとつ。いわゆるうさぎ年。
 ・通常十二支の中で第4番目に数えられる。前は寅、次は辰である。
 ・卯の月は旧暦2月(卯月は旧暦4月を指す)
 ・卯の刻は夜明けの6時を中心とする約2時間。
 ・夜明けの6時(朝6時)を正卯(しょうぼう)という。
 ・卯の方は東の方角である。
 ・五行は木気、陰陽は陰である。

 「卯」は『史記』律書によると「茂」(ぼう:しげるの意味)または『漢書』律暦志によると「冒」(ぼう:おおうの意味)で、草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。
後に、覚え易くするために動物の兎が割り当てられた。


 経済的に繁栄することには、期待できそうもないが、せめて自分の「心・精神」を豊かにすることを考え行いたい。そのためにも「物欲に囚われず、心が満たされること=ものごとに感謝する心を修行する一年としたく思います。
 どうぞ、みなさまには、よいお年をお迎えください!


過ぎさりしこの一年のご厚情を謝し厚く御礼を申し上げます

2010年12月30日木曜日

30日・寅年から卯年へ・・・この1年間ありがとうございました

 いよいよ余すは、明日一日となりました。わたしの今年一年はマズマズでした。
さしたる病気もせず、何とかやって来ましたが、『坂の上の雲』ではなく、『坂の下の水溜り』でした。下り坂の傾斜を緩やかにして、転げ落ちないように、足を掬われないようにするのが、精一杯でした。 
 
 では、本年最後に「しげやん節」を河内屋音頭で一曲参ります。
 今年は「寅年」でした。”虎は死して、皮を残す”というが、果たしてわが国の政治の世界は、国民に何を残して呉れたのでしょうか、どうだったのでしょうか?


 昨日の『天声人語』には、このように書かれていました。様々な故事や寓話にひっぱり凧の「虎」だが、「苛政は虎よりも猛(たけ)し」はよく知られる。むごい政治はが民衆を苦しめるのは、虎の害よりも甚だしいの意味で、中国古典「礼記」にある。
 悪政にも色々あって、苛政は重税や兵役などで民を苛む政治をいうそうだ。これに対して批政(禾偏に比・ひせい)は、無能で不誠実な為政者による悪政をいうそうだ。   「批」(禾偏に比)とは、皮ばかりで実のない穀物のことをいうそうだ。   
  


 それにしても、お隣り四千年の歴史を誇り、世界第二位の経済大国に踊り出ようとしている孔子『論語』の国・中国の首脳は、果たして『論語』をよくご存知なんだろうか?
わが国の「尖閣諸島」だけの問題ではない。東南アジアの属する海洋に面した諸国にも、同様領海の拡大を目指し、強引な実力行使が続いている。
 

  このことは、わが国の首脳にも当てはまる。論語の説く処は矢張り聖人・君子が相手なんだろう。
 

 (中略)

 わが国を顧みれば、国民が国の政治を預けた「民主党政権」は、ご存知じの通りの、期待はずれもいい処。決めることも決められず、やってることは所詮コップの中の争いばかり。そのうえ、西の隣国には脅されどおし、”尖った剣で日本国の民主党内閣(閣=核)を中国漁船の頭突き一発、痛かったのなんのて・・・!

 
 虎は死して、せめて皮を残しては呉れるが、民主党政権は残したのは、国民への借金増加と世相の不安に政治不信。これでは民主党の「ふあん、フアン=不安」に誰がなる?
  
 そのうえ摩訶不思議な現象が、これこそ心霊現象か?一度は引退声明をだしたさるやんごとなきご仁が、この世に未練たっぷりか!てっきりお母あ~の小遣いで「宇宙旅行」出かけたとばかり思いきや、どこかの国のロケット(金星軌道への投入に失敗した探査機「あかつき」)とおなじく打ち上げ失敗で、地球へ逆戻り。それに仲間の一兵卒に」成り下がった「黒幕大役者」が、党を割らんばかりの元気よさ!この凄まじいエネルギーはどこから注入してもらったの?
 
 教えてくれれば、このしげやん、年が明ければ秦の「徐福」を見習って、「元気の素」を探しの旅にでようと、本気で思うている。


”山のあなたの空遠く、幸い住むと、人がいふ”  『山のあなた』

    カール・ブッセ/上田 敏 訳
 山のあなたの空遠く、
  「幸」住むと人のいふ。
   ああ、われひとと尋めゆきて、
    涙さしぐみ、かへりきぬ。
    山のあなたになほ遠く、
  「幸」住むと人のいふ。

 「母を尋ねて三千里、遠い道のり厭わせぬ、向こうに灯りが見える限り、「幸せ」求めてどこまでも、だけど先達(修験道におけるリーダー役=わが国で云えば首相)の才能の不甲斐なさ、これじゃあ、誰もが付いて行けんわいなぁ~。
 チルチル・ミチルじゃないけれど、「青い鳥」はどこにいる?
「マッチ売りの少女」が応えて曰く、そんなモノ、どこにもないの!マッチが燃え尽きりゃ、それで終りなの!


 そうだ、そうだ!!!かつてわが国の首相や米国では竹薮か何だか知らないが、隠れるには丁度いい茂みのなかから、ブッシュが云った。 藪から棒に、虎ならぬブッシュが云った。 ”全ては自己責任だ”と・・・
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 これを聞いたところで夢から醒めた。醒めてよかった、息をしていて生きていた。
これから先は、まだ長い。長旅の備えて、それこそ「自己責任」で身の周りの整理をしよう!  いま流行りの言葉で云えば”斷・捨・離”とか 、そうはいっても、「とっておこう、で、捨てきれない」自分がいる。どうすりゃ、いいんだ 思案橋 ♫

 
 考えてみれば、まだまだ自分に足りぬもの、沢山ある、ある、ありすぎる。
これを訪ねる「旅」にしよう!まづ、一番目には『創』、わたしが一番身につけたいのはこれ!日本の国とて同じこと、中国や韓国と同じことをやっていたのでは、生き残り競争に勝てっこなし、同じレベルの収入しか得られない。  プラス・アルファを生み出すのがそれこそ『創』、それに加えて世界中で問われているのは『いまからの正義とは?』、倫理感が薄れて、弱者切捨て御免のこの世の中、年末年始を、しげやん、奈良漬にならぬようアルコールを慎んで、読みたい本を買ってきた。 というより通販で取り寄せた。”積ん読”にならないように、そう願いたい年末年始の一休み期間のお仕事でした。
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(購入した本)
◎M.サンデル:『 これからの「正義」の話をしよう』
米国ハーバード大学史上最多の履修者数を誇る名講義、ついに日本へ!いまを生き延びるための「哲学」とは?

◎大江健三郎:『伝える言葉プラス』
ノーベル文学賞受賞作家・人生の困難に陥ったとき、「言葉」について語った感銘と励ましに、深く優しい「言葉」が心を撃つ「言葉」の意味は?



◎多田富雄 :『寡黙なる巨人』・『独酌余滴』
1934年生まれ。東京大学名誉教授、世界的な免疫学者でノーベル賞候補。01年脳梗塞で倒れ、右半身付随、失語症を患い、不自由の身体に鞭打ち左指一本でパソコンにキーをうち、懸命なリハビリで健常なときより不自由になったいま「人間性が深まった」という強靭な精神と努力の持ち主、惜しくも10年4月没。
わたしと同世代で、この壮絶なる「生きざま」を見習いたい。

 
















みなさまには、どうかいいお年をお迎えください。来る年もよろしくお願い申し上げます。

2010年12月29日水曜日

29日・熊野古道「藤白王子」での歌会と「熊野懐紙」

  『熊野詣と歌会の歌=熊野懐紙』
 平安時代に入ると、歴代法皇の「熊野詣」が相次いだ。
法皇の「熊野御幸」の回数を調べてみると、下記の如くである。

 宇多天皇     59代(867-931)   1回
 花山天皇     65代(968-1008)   1回
 白河天皇     72代(1053-1129)  9回
 鳥羽天皇     74代(1103-1156) 21回
 崇徳天皇     75代(1119-1164)  1回
 後白河天皇   77代(1127-1192) 34回
 後鳥羽天皇   82代(1180-1239) 28回
 後嵯峨天皇   88代(1220-1272)  3回
 亀山天皇     90代(1249-1305)  1回

◎「法皇の熊野詣の意味と熊野古道について」
 熊野路は浄土への道であった。熊野の神々に憧れた人々がたぎる信仰を胸に、山を越え海沿いをよぎって行った。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた。「蟻の熊野詣」であった。

 この熊野路の名を高めたのは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての「熊野行幸」だった。  延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで、実に374年間にわたり、100回以上の行幸であったといわれている。
 早朝京都を出発まず淀川を船で大阪に下る。それから陸路南に向かい田辺・中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。 往復の日数は20日から一ヶ月、一行の人数は最大で814人、最小のときで49人、平均300人前後にのぼったといわれている。 
 上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「九十九王子社」と称される休憩所がもうけられ、そのうち五体王子と呼ばれる大規模な王子社が「藤白」「切目」「稲葉根」「滝尻」そして「発心門」と五ヶ所あった。この五体王子社は催し・歌会・宿泊場所等に当てられた。(近露王子跡にあった石碑の記載を参考にした)

 800年もの昔、法皇ご一行の人数を、果たしてどのようにして休憩・宿泊応対がなされたのであろうか?はなはだ興味深い。
当時国を預かる国司はその度に目が回る忙しい想いをしたに相違なかろう。
 だが、そこは雅な法皇・貴族のご一行、雑事は雑人・下人(ぞうにん・げにん)任せで歌会で各自の歌を競ったのであろうか。 では、地元藤白王子の歌会で詠まれた歌を披露させて頂こう。

■ 熊野の歌◆熊野懐紙6
:建仁元(1201)年十月九日 藤代王子・題「深山紅葉、海辺冬月」



【熊野懐紙】懐紙(かいし、ふところがみ)とは、懐に入れて携帯するための小ぶりで二つ折りの和紙である。
 古くは平安時代より貴族階級において様々な用途で使われており、現代でも和装の際や茶道・和食などの席で使用することが多い。熊野懐紙とは、下で説明します。


 後鳥羽上皇は、譲位の後、二八回熊野に参詣するが、その途上、所々の王子社において法楽供養と旅情の慰めのために歌会を催した。
 歌会に参加した人々が自詠の歌を書いて差出した和歌懐紙が、「熊野懐紙」である。各歌会での懐紙は、上皇真筆を筆頭につなぎ合わせて一巻となし、裏面に上皇が歌会の催された場所と年月日を記すのが通例である。
 しかし現存する熊野懐紙は一枚ずつはずされ掛軸に仕立て上げられているものが多い。のちの世に所謂茶掛けという掛け軸に仕立てられて姿を変えた。
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 24年の在院期間のうちに28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇。
 その熊野御幸の特色として、道中、五体王子といわれる宿所となる王子社などで神仏を楽しませるために和歌の会が度々催されたことが挙げられます。
ここで詠まれた歌は「熊野懐紙」といい、国宝・重要文化財に指定されています。

 現存する熊野懐紙とその歌の数は現在のところ、35枚、70首。和歌会の催された年月日、場所、歌題によって7つに分類することができます。
1.正治2年(1200)12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」…11枚22首
2.正治2年(1200)12月6日 滝尻王子 「山河水鳥、旅宿埋火」…11枚22首
3.年月日未詳(正治ニ年と推定) 藤代王子 「山路眺望、暮里神楽」…3枚6首
4.年月日未詳(正治二年と推定) 場所未詳 「古谿冬朝、寒夜待春」…2枚4首
5.年月日未詳(正治二年と推定) 場所未詳 「行路氷、暮炭竈」…4枚8首
6.建仁元年(1201)10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」…3枚6首
7.建仁元年(1201)10月14日 近露王子 「峯月照松、浜月似雪」…1枚2首


 ここでは6の<建仁元年10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」>の3枚の懐紙に書かれた歌6首をご紹介します。
 藤白神社は紀州熊野の入り口と言われ、また名勝でもあるので万葉集歌頃から多くの歌が詠まれています。

 また、後鳥羽上皇のお供で熊野詣をした藤原定家はその著『熊野御幸記』にも、藤代(白)神社界隈のことが記録に遺されています。この藤白神社はわたしの家から約5km南にあり、その近くには悲劇の王子・有馬皇子の歌碑と墓が、全国鈴木姓の発祥の地といわれる「鈴木屋敷跡」があり、古代からの史跡が相当数残されています。ここを訪ねる観光客が多く、また語り部の案内で急峻な藤代峠を越える方も大勢おられ、世界遺産登録を期にかつての賑わいに戻りつつあります。


 現代語訳には現代語訳の本を頼りに私の表現で訳しましたので、かなり怪しい解釈箇所があり、わからない箇所も多々あります。何かお気づきの点など逆にRE:コメント下さい。
1.後鳥羽上皇の歌。
深山紅葉


うばたまの よるのにしきを たつたひめ
   たれみやま木と  一人そめけむ


(誰がこんな深い山の紅葉を見るだろうか。見る者もなく紅葉を織りなす甲斐もないが、竜田姫(竜田姫は秋をつかさどる女神。紅葉を織りなす女神と信じられた)は自分ひとりのために深山の木を染めたのだろうか。)


紀貫之の「見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり」(『古今和歌集』巻五 秋歌下 297)を本歌としている。
、美しい錦も夜はその美しさが目立たなく着る甲斐がないことから、「甲斐がないこと」を意味する。


海辺冬月


浦さむく  やそしまかけて  よる浪を
   ふきあげの月に  まつ風ぞふく



(浦は寒く、多くの島々をめがけて打ち寄せる波を、さらに吹き上げる吹上の浜に、月が照っているが、松風が吹く。)


2.源通光(みなもとのみちてる。1187~1248)の歌。右中将通光


紅葉ばは  しぐれのみかは  たづねいる
   ひかずのふるに  いろまさりけり



(山深くの紅葉の葉には時雨だけが訪ねるのか。日数が経つにつれて色鮮やかになってくることだ。)


おきつかぜ  ふきあげのはまに  すむ月は
  霜かこほりか  うらのあま人


(沖から吹く風よ。吹上の浜に澄み渡る月は霜か氷か、浦の漁夫よ。)


3.藤原定家(ふじわらのさだいえ(ていか)。1162~1241)の歌。 左近衛権少将


こゑたてぬ  あらしもふかき  こゝろあれや
   深山のもみぢ  みゆきまちけり



(声をたてぬ嵐にも深い心があるのだろうか。深山の紅葉が御幸を待っていることだ。)


くもりなき  はまのまさごに  君が世の
   かすさへみゆる  冬の月かげ


(曇りなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢〔よわい〕の数までもが見えるようです。)(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださるように。)
   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「紀州へ入って湯浅までの熊野古道について」
 
 和歌山県に入って最初の中山王子があります。峠を越すと紀ノ川平野の大展望がひらけ、南国紀州に入ったことを実感します。
 紀ノ川を渡り、矢田峠、汐見峠を越えると、祓戸王子から藤代五躰王子(現在の藤白神社)に至ります。ここは熊野一の鳥居、熊野の入り口です。

 藤原定家が建仁元年(1201)に後鳥羽上皇のお供をした時の『熊野御幸記』に「攀じ登る」と書いた藤白峠、拝の峠、糸我峠の厳しい峠を越えて湯浅へと向かいます。けわしい山坂の連続を乗り越えて無事に熊野三山への参詣を果たすよう、上皇・法皇が延べ100回にわたる熊野御幸の際には必ず藤代王子に宿泊をして道中の安全を祈願し、さまざまな法楽・歌会を催していました。
 
 当時、厩戸王子のある信達(大阪・泉南)の宿を出発し、藤代まで1日、藤代から湯浅まで1日の行程でした。

 建仁元年、このとき後鳥羽上皇に随伴した歌人・藤原定家が著した『熊野御幸記』(実物・国宝)から、藤白王子の近くの王子を旅した様子を、現代語訳にして、お届けしよう。その当時の熊野詣の様子の一端が分かるかも、わたしは藤原定家『熊野御幸記』を、地元作家・神坂次郎氏の本で読みました。


建仁元(1201)年10月08日
・「日前宮奉幣使」(「日前(ひのさき)・国懸(くにかかす)両神社をいう。出雲・伊勢神宮とともにわが国でも最古の神社と云われる)
 
八日 天気晴れ
 明け方に出発して、信達一之瀬王子に参る。また坂中で祓する。
次に地藏堂王子に参る。次にウハ目王子(※馬目王子※)に参り、次に中山王子に参り、次に山口王子に参り、次に川辺王子に参り、次に中村王子に参り、次に昼養の仮屋に入る〔ハンザキ〕。


 従者らは指示がなく、その仮屋は甚だ荒れている。ここで時ならぬ水コリがある。
 御幸を相待つが甚だ遅い。忠信少将が参り会って、しばらくして先にこの王子〔ハンサキ(※吐前王子※)〕に参る。しばらく相待つ間に御幸が終わる。
先に出て御祓所〔ワザ井ノクチ〕を設ける。
(日前宮奉幣を勤仕の事)日前宮の御奉幣である。
(予が御幣使となる。その儀式)
 しばらくして、ここで御祓があった。予は御幣を取って立つ。御祓が終わって庁官に返し給う。神馬2疋を引かさせ、御幣を持って、日前宮に参る。
 社殿の前は甚だ厳重であるが、浄衣折烏帽子は甚だ平凡である。
但し道の習わしは何となさんか。
・両社(※日前神宮・国懸神宮〔ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう〕※)の間中央の石畳(舞台のようだ)の上に座す〔こも二枚を敷いて座となす。中を切ったのは西東の区切りためか〕。
 神職の教えによって、御幣を取って拝す〔前後の両段〕。神職に捧げる〔御使は御幣を取って拝舞する。そんな例を知らない。諸社の奉幣使は御幣を社に捧げて笏をもって拝するが、どうだろうか?〕。
 神職は唐笠を差して来る。〔日の光に当たらないためとのこと。普通の束帯である。ただしこの男は大宮司の息子であるとのこと。その父においては紙冠を戴き、戸外には出ず、戸内にいて僅かに見える〕御幣を取る。
 黄衣冠の神人(※じにん。神社に所属した奉仕者※)に、中門の戸内に入らさせ、祝詞。それを聞き終わると、神人がまた中門を出て還祝がある。
 予は立って、東のこもに座す。また御幣〔本より2本である〕を取って拝し同じく神職に捧げる。
 順序は例の如し。終わって退出〔石畳の下でシトを徹し、やはり脛巾を付ける。この役を奉仕するのは恐れがある〕。
 これより道に向う。はなはだ遠い。満願寺を過ぎる間に、僧らが忽ちに喚び入れる。毎度日前御幣使はこの寺に参るとのこと。無理矢理に参入させられた。
 役人が御誦経物をそろえると、僧らは「品が乏しい〔先例に似ない〕」という。すこぶるおもしろくない。僧が仕方なく礼盤(※らいばん。本尊の前で礼拝し誦経するための高座※)に昇る間に予は退出する。
 遠路を凌いで道に出て、ナクチ王子に参る〔これより先また2つの王子がいらっしゃるとのこと。ワサ王子・平緒王子は道の途上にないので参らない。先達だけが奉幣する〕。

(旧海南市には5箇所の王子がありましたが、05年4月下津町との合併で四カ所増えて合計九箇所になりました。上に地図を掲げて置きます。)
(熊野古道を紀州に入ってこの汐見峠に来たとき、初めて海が見えると云われます。その時の感動や如何に・・・ここらで、暫しの休憩をとったことでしょう)

次に松坂王子に参る(子を抱く盲女がいた)。
次に松代王子(海南・春日神社西麓)に参る。


次に菩薩房王子に参る〔これより歩く〕、
次に祓戸王子に参る。

 次に藤白宿に入る〔御所まで行かない。三町ほど離れた小宅である〕。疲労で身を横たえる。(藤白王子社=五体王子の一つ)
建仁元(1201)年10月09日
・湯浅宿で和歌会
 九日 天気晴れ
 朝の出立がすこぶる遅れたため、すでに王子(※藤代王子※)の御前にて御経供養などを行なっているとのこと。
 営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人(※ぞうにん。身分の低い者※)が多く立っていて、隔ててそこへ行けない。
  無理に参ることはできずに素早くそこを出て、藤白坂をよじ登る〔五躰王子で相撲などがあったとのこと〕。
 道は険しくほとんど恐ろしいほど。また遠くに海を望む眺めは興が無いことはない。 塔下(トウゲ)王子に参り、



          (藤白山から海南市(西部)の眺望)
 次に〔藤代山を過ぎ〕橘下王子に参る。次にトコロ坂王子に参り、次に一壺(イチノツボ)王子に参る。次にカフラ坂を昇り、カフ下王子に参る。また険しい山道。次に山口王子に参る。
 次に昼食所に入る〔宮原とのこと。御所を過ぎて小家に入る〕。次に いとか王子に参り、また険しい山を凌いでイトカ山を昇る。
 下山の後、サカサマ王子に参る〔水が逆流することからこの名があるとのこと〕。
次にまた今日の湯浅の御宿を過ぎ、三四町(※1町は約109m※)ばかり、小宅に入る。
 上(国)より宛てがった例の仮屋があるが、この家主が雑事を設けているのでここに入る〔文義(※定家の雇った先達※)の知り合いの男とのこと〕。
 先の小宅に入っている間に、これから先の宿所をまた文儀の従者の男の手配で取る。件の宅は憚りがあるとのことを聞き付ける。 
 よって小宅を騒ぎ出て宿所に入った〔先達はこのようなことは憚からないとのことを言われる。父の喪70日ほどとのこと〕。
  そうだといっても臨時の水コリ〔をかいて〕、景義に祓わせた。また思うところあって潮コリを取ってかく。これは臨時の事である。
 この湯浅の入江の辺りは松原の勝景が奇特である。家長が歌題2首を送る。詠吟は疲労していて、甚だ術がない。
 灯りをともして以後、また立烏帽子を着けて一夜のように参上。
しばらくして蔀の内に召し入れらる。また講師の事を仰ぐためである。終わってすぐに退出する。
  題 深山紅葉  海辺冬月   愚詠
     今日もまた2首当座
 こゑたてぬ  あらしもふかき  心あれや
  みやまのもみぢ  みゆき待けり
(声を立てない嵐にも深い心があるのだろうか。御山の紅葉が御幸を待っていたことだ。)
 くもりなき  はまのまさこに  きみのよの
  かずさへ見ゆる  冬の月かげ

(曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢の数までもが見えるようです。(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)
今日はもっぱら文義・得意らが田殿庄に指図する。(女房中納言殿の便書)遂に見ずに来るとのこと(以下略) 

この1年間のお付き合い、まことにありがとうございました。予定を1日繰り上げてこの記事を綴りました。

 明30日に、本年の〆括りに、今年の一年を振り返って、このところ余り披露しない「しげやん節」の一席で、本年の幕を降ろさせていただきます。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

2010年12月27日月曜日

28日・地元に遺る「大塔宮熊野落」伝承(海南市・春日神社)

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 海南市『春日神社』の「大塔宮護良親王御逗留」伝承のこと 

 和歌山県海南市大野中にある『春日神社』は祭神は「天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)」(古事記)「天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)」(日本書紀)と申し上げ人王5代孝昭天皇の御子とその3世孫「彦国葺命(ひこくにふくのむこと)」をお祀りし、いずれも古代大和の豪族和爾(わに)氏の祖神であります。

 記紀によれば、天押帯日子命(天足彦国押人命)は人王5代孝昭天皇の皇子で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(よそたらしひめ『日本書紀』本文、『古事記』では余曽多本毘売命、日置姫)。同母弟に日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと・6代孝安天皇)がおり、『日本書紀』本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述されます。 
 欠史八代に当たり、事績は伝わらないが、『古事記』には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖『日本書紀』には和爾の祖とし、『新撰姓氏録』にも同様の系譜記載があります。 
 なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)孫に彦国葺命がおり(『和邇系図』)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。各地にある「柿本神社」は和爾氏の同族で有名な歌人・柿本人磨呂があります。

 同族の小野氏には小野妹子・好古・篁・道風・小町(伝説上の人物)等々有名人を輩出してますし、粟田氏では粟田真人(あわたのまひと)奈良時代の官人・学者。大宝律令の制定に加わり、遣唐使として渡唐。帰国後、正三位中納言がおり、また古代に皇妃として和邇氏系女性の名が数多く見られる。

 奈良県平群町にある「猪上神社」、滋賀県滋賀郡志賀町の小野神社の祭神である。
天理市櫟本・和爾下神社、大和郡山市横田の和爾下神社も明治初年頃までは祭神としていた。

 また、静岡県の富士山本宮浅間大社の大宮司家は富士氏で、孝昭天皇の後裔とされる古代豪族和邇部氏の裔になる。降って時棟が初めて浅間神社の大宮司となった。以後、時棟の子孫が大宮司職を継承している。
 海南市の「春日神社は、紀伊国神名帳に「正一位春日大神」と位置づけられている格式の高い神社で、海南市では「正一位」を与えられたのは、現存社では、春日神社だけで聖武天皇の御宇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を受けていました。
 春日神社が紀州大野郷に勧請された経緯をみると、春日・御蓋山は古くから山そのものが信仰の対象(神奈備)とされ、これを和邇氏同族の春日小野氏が奉斎していたが、新興の藤原氏が勃り藤原不比等の時代に和邇氏同族が春日の地を逐われ、藤原氏がとって替り、春日の地を得て春日大社を創建、和邇氏および同族は周辺の地の追いやられ、和邇氏が本拠とした大和や春日の地には和邇氏系の神社が見当たらず、これが大和の古代豪族和邇氏系が没落あるいは周辺の地へ追われたことの傍証になるのではないか、と考えている。
 したがって、春日と藤原氏の春日大社と同じ春日であるが、祭神が藤原氏のそれとは全く異なる。この春日神社は春日の地か、春日氏に由来する。
 明治の神社合祀令施行以前にはいまの春日神社を上の宮、西側の近くに粟田神社があり、これを下の宮といっていたことから。同じ和邇氏系の春日・粟田氏を意味することは明らかである。


 また、元春日という神林よりご神意により、吉方位を撰び現在の地に移転鎮座したため「方位除け」の神様としてまた、「厄除け」の神様として崇拝されています。
境内には熊野古道の松代王子が祀られています。

 この「春日神社」に「大塔宮護良親王熊野落」伝承が遺されています。

◎「大塔宮護良親王の熊野落」と「大野十番頭」


・・・・(前略)「由良の湊を見渡せば、沖漕ぐ舟の棹をたえ、浦の浜木綿幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀の路の遠山渺々と、藤白の松にかかれる磯の浪、和歌・吹上をよそに見て、月にみがける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、あわれを催す時しもあれ、切目の王子に着き給ふ。」太平記に有名な大塔宮護良親王の熊野落ちの際の伝説が海南に残っている。



※「大野(春日)十番頭」とは・・・
 「大野(春日)十番頭」というのは、神護景雲の比、春日神社を大和春日の地から紀州大野郷に勧請してきたとき供奉してきた十家で、建立後には年毎に交代で神主を努めた十人衆で、神社は大野郷十ヶ村の守護神で大野郷(現在の海南市西部と和歌山市南部の一部)を治めた地方豪族で、大塔宮さまからそれぞれ受領名を賜ったと伝えられています。
 のち武士化し、紀州国守護の被官を務め、信長の時代に信長の紀州雑賀衆攻めのとき、信長方:反信長方に分かれ討ち死にする者も多く、急激にその勢力が衰えてしまった。
 徳川の治世に入ると旧勢力の土豪を、藩の懐柔作戦により地士(郷士)として処遇し、その勢力の牙を抜く藩政を敷き、そのなかに没入して十番頭の後裔も勢力を失ってしまった。


 話が戻るが、笠置が落城したのは元弘元年九月二十八日(西暦1331年)であったが、同じく十月二十一日に赤坂も落城したので、大塔宮は金剛山の転法輪寺に入られ、楠木正成、四条隆資等と倒幕の計について協議された後、紀州経略の第一歩として高野山に赴かれた。
 しかし高野は北条氏を憚って中立を標榜し積極的な援助を肯じなかったので、宮はやむなく花坂・池尻を経て布施屋より小栗街道に従って山東荘須佐より藤白に向かって歩を進められた。 
 これは元弘元年(一三三一)十一月中旬より下旬にわたる頃である。
お伴の武士は光林坊玄尊、赤松律師則祐、村上彦四郎父子、片岡八郎、平賀三郎、矢田彦七等であった。  
 さて、この途上、宮は大野荘幡川の禅林寺に一夜参籠されたが、落人の心細さから、この辺に武士たるもの無きやとお尋ね有った。
 ここに大野十番頭の面々が馳せ参じ、警固の任に当たり、一時宮を春日神社に隠し申し上げた。
 故に今に至まで相殿三扉の中、一は空位であるという。宮は大野十番頭達の忠勤を深く称せられ、此時宮は十番頭の其由緒を聞き賜ひて、自ら春日大明神の御名を書き、その脇に先祖の受領をも書き添えられ、夫々一幅づつ賜わったと言うを身の守と放たず、諸処の戦場に出たという。
その十人の祖は
・鳥居浦 三上美作守
・同浦 稲井因幡守 
・同浦 田島丹後守

・同浦 坂本讃岐守
・同浦 石倉石見守
・神田浦 尾崎尾張守            
・井田村 井口壱岐守 
・中村 宇野辺上野守
・中村 中山出羽守         
・幡川村 藤田豊後守

であり、紀伊続風土記には、大塔宮御親筆として、その図を掲げ長さ一尺七寸・幅五寸五分と説明しているが、今はみな紛失して一も遺るものなしと註している。
但し大野郷名高の専念寺等の学僧全長上人が1742年ごろに書いた『名高浦四囲廻見』が記する処によれば、元禄の頃には少くとも二つは現存していたらしい。
 
 全長の著した「名高浦四囲廻見記」には、大塔宮より給ハりし春日大明神の宝号とハ大塔宮流浪の御身にて在せしに、拾人の武士御味方となりし御褒美に若シ我レ天下をおさめハ、其時諸大夫(従五位の位)になさんとの印に給ハりしなりと云……以下略 と有り。(宮は落人の身で与える物これとてなく、我天下をおさめれハ・・(仮定)、という云わば空手形を数多く発行したようで、これもその一種と思われる。)

大塔宮護良親王御親筆


  春日大明神         
         石倉石見守逸吉

長一尺七寸 幅五寸五分 (注)紀伊續風土記より引用

 寛政十二年、大野十番頭の末裔井口平之右衛門より、藩へ提出した由緒書には「元弘二年三月八日、大塔宮護良親王熊野御参詣の砌、大野庄春日山に御宿座之節初めて十番頭之輩、幕下に属し奉る。」と記されている。
 即ち、十番頭の家々に伝わる伝説及び春日神社の旧記はいずれも大塔宮の大野御逗留を元弘二年三月のこととしているのである。

 大塔宮の熊野入りについてはその経路に三説あるが、その研究において最も詳細である「大塔宮の吉野城」の著者中岡清一氏は、宮の高野山御座は元弘元年十一月初め頃より中旬までであり、切目王子御通過を元弘元年十一月二十日前後と考証せられているから、多分中岡説が正しいかと思われるが、元弘二年三月とする我が地方の所説は春日神社で年を越されたという伝説などと共に何か拠り所があるようにも思われる。

 さて、大野十番頭に伝わる説に、神護景雲二年(七六八年)春日社勧請の時、十人の祖が南都より供奉して当荘に来たり住したとなっているが、これは中世大野の春日神社の祭神を以て奈良の春日と同神なりとする誤伝があった処から生じたものであろうが、しかし大野十番頭は春日社の祭神たる人王5代孝昭天皇の御子天足彦国押人命の子孫、即ち大春日姓の人々の中の由緒ある家柄に発した者であろうことが想像できる。
 そしてはやくより、春日神社および禅林寺を中心とする当地の郷士であり、大きな勢力を持っていた事は事実であり、その子孫の多くは織田信長時代の井松原合戦に参加して戦死する者もでたが、徳川幕府の成立と共に、地士として優遇せられる者も多く、現在その姓を名乗る家も市内に分散している。

 それらのうち、日方の石倉氏、黒江の尾崎氏などはその正統を伝え、代表的の家であると言われている。


なお、次に『南紀徳川史』を引用して参考にする。
〇 寛政十二年(一八〇〇)大野十番頭の末裔井口平之右衛門より藩へ提出した由緒
・神護景二年(七六八年)名草郡三上郷大野荘へ春日大明神を勧請之刻南都より供奉之面 々十人有之十番頭と号す。即ち、尾崎・稲井・井口・坂本・藤田・石倉・中山・田島・三上・宇野辺也
・右各大野荘に止まり、数代郷士にて三上郷大野荘所領し、春日両社、幡川村禅林寺、鳥 井村観音寺、山田村菩提寺、井田村地蔵寺右寺社其砌より十番頭支配仕来る。
・禅林寺は聖武天皇勅願所にて行基僧正住職、其砌十番頭之者営作之事共奉る。(久世註 …この項は?)

一 元弘二年(一三三二年)三月八日、大塔宮護良親王熊野参詣之砌、大野荘春日山に御宿座之節、初めて十番頭之輩幕下に属し奉る。

一 当国、山名、大内、畠山等領主之節、阿州三好進発意熊野三山且天川出張之節、被相催之段神妙之至候旨、遊佐河内守基盛より十番頭衆御中と宛てたる書翰並びに右同人よ り十番頭と被記、仲間の内所持する。

一 天正十八年(一五九〇年)八月紀州根来寺並びに太田城落城以後、猶国中所々一揆屯し、及び狼藉候に付、十番頭へ御掟相守候様にと、豊臣秀吉公より御朱印状被下置。

一 三上郷大野荘春日明神之社領、奥の院幡川禅林寺寺領の外は、十番頭の面々之所領にて有之候由、此段は明暦二申(一六五六年)六月由緒御尋ね之節も書上げ申候。

一 南龍院様(徳川頼宣公)御入国之後、元和八酉年(一六二二年)六十人に被為召出、其後代々相続仕る。是に依て見れば、初めは神職に類し社寺領支配之処、遂に其を押領し、自ら十番頭と号して武威を張り、世襲之地頭となりし也。地士由緒之内十番頭之事往々見る処とす
※( 久世正富) 『海南郷土史』 昭和六二年六月 (株)臨川書店
(引用) 『紀伊名所図絵』にいふ
元弘二年(一三三二)年の春、大塔宮護良親王、南都般若寺より熊野へ落ちさせたまふとき、此所にきたらせ給ふて御社参あり。日も夕陽になりければ、早くも幡川の薬師へ御参籠ありて通夜し給ふに、落人の御身なれば御心細さに、直宿のものに問はせ給ふには、此辺に郷士はなきやと御尋ありしかは、則十人の郷士相詰め守護し奉るとの由申し上げれば、御感のあまりに受領を賜わりける。云々…
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 春日神社の境内に「大塔宮護良親王御逗留旧跡」之石碑を大野十番頭の末裔有志が寄付、建立しました。
 たまたま、朝日新聞社が【わが街の自慢の史跡・記念碑】を05-06年にかけてシリーズで紹介したなかに、海南市・春日神社境内「大塔宮護良親王御逗留旧跡があります(05・12・19掲載)。
 (写真・左から十番頭末裔・井口敏男・尾崎林太郎・しげやんこと尾崎重光の各氏)


 この建立の除幕式のあと「大塔宮護良親王熊野落事と地元に遺る伝承について」と題して、私が講師役を勤めたときのことが、地元の新聞に掲載されたので併せて紹介しておきます。(「わかやま新報・H17・9・18掲載)
続き(・大前綾子さんは「熊野古道を辿る大塔宮」を先々テーマに鎌倉時代末期の状況を踏まえながら、分かりやすく解説し、参加者は興味深々に熱心にメモをとっていた。

(付録・春日神社西の麓の境内にある熊野古道「松代王子社」)


(今年の最後として30日に熊野詣に関わる歌会で詠まれた「熊野懐紙」を地元藤白神社歌会時の作を紹介し、本年の〆(忘年会替わり)と致します。この一年間ありがとうございました。年明けは1月5日頃から)

2010年12月26日日曜日

26日・「切目王子」の伝承・「大塔宮熊野落事」(太平記より)の巻


 ときは元弘元年(1331)十一月終り頃、山伏姿に身を扮した一行総勢九名が一路「熊野路」を急いだ。「太平記」(卷5)に有名な「大塔宮熊野落事」である。

 「元弘の変」を惹き起した後醍醐天皇は鎌倉幕府軍に追われて、比叡山から笠置山に身を遷し、ついに囚われの御身と相成った。

 一方、大塔宮護良親王は天皇を救出すべく笠置山へと向かったが、帝が囚われの身となったので、楠正成が籠もる赤坂城へ脱出し、正成とともに闘うが多勢に無勢、奈良の般若寺に身を隠し、唐櫃(からびつ)の中に潜み、辛くも追手から逃れ、九死に一生を得て高野山を頼ったが受け入れられず、一路熊野を目指して落行くことにした。

(※「大塔宮護良親王」護良【もりよし・もりなが】略記)
・生年: 延慶1(1308)~没年: 建武2.7.23(1335)
 後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。文保2(1318)年2月,三千院(梶井門跡)に入室したと伝える。 嘉暦1(1326)年9月、落飾して尊雲法親王と号した。  翌年天台座主に補任された。元徳1(1329)年延暦寺大講堂を修理した。天台座主への就任は,延暦寺の勢力を討幕運動に組み込むための布石であった。
 後醍醐天皇の第2次討幕運動(元弘の変)に際し,弟尊澄法親王(宗良親王)と共に八王子に布陣したが、六波羅軍との合戦に敗れた。佐藤和彦『太平記を読む』
  
 
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 このところは「太平記」に中でも名調子といわれる巻五「大塔宮熊野落事」に詳しい。さきに、「切目王子案内板」にも書かれているように一路切目の王子まで落行したのである。

 では、少々長くなるが太平記から、十津川までの落行の様子を引用してみよう。
(古文ですが、さほど読みにくくありません。高校時代を想いだし読んで下さい)

(前略)・・・角ては南都辺の御隠家暫(しばらく)も難叶(かないがた)ければ、則(すなはち)般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。
 御供の衆には、光林房玄尊(こうりんぼうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。
 宮を始奉て、御供の者迄も皆柿(かき)の衣に笈(おい)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其中に年長(としちょう)ぜるを先達に作立(つくりたて)、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ
見せたりける。 
 此君元より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内に長(ひと)とならせ給て、華軒香車(かけんこうしや)の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途(ちょうど)は定はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾(はばき)・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊、宿々の御勤懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者も、勤修(ごんじゆ)を積める先達も見尤(みとがむ)る事も無りけり。
 
(紀州)由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊の路の遠山眇々(はるばる)と、藤代(海南市)の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上(和歌山市)を外に見て、月に瑩(みが)ける玉津島(和歌浦)、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村(こそん)の樹、夕(ゆふべ)を送る遠寺(えんじ)の鐘、切目の王子(中紀・印南町)に着き給ふ。


 其夜は叢祠(そうし)の露に御袖を片敷て、通夜(よもすがら)祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法(まんさんのごほう)・十万の眷属(けんぞく)・八万の金剛童子、垂迹和光(すゐじやくわこう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇を照さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現は是伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也。我君其苗裔(そのべうえい)として朝日(ちょうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。
 玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給)ける。丹誠(たんぜい)無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗(あん)に被計たり。
 
 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈有ければ、御肱(おんひぢ)を曲て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在ける御夢に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子一人来(きたつ)て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成(なり)難し。是より十津川の方へ御渡候(わたりそうらひ)て時の至んを御待(おんまち)候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覺にけり。是権現の御告也。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊を捧げ、頓(やが)て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。
 
 其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙(そばだて)て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。

 山路(さんろ)本(もと)より雨無して、空翠(くうすゐ)常に衣を湿(うるほ)す。向上(かうじょう)とみあぐれば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削り、直下とみおろせば千丈の碧潭(へきだん)藍に染めり。 数日の間)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経させ給へば、御身も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損(かけそん)じて草鞋(ぞうり)皆血に染れり。
 
 
 御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲(うえつか)れてはか/\敷も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰を推(おし)御腰を推(おし)御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。
 宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣の(山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共)哀(あはれみ)を垂て、粟の飯(いひ)橡(とち)の粥など取出)して其飢を相助(あひたす)く。
 宮にも此等を進(まいら)せて二三日は過けり。角ては始終如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野(とのの)兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思ければ、門の内へ入て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者有と覺て「哀れ貴(たつと)からん山伏の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云声しけり。
 玄尊すはや究竟(くきょう)の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共、路に蹈迷(ふみまよう)て此里に出て候。一夜の宿を借(かし)一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪(あや)しげなる下女一人出合(いであ)ひ、「是こそ可然(しかるべき)仏神(ぶつじん)の御計ひと覺て候へ。是の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)「我等はその山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじどう)に、足を休て被居て候先達こそ、効験(こうげん)第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ」と云ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其先達の御房(ごばう)、是へ入進(いれまゐら)せさせ給へ」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由を申ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供の人皆彼が館(たち)へ入せ給ふ。
 宮は病者の伏たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持あり。千手陀羅尼(せんじゅだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠を押揉(おしも)ませ給ければ、病者自(みづから)口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮て戦(わなな)き、五体に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。

 主(あるじ)の夫(をっと)不斜喜(よろこう)で、「我畜(たくわへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物迄は叶候まじ。枉(まげ)て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽(そこつ)に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質(ごしち)に玉らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合て皆内にぞ置たりける。
 御供の人々、上には其気色を不顕(あらわさず)といへ共、下には皆悦思へる事無限。角(かく)て十余日を過させ給けるに、或夜家主(あるじ)の兵衛(ひょうゑの)尉(じよう)、客殿に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共しける次に申けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。
 (熊野)三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二の武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覺候。哀(あはれ)此里へ御入候へかし。      所こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共、四方(しほう)皆嶮岨(けんそ)にて十里二十里が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫(ちゃくそん)惟盛(これもり)と申ける人も、我等が先祖を憑(たのみ)て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙(かたじけなく)候けるとこそ承候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮なんどの、此所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂・湯浅・阿瀬川(あぜがは)・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申ける。
 其時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくばせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側に居寄て「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾(ときん)を脱で側(そば)に指置く。實(まこと)の山伏ならねば、さかやきの迹(あと)隠なし。
 
 兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座(おは)せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿(あさまし)、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外(もつてのほか)に驚て、首(こうべ)を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞(そんこ)せり。
 
 俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居(すえ)、路を切塞で、用心密(きび)しくぞ見へたりける。






 是も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまい)らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召(おぼしめし)て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覺異他なり。
 さてこそ家主の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾け、近辺の郷民共(ごうみんども)も次第に帰伏申たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。
 
 去程に熊野の別当定遍(じょうべん)此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じゅうまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心(よくしん)を勧て、宮を他所(たしょ)へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立)けるは、「大塔宮(を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしょう)を恩賞に可被充行由を、関東の御教書(みきょうしよ)有之。其上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討たらん者には五百貫、降人(こうにん)に出たらん輩(ともがら)には三百貫、何れも其日の中(うち)に必沙汰し与(あたふ)べし。」と定て、奥に起請文の詞(ことば)を載て、厳密の法をぞ出(いだ)しける。

(上・大塔宮碑・左下・竹原八郎墓・右下・戸野兵衛墓)






 夫移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんごうじやう)の八庄司共(しょうじども)此札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此所の御止住(おんすまい)、始終悪(あし)かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強(しい)て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給ける。結句(けつく)竹原入道が子共さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討奉らんとする企(くわだて)在と聞しかば、宮潛(ひそか)に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。


(以降は省略します。十津川も身を隠すのに必ずしも安住の地ではなくなったので、再び吉野方面へ落ちさせ給わんことが書かれています。)



 辿りついたのは吉野(奈良)金峯山寺で、ここを拠点に元弘3年正月再起を図りました。
 切目の王子より山中分入り十津川に至る紀州の地にも大和の南にも大塔宮護良親王を偲び奉り、村の名を「大塔村」と名付けた場所や宮の遺跡が点在しています。

 また、紀州の土豪は殆どが大塔宮にお味方し「南朝方」でした。
 宮は還俗前は比叡山延暦寺の座主であらせられ、比叡山延暦寺は天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持っていました。

 特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
 このように天台宗は密教、修験道とも通じ、宮は修験者にも多勢の味方がおり、険しい山道を駆け巡る修験者の働きにより「隠れ里」におりながら、都や幕府の詳しい情報を得ていたと考えられます。
現に隠岐の島に流配された後醍醐天皇とも密な連絡がとれていたものと見られる。                 (この項終り)


※  わたしの遠い祖先が大和・春日の地から8世紀半ばに勧請してきた紀州大野郷「春日神社」(祭神・人王五代孝昭天皇の長子・天押帯日子命・「古事記=同族に春日・粟田・小野・柿本・山上・櫟本等々十数氏の祖神」・天足彦国押人命「日本書紀」大和の古代豪族・和邇氏の祖)に大塔宮が熊野落のとき、一時宮を隠し奉った伝承があり、わが遠祖「大野十番頭」衆が宮を匿い守護し奉り、大塔宮から受領名や品を下賜された記録が遺っている。
 
  近年同社境内に大野十番頭後裔の有志により「大塔宮御逗留記念碑」が建立され、毎年6月始めに同神社で「大塔宮大野(春日)十番頭まつり」が開催され、併せて海南の中世史講座が開設されています。 つぎは、このことに触れたいと思います。 

2010年12月24日金曜日

24日・熊野古道・切目王子の遺された伝承

 京の都から熊野本宮大社まで九十九王子と云われる王子社があります。九十九は実際の数ではなく数多くという意味です。百近くあります。

 熊野への道中王子でで休憩したり、中には五体王子と呼ばれる大きな王子社もありました。 この五体王子社では催物、歌会を催したり、宿泊場所にも充てられました。法皇などのご一行の熊野詣にときには、約千人前後の付き人が従ったと云われます。
 この歌会で詠まれた歌は「熊野懐紙」として遺され国宝に指定されています。

 五体王子は紀州では、「藤白」「切目(切部)」「稲葉根「滝尻」と「発心門」の5つの王子を指します。

このうち、今回採り上げるのは「切目(切部)王子」です。場所は紀州に入って熊野本宮までの半ばで、海岸沿いの場所にあります。この王子には有名な伝承があります。

 その一つは、平清盛が熊野詣の途次、「切目(切部)王子」まで来たとき、都で異変が惹起したことを知り、都へ駆け戻ったお話です。もう一つは元弘の変(1331)に熊野落ちの途次、大塔宮護良親王が夢で熊野権現のお告げで熊野にではなく十津川に落ち行く先を変更したのが、切目王子で見た夢の神の御宣託なのです。

 今回はまず、平清盛がここ切目王子から熊野詣でに後ろ髪を引かれる想いをしながら都へ駆け戻ったお話です。
 時は、平治元年(1159)十二月四日、清盛は嫡男重盛以下一族郎党50名ばかりを引き連れて、熊野詣でに出かけた。

 その留守を狙って、藤原信頼・源義朝らがクーデターを起こし、十二月九日三条殿へ夜討をかけた。「平治の乱」である。変を報せる六波羅の早馬は、切部(切目)の宿で清盛の一行に追いついた。

 都に大事件が起こったというのに清盛は、「ここまで来て、参詣しないで引き返すのも心残り」などと迷っている。

 重盛(清盛の嫡子)が、事は一刻を争う。何をおいても帰洛して逆臣らを討つべきだと説いたので、やっとその気になった。さて、はたと困ったのは、熊野詣でだから、一同が全く武装をしていないことだ、すると、筑後守家貞が、重そうな長櫃五〇合を運び出させた。
 開けてみると、鎧・弓矢が50人分入っている。万一の場合を考えた家貞が、ひそかに用意して持ち歩かせていたのだ。

 熊野別当湛増から20騎。湯浅宗重(紀州湯浅の武家)の30騎が加わって総勢100余騎が「啓礼熊野権現、今度の合戦ことゆえなくうちかたせ給へ」と祈って、熊野路をひた走りに駆けた。

 阿倍野の辺りに義朝の長男義平が兵を出して待ち構えているという噂があったが、それは伊勢の家人たち300余騎だった。勢いづいた清盛の一行は、まっしぐらに都に入り、稲荷神社に参拝して、めいめい杉の枝を折って鎧の袖にさし、六波羅へ帰還した。

 この乱をみごとに勝ち抜いた清盛は、京都から源氏の勢力を一掃して、平氏の黄金時代を築き上げた。清盛は父忠盛の故郷熊野に、恩賞を送ったのは、言うまでもない。

※(紀州・湯浅氏の由緒)
 ここに登場する湯浅氏は藤原秀郷の後裔といい、紀伊国在田郡湯浅庄から発祥した武士団であった。湯浅氏が歴史の舞台にあらわれるのは、紀伊権守宗重のときである。平治元年(1159)、熊野参詣の途中にあった平清盛のもとに源義朝挙兵の報が伝えられた。いわゆる「平治の乱」で、清盛はただちに京に引き返すと上皇・天皇を救出し義朝軍を打ち破った。このとき、清盛の帰洛に活躍したのが湯浅宗重であった。
 かくして、平家の有力家人となった宗重であったが、源頼朝の挙兵により平家が滅亡すると、平重盛の子忠房を庇護して湯浅城に立て籠り源氏方と戦った。その後、文覚上人の仲介で源頼朝に降り、本領を安堵され鎌倉御家人に列した。以後、湯浅一族は在田郷一帯から、さらに紀ノ川流域にまで所領を拡大し、有力御家人として栄え湯浅党と呼ばれた。

◎「切目(切部)王子」
 熊野九十九王子社のうち、五体王子のひとつに数えられた別格の神社。現在も檜皮葺春日造の社殿を中心に古風なたたずまいを遺しています。社前には幹周り4m、高さ16mにおよぶ県下最大級のホルトノキがあり、この神社の長い歴史を物語っています。
 切目王子は平氏と源氏による二度目の争乱、平治の乱を語るに欠かせない重要な舞台です。

 12月13日、切目王子付近で戦乱の急報を知った清盛は切目王子で評定(会議)を開き、熊野への参詣を中止して急ぎ、都に取って返し、12月17日には和泉国、紀伊国など西国の兵を本拠の六波羅に集結させてクーデターの鎮圧に乗り出し、源氏の勢力を一掃することに成功した。

 源平の騒乱の前後には、参詣途中の皇族貴族による経供養や里神楽、歌会が境内で催されたようです。
 切目王子のもう一つの伝承は、元弘の乱(1331)で熊野落ちの途次、切目王子で熊野権現から夢のお告げを受けた大塔宮護良親王が、十津川へと落ちのびたという故事が「太平記」に記されています。

 この護良親王の話は次に譲るとして、平清盛が熊野に如何にご執心だったかの話を続けましょう。
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◆ 平家物語1『平清盛の熊野詣』

 『平家物語』にまず最初に熊野が登場するのは、巻一の「鱸(すずき)の事」。

 そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。
 清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国安濃の津(伊勢平氏の本拠地)から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。
 先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」と申したので、清盛は十戒を守って精進潔斎の熊野参詣の道中であるけれど、自ら調理して、身を食べ、家子(いえのこ。一門の庶流で本家の家来になっている人々)、侍(血縁関係のない家来)たちにも食べさせた。

 そのご利益があったためか、以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。九代の前例を越えたのは見事である。 清盛は20歳で肥後守となりましたが、それは父忠盛(ただもり)の熊野本宮造営の賞の譲りによるものであった。
 熊野にはそのような縁もあり、清盛はたびたび熊野を参詣している。
 
 平治元年(1159)には、子の重盛らを伴って熊野詣をしていたその隙をついて源義朝らが挙兵。清盛らは急きょ、京に引き返し、義朝らを打ち倒しましました。この「平治の乱」の勝利により平家は圧倒的な地位を得ます。

 その翌年には後白河上皇の初めての熊野御幸に従っています。そのときのことが『梁塵秘抄口伝集』に描かれて、清盛の名も記されています。
 この『平家物語』の「鱸の事」に語られているお話は、それらより以前に行った熊野参詣の途上での出来事です。
 熊野詣は精進潔斎の道。行きも帰りも、魚や肉、ネギやニラなどは口にすることはできませんでした。
 清盛一行も津を出てから精進潔斎を守ってきたはずです。それにもかかわらず、鱸を食すことを先達の修験者が勧めます。

 おそらく、これは、清盛が 熊野三党(熊野の有力者、宇井・鈴木・榎本の三氏)の力、熊野の力を手に入れたということを示しているのだと思われます(魚の鱸=鈴木に通じる?)。
 それにしても、平家一門の繁栄は凄まじいものでした。 平家は、清盛の祖父正盛(まさもり)の代まで諸国の受領にすぎず、中央の政界では何の力ももっていませんでしたが、清盛の父忠盛が武士として初めて宮中への昇殿を許され、平家繁栄の足掛かりを築きました。

 父忠盛の死により家督を継いだ長子清盛(1118~1181)は、当初、安芸守でしたが、後白河上皇に重用され、保元の乱における功により播磨守に移り、太宰大弐になり、さらに平治の乱を鎮圧した功により正三位と昇進。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言となり、従二位を叙され、大納言へと出世街道を駆け上がります。 その間、清盛の妻の妹滋子が後白河院の後宮に入って、憲仁親王(高倉天皇)を生み、親王が皇太子になってまもなく、1167年、清盛は50歳で従一位太政大臣になりました。武家出身でありながら、全官職中最高位で「天皇の師範」と規定される太政大臣にまで清盛は登りつめたのです。 清盛は3ヶ月で太政大臣を退き、翌1168年、病を理由に出家。病はたちどころに癒え、出家後も平家一門の繁栄は止まりません。

 嫡男重盛(しげもり)は内大臣左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言右大将、三男知盛(とももり)は三位の中将、嫡孫維盛(これもり)は四位の少将。一門の公卿は全部で16人。殿上人は30余人。諸国の受領、衛府の役人、諸官など都合60余人に及び、平家の知行国は全66カ国中30余国を数えました。
 また娘徳子は高倉天皇の后となり、言仁親王(安徳天皇)を生みます。ここに平家一門の繁栄は絶頂を極めました。「平家にあらずんば人にあらず」と、全盛を誇ったのですが、やがて『平家物語』の冒頭にある有名な”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。”と云われるように源氏にとって替わられたのです。

 つぎは、時代が下りますが同じ切目の王子で熊野権現のお告げにより熊野落ち途次の大塔宮護良親王が熊野から落ち行く先を十津川に替え難行苦行のすえ、辿りついたお話をし、そのあと、源平合戦時「平家」か「源氏」に味方するかで分かれた熊野別当家の話をします。

2010年12月22日水曜日

22日・「熊野」(その4)神武天皇(即以前)の熊野上陸

これから書く即位前の神武天皇と「熊野」の関係について「古事紀」「日本書紀」に登場するが、両書はその記載内容に相違がある。ここでは主に「日本書紀」によって話を進めたい。




「神武天皇の生涯」(一部分)

 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事績である。 内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。 『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めている。

・ 東征の開始

 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地、高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(二ギハヤヒ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

・ 長髄彦との戦いと苦難

 太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫(現・宇佐神宮)の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。(中略)
 戊午年の2月、浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。

 この地を支配する長髄彦(ナガスネヒコ)が軍衆を集めて孔舎衛(クサエ)坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
 磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去し、その地に葬った(現・和歌山市竃山)。名草戸畔(ナグサトべ)という女賊を誅して、熊野の狭野(現・和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野神邑に至り「天磐盾(あまのいわだて)」に登り、再び船を出すが暴風雨に遭った。

 陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命(イナヒノミコト)と三毛入野命(ミケイリノノミコト)が入水し荒海を鎮めた。

 磐余彦は息子の手研耳(タギシミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔(二シキトべ)女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

・熊野上陸と八咫烏の道案内と勝利

 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下(タカクラジ)に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。

 剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は「八咫烏(ヤタガラス)」を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田(ウダ・現・奈良県宇陀市大宇陀区)の地に入った。8月、莵田の地を支配する兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。

 磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。(後略)



 8月、莵田の地を支配する兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。
 磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。(後略)

「八咫烏(やたがらす・3本脚のカラス)」
 

※「八咫烏」は神の使いとされ、熊野三山では崇められている。また、日本サッカー協会のシンボルマークであり、三本脚のカラスである。古来中国では、3は太陽を意味し、縁起がいい数字とされてきた。



◎「神倉神社」と「記紀神話」 新宮市街の西の小高い山の上に、通称“ゴトビキ岩”と言われる巨石をご神体として崇める神倉神社がある。 ゴトビキとはこの地方の方言で、ヒキガエルのことですが、巨大な磐の姿はヒキガエルが蹲る姿に見えなくもありません。
 熊野の地は自然崇拝が顕著で、那智の滝が熊野那智大社のご神体といわれるように、神倉神社はゴトビキ岩という巨岩をご神体としていることから、磐座信仰から発した神社と考えられます。
 
 熊野といえば熊野三山と言われる、「本宮」「速玉」「那智」が圧倒的な知名度ですが、これら熊野の神々が最初に天上から降り立った“天磐盾(あまのいわだて)”と言うのが実はこの神倉山の磐山であったと伝えられ、その意味で熊野信仰の根本とされています。また、熊野速玉大社の「本宮」「奥の院」ともいわれえることから、発祥は速玉より早かったと推測されています。いまに神倉山の麓には「磐盾」という地名が残っています。

・神倉神社ふもと












 












ふもとからは、急峻な斜面に、源頼朝が寄進したと言う石段が築かれていますが、これが相当の急峻、特に下りは、初めての人はちょっとビビリますヨ! この石段を見下ろすと、この石段を駆け下るなんて・・・・ちょっと信じがたい!でもぜひ一度見てみたい勇壮なお祭りです。



・「御燈祭り」
 毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例祭で、古代以来の熊野山伏の伝統をもつ。白装束に荒縄を締め、ご神火を移した松明をもって、神倉山の山頂から急な石段をかけおりる男の火祭りである。
 このまつりは火の洗礼を受けるものとして始められたもので、炎の奔流は闇に火の斑を撒いて躍動し、その壮観さは、新宮節にも唄われているとおり「お燈まつりは男のまつり山は火の滝、下り竜」そのものである。昭和39年5月、県の無形民俗文化財に指定。





・神倉神社由緒
 この神社の祭神は「天照大神」・「高倉下命(たかくらじのみこと)」であるが、高倉下命は、記紀神話の神武東征の際、夢の中で天上の神々の依頼を請けて、窮地に陥っていたイワレヒコ(後の神武天皇)に、フツノミタマと云う聖剣を届け、皇軍の危機を救った人で、熊野三党といわれる、宇井・鈴木・榎本氏の祖とされています。
 なおこのときのイワレヒコの危難について、古事記では、荒ぶる神の化身の大熊に出くわした時、その毒気に触れて全員意識を失ってしまったとあり、日本書紀では、丹敷戸畔(ニシキトベ)と云う、この土地の豪族を討った時、戸畔(部族の長の女性、巫女さんのような女性が部族を統率していた?)が神毒気(アシキイキ)を吐いて人々を萎えさせた、とされています。


 記紀における神武東征の話あたりは、ちょうど神話から歴史物語に変わってゆく境目に当たるわけですが、ひとつの事柄でも、記述のされ方は上記のようにかなり異なっています。
 まず古事記は日本語の言葉に漢字を当てはめた(いわゆる万葉仮名)に対し、日本書紀の原文は漢文で記載されています。
 ちなみに神武天皇の即位前のお名前“カムヤマトイワレビコノミコト”古事記の記述では“神倭伊波礼毘古命” 日本書紀では“神日本磐余彦命” と記されています。

 また上記のように、おはなし的な記述の多い古事記に対し、日本書紀には何年何月何日にどうしたといった記述が多くなされています。これは一般国民向けに、国の成り立ちや皇室の由来を語った古事記と、律令国家の公文書としての意味を持った日本書紀と云う解釈をしたらいいのではと思います。
 いずれにせよ、その内容や年代がすべて事実とはとうてい思えませんが、何らかの事実の上にそういった謂われあるのであって、伝説や伝承の類は何らかの根拠があって、それらが長年にわたって伝えられてきたものと、当初から一蹴することはできないと思います。近年多くの貴重な遺跡が続々と発見され、それらが記紀の記述に合致することが多くあり、上記のことを証明しています。

(つぎは、源平のころ「平清盛」が熊野参詣の途次、紀州切目王子で都に不穏な動きあるを知り、急いで都へ戻った話、源平合戦の折り、双方から味方するよう誘われた熊野別当・湛増が赤・白二羽の鶏を戦わせ、白が勝ったので源氏へ味方し、「熊野水軍」を率いて平家を壇ノ浦に追いつめた伝説、また南北朝のまえ元弘元年冬、大塔宮護良親王が熊野落ちの際、切目王子で神のお告げにより落ち行く先を十津川の替え、再起を期して暫時潜伏した伝承等々紹介予定です。)