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2014年7月10日木曜日

城下町の風景Ⅱー寺内町と式内社 ⑧朝椋神社・鷺森御坊

城下町の風景Ⅱ寺内町と式内社 ⑧朝椋神社・鷺森御坊

 和歌山城を北に5~600mの処に鷺森御坊があります。ここは地元豪族雑賀氏と所縁が深く、時代的にも和歌山城築城より古く、浄土真宗の御坊があったところです。

 紀州でも日高地方に中世紀州の守護職畠山氏の守護代を務めた湯河氏の本拠地の浄土真宗日高別院の寺内町として栄え、市制実施時には日高別院の通称「御坊」がそのまま市名になった訳で、いわゆる寺内町です。参考までに下に掲げて置きますのでご参考にして下さい。
 
画=西村中和、彩色=芝田浩子

寺内町と式内社 ⑧朝椋神社・鷺森御坊

 延喜式神名帳にみえる朝椋神社は、大国主命を祀る城下町北部の産土神で、鷺森明神丁に位置します。神社は東側に鳥居と門があり、門をくぐると大きな松が生えていました。その右手に本社、東に「子守・勝手」社、西に「八幡」宮と「天神・金比ら・いなり」などを祀る相殿がみえます。
 鷺森御坊と朝椋神社の間には、神社に背を向けた片町があります。片町の由来は、城下町絵図をみただけではわかりませんが、これをみれば一目瞭然です。そこには同じような家屋が連続して建っており、御坊関係者の居住あるいは宿泊施設かもしれません。
 御坊は、永禄6年(1563)に秋葉山から鷺森へ移転してきました。その周辺は寺内町といって、城下町ができる前から集落がありました。片町はその一つで、ほかに新道・堂前丁・中ノ丁・東ノ丁・西ノ丁・南ノ丁・明神丁・専光寺門前丁・曲尺(さしがね)丁があり、鷺森門前町は現在も10町がそのままの町名で残っています。
 近世初期、紀伊国へは羽柴(豊臣)氏、浅野氏、徳川氏が相次いで入国し、和歌山城を中心に城下町を建設しました。その町割は現在も踏襲されています。しかし、鷺森付近は戦前まで寺内町のままでした。戦後の復興・区画整理事業で、そのほとんどは城下町の町割と一致する東西・南北方向の道路に付け替えられましたが、鷺森別院西側の道路などには中世末の寺内町に起源をもつ痕跡が、今も残されています。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)
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江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は6月25日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年6月11日号掲載

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    御坊市の町並み薗・御坊・地図



東町の町並み
  御坊市は浄土真宗本願寺の日高別院の寺内町として発展した町で、和歌山県のほぼ中央、日高川の河口に位置する。
室町時代以降は、日高では亀山城主の湯川氏が支配するようになる。十一代の直光は「紀州の総大将」といわれるまでになっていて、戦国大名へ発展する勢いであった。しかし湯川直光は享禄元年(1528)に摂津国江口での三好長慶軍との戦いに敗れ、本願寺の証如上人の助力により無事に日高まで帰還できたことから、天文年間(1532~55)に領内美浜町吉原に坊舎を建てて寄進した。この吉原坊舎が日高別院の前身だ。
天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで湯川氏も滅び、吉原坊舎も戦火にかかり焼失したが、文録4年(1595)に佐竹伊賀守(鷺森の有力者)の援助で現在地に鷺森御坊の別院として御堂を再建した。
人々がこの寺を「日高御坊」「御坊様」と呼んだのが御坊市の地名のおこりだ。これ以降、門徒を中心に人々が近郷から周辺に集住し町場が形成され、日高地方の産業の中心になった。
温暖多雨・肥沃な日高地方は、農林漁業を中心に商工業・大廻船などが盛んで、特に緊迫した様子はなく、江戸時代に続発した一揆も起こっていない。町は日高別院を中心に西町・中町・東町にわかれ、特に東町には蝋燭・酒・木材問屋や醸造業者・油屋・薬屋・旅篭が軒を並べ寺内町として栄え、現在も土蔵をもった古い町並みが残っている。
日高大廻船については、物資の集積地大坂と大消費都市江戸間の輸送手段として、主に大坂・堺の問屋に借り上げられ、回漕に従事していたのが日高廻船である。
酒や有田みかん・日高蝋などを江戸に下ろし、帰りには干鰯を積み、その全盛期の明和~天明(1764~89)には遠く北陸地方にまで出入りしていた。しかし度重なる海難事故、得意先の灘の造り酒屋が自前の廻船を持つようになって幕末には衰退した。
東町や薗(新町)の伝統的な町家は、切り妻造り中二階建又は平屋建て、本瓦葺、漆喰塗り込めの細い虫籠窓か鉄格子、出格子、袖壁などである。
御坊市には昔ながらの製法で、径山寺味噌や醤油を造っているところがあり、若き日の故伊丹十三の記述が残っている。故山本嘉次郎先生に本物の親子丼を食べさせるために、御坊へ醤油を求めにきた時の記述である。
町並み指数 50
参考文献     
  和歌山県の歴史散歩  山川出版社  和歌山県高等学校社会科研究協会 1995
  御坊市史  御坊市  御坊市史編纂委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年

東町の町並み

東町の町並み

新町の町並み

薬屋の看板

新町の商家

東町の町並み

2014年7月9日水曜日

城下町の風景Ⅱー紀州藩御用達の菓子所 ⑩駿河屋店


 ニュース和歌山の城下町の風景Ⅱ⑩駿河屋が掲載される直前、同社が民事再生手続きの完遂が不可能となり、従業員は全員解雇、破産手続きに入ることになる事態が発生した。
同社労働組合は事業の継続を願って懸命なる署名活動を展開し、12、000通余りの事業継続を求める署名を集め事業継続を強く願ったが、結局スポンサー候補会社と折り合わず、創業550年余りの歴史の幕を閉じるハメに陥った。
 550年余りに及ぶ同社には、和菓子製造に関する貴重な財産が残されていることと想像できるので、それらが破産により散逸してしまう虞があり、産官民としても何らかの方法で保存して行けるよう対応を強く希求したい。

 それと同時に、「老舗」(ろうほ・しにせ)の意味をもう一度再確認しておき、「老鋪」に求められている規範を考えてみたい。
 同社の場合東京証券取引所および大阪証券取引所に株式を上場していたが、長引く和菓子の需要低迷による業績不振から株価も低迷、ついには上場を維持できる時価総額基準に抵触しつつあったことから、2003年に架空増資に手を染め、詐欺紛いのやり方で創業家出身の社長が逮捕される事件を引き起こしたことで、すでにそのときに老鋪としての信頼をすでに失ってしまったと思っている。
但し、上にも示したように同社がこれまで蓄積してきた「和菓子造りの文化」はまことに貴重な文化遺産であり、何としても将来に向かって保存されるよう強く希求したい。

【老舗】・・・伝統や格式・信用のある由緒ただしい 古い店。
【老舗の語源・由来】・・・動詞「為似す、仕似すに由来し、「似せる」「真似する」などの意味から、江戸時代に家業を絶やさず守り継ぐ意味となり、長年商売をして信用を得る
意味で用いられるようになった。やがて「しにす」の連用形が名詞化され、「しにせ」となった。
漢字「老舗」の「老」は長い経験を積んださまを表し、「舗」は店を意味する当て字として用いられる
ようになった。(言語由来辞典から)

それと、城下町に風景Ⅱー⑧⑨がすでに掲載されているので、時期をみて適宜記載したい。



 
画=西村中和、彩色=芝田浩子

紀州藩御用達の菓子所 ⑩駿河屋店

 駿河屋は、初代岡本善右衛門が寛正2年(1461)、京都伏見で創業した鶴屋にはじまる和菓子屋です。その5代目が徳川頼宣の転封に従って駿府へ移り、元和2年(1616)再び転封によって和歌山へついてきました。その後、貞享2年(1685)、3代藩主綱教が5代将軍綱吉の娘鶴姫を妻に迎えるにあたって、鶴屋と名乗るのをはばかり、屋号を駿河屋に改めました。
 上の絵は、約160年前の城下駿河町にあった駿河屋の店内です。手前には「砂糖蔵」の屋根がみえますが、絵は源氏物語絵巻などの大和絵にみられる、屋根や天井を省いた吹抜(ふきぬき)屋台の室内描写法で画いています。
 左手前ではカマドにかけた大釜をかき混ぜてアンコを作っているようです。左奥では蒸籠(せいろ)に饅頭を並べ、カマドにかけ、蒸しています。おそらく有名な本ノ字饅頭を作っているのでしょう。
 右手前には「砂糖小出場」があり、頭巾とマスクをつけた職人が和菓子を成形しているようです。なかには紅葉をかたどった星形のものも見えます。店内には葵紋や「御用」「西浜御殿」と記された厨子棚がたくさんあります。御殿で催されるお茶会用の菓子類を一時保管する棚のようです。 
 表には「菓子所 駿河屋」の暖簾がかかり、店の間には武士や町人が大勢押し寄せ、お菓子を買い求めています。駿河屋は5月にその暖簾をおろし、長い歴史を閉じました。市民に愛されたお菓子の復活を切に望みます。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)

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 江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は7月23日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年7月9日号掲載

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株式会社駿河屋(するがや)は、かつて和歌山県和歌山市に本店があった老舗和菓子メーカー。羊羹発祥の店といわれる。全国各地に駿河屋の名を持つ菓子店が多く存在するが、駿河屋からの分家暖簾分けによるものは11社である。

室町時代中期の1461年に創業した駿河屋は、江戸時代には代々紀州家御用御菓子司を務めており、和菓子メーカーでは老舗中の老舗」とされ、現代日本の企業としても最も古いものの一つに数えられる。西日本を中心に直営店や百貨店などで羊羹などを販売していた。煉羊羹は駿河屋を代表する商品として有名である。

 ちなみに和歌山市の地名の駿河町は同社が由来でもあり、かつては企業城下町として長らく栄えていた。

老舗和菓子メーカー「駿河屋」波乱まみれの倒産 スポンサー候補浮上も決裂・.07.07



民事再生法に基づく再建の道が閉ざされ、閉店した駿河屋の駿河町本舗=和歌山市
 室町時代中期の寛正(かんしょう)2(1461)年の創業で、江戸時代には紀州徳川家御用達だった和菓子メーカー「駿河屋」(和歌山市)が5月、民事再生法に基づく再建を断念し、事業を停止した。練羊羹発祥の店との説もある老舗で、グリコ・森永事件で脅迫状を送りつけられた企業の一つだった。駿河屋の和菓子は、味わうことのできない記録と記憶だけの歴史になろうとしている。

 「お客様には長らくのご愛顧を賜り、ありがとうございました」。和歌山市駿河町の本店「駿河町本舗」はカーテンが下ろされ、張り紙だけが寂しく残っていた。

 創業550年余りだが企業として設立されたのは1944年。製法を確立したともいわれる練羊羹や焼饅頭などが親しまれ、61年には東証・大証2部に上場した。ピーク時の92年の売上高は60億2500万円に上った。

 ただ、会社設立後の歴史は波瀾万丈だった。85年には、グリコ・森永事件の犯人グループから「グリコや森永のような目に遭いたくなかったら5000万をだせ」と脅迫文を送られたことでも知られる。

 その後、上場基準を維持するための架空増資事件で2004年に当時の社長らが逮捕されると、05年に上場廃止となって信用が失墜。今年1月には民事再生法を申請した。
 それでも再生は可能との見方があった。事業再建のためのスポンサー候補会社として、創業400年近くを誇る老舗「千鳥屋宗家」(兵庫県西宮市)が浮上。事業譲渡の交渉を進めてきたが、決裂。5月29日にすべての事業を停止、全社員が解雇された。

 東京商工リサーチ和歌山支店の田端健二課長は「店舗展開が旧来型で、全国チェーン店などの進出による競争に勝てなかった」と分析。新商品の開発も、製造ラインを入れ替えてまで大胆に進めることはなかったとの見方もあり、「じり貧状態でぎりぎりまで頑張ったのだろうが、もっと早く民事再生の手続きをしていれば、名前は守れたのではないか」と指摘する。

 前身は「鶴屋」として初代、岡本善右衛門が室町時代に開いたと伝わる駿河屋。5代目のころに京都・伏見の桃山城正門前に店を構え、和歌山に移ったのは江戸時代初めの元和5(1619)年。紀州藩の初代藩主の徳川頼宣とともに和歌山入りし「御用菓子屋」として栄華を極めた。

 5代将軍、綱吉の長女、鶴姫が紀州徳川家に嫁ぐ際、姫と同じ名前では畏れ多いとして「駿河屋」となった。江戸が発祥ともいわれる練羊羹は、西日本では駿河屋との説が根強い。

 和歌山地裁は6月25日、経営再建は困難として破産手続き開始を決定。元従業員らでつくる駿河屋労働組合は翌26日、資産を切り売りしないことなどを求めて市民ら1万2294人分の署名を同地裁に提出した。組合代理人の豊田泰史弁護士は、和歌山市内の企業の支援を得て組合で資産を購入する考えも示していたが、断念した。

2014年7月8日火曜日

台風8号を宇宙から撮影した画像がヤバい!

台風8号を宇宙から撮影した画像がヤバい!

台風の眼がハッキリしすぎていて海外ネットユーザーも戦慄!・7月8日(月)



画像:台風8号を宇宙から撮影した画像がヤバい! 台風の眼がハッキリしすぎていて海外ネットユーザーも戦慄


非常に大型の台風8号が発達しながら、北上を続けている。2014年7月8日には沖縄に上陸すると見られ、10日頃には九州・四国地方にも上陸する可能性があるという。台風情報については異常に早い時期から厳重警戒を呼びかけているのもその凄さ故であろうか?

台風の規模については、「10年に1度の規模」とも「過去最強クラス」とも言われており、沖縄では「台風等に関する特別警報」が発表される見込みだ。いずれにしても、十分に注意した方が良い。その台風の威力を物語る画像が宇宙から撮影されていた。その画像を見ると、台風の眼が非常にハッキリとしており、海外ネットユーザーでさえも戦慄しているのだ。これは用心だ。

・国際宇宙ステーションから撮影

画像を撮影したのは、現在国際宇宙ステーションに滞在している宇宙飛行士のリード・ワイズマン氏である。7月5日に投稿された画像には、次のようなコメントが添えられている。

「日本に近づいているノグリー。(ノグリーが)視界のほとんどを占めている。ワオ」(ワイズマン氏Twitterより引用)

・台風の眼がクッキリ

画像を見ると、ワイズマン氏の言葉にあるように、分厚い雲が地球の見えている範囲のほとんどを覆い尽くしているように見える。しかも台風の眼がかなりクッキリとしており、中心付近の風の速さ、勢力の強さを物語っているようである。

・気象情報に注意

このまま行くと、沖縄では特別警報が発表されることになるだろう。これは、警報の基準をはるかに超える大規模災害に対して、警戒を呼びかけるための対応だ。今後日本列島を縦断する可能性もあるので、気象情報をこまめにチェックすることをおすすめする。

参照元: Twitter @astro_reid

2014年7月7日月曜日

熊野古道・世界遺産登録10周年関連イベントご紹介!

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」10周年 ・07/07                             


和歌山・奈良・三重の3県にまたがる「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」が、ユネスコの世界遺産に登録されて、きょう(7日)で10周年を迎えました。

この世界遺産は、紀伊山地にある吉野(よしの)・大峰(おおみね)、熊野三山(くまのさんざん)、高野山(こうやさん)という3つの霊場と、そこに至る大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)、熊野参詣道(くまのさんけいみち)、高野山町石道(こうやさんちょういしみち)の3つの参詣道(さんけいみち)を対象とした文化遺産です。
世界遺産登録は、2004年7月7日で、中国の蘇州(そしゅう)で開かれていたユネスコの第28回世界遺産委員会で決定されました。道が世界遺産として登録されたのは、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(じゅんれいろ)に次いで2例目です。
そして、和歌山県をはじめとする3県では、世界遺産登録10周年を記念し、東京や名古屋、大阪で、報道メディアや旅行・交通事業者らを対象にした世界遺産やその地域の魅力を紹介するトークイベントを順次開くほか、あす(8日)は午後4時から、那智勝浦町の体育文化センターで、一般参加もできる
「世界遺産登録10周年記念祭」が開かれます。ここでは、3県知事からのメッセージや次世代を担う地域の小学生からのメッセージ、記念講演などが行われます。

このほか、ことし9月から12月は、和歌山県とJRグループが行う大型観光キャンペーンのわかやまデスティネーションキャンペーンとあわせ、全国世界遺産観光地サミットやコンサート、写真展、参詣道環境保全トレッキングなど様々なイベントが各地で行われます

 

巡礼文化さらに発信 記念式典で和歌山・田辺市長が表明 世界遺産10周年

紀伊民報 7月7日(月)    
 
 「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録10周年を記念して和歌山県田辺市は6日、同市本宮町の世界遺産熊野本宮館で式典を開いた。世界遺産の巡礼道があるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ市と観光交流の覚書に調印し、作家の荒俣宏さんを本宮館名誉館長に委嘱した。真砂充敏市長は「節目の年を機に、巡礼文化をさらに内外に発信したい」と決意を語った。

 千件を超える世界遺産の中で、数百キロを超える「巡礼道」は、熊野古道とサンティアゴ巡礼道しかない。両市は5月に観光交流協定を締結しており、覚書は具体的に取り組みを進めるのが狙い。

 調印式では、真砂市長とサンティアゴ市のレジェス・レイス・ロドリゲス副市長が覚書に署名し、固く握手した。

 覚書は6条あり、持続可能な観光地づくり▽自然に優しい旅ができる環境づくり▽観光を中心とした交流―などを協力して進めるとしている。

 真砂市長は「二つの道が共同で巡礼文化をアピールする意義は大きい。祈りの目的である世界平和のメッセージを広く発信したい」と表明。レジェス副市長は「保全やイベント運営など熊野から学ぶことは多い。覚書を機に、具体的な観光交流を発展させたい」と抱負を述べた。

 調印式後、荒俣さんは「サンティアゴ巡礼道は巡礼者に最高の支援をしてくれる。熊野も同じ印象を受けた」と両道の魅力を紹介した。名誉館長の任期は2017年7月まで3年間。「昔から紀州が好き。食文化など紀州と全国のつながりもPRしたい」と意気込みを語った。

 式典には関係者や市民ら約160人が参加した。本宮館前で地域の物産販売コーナーが設けられたほか、餅まきや奥熊野太鼓の演奏などもあり、多くの来場者が登録10周年の節目を祝った。
 


熊野古道の道普請で汗流す サンティアゴ副市長も 世界遺産10周年記念




 



袋に入れた土を運び、古道の保全活動をする市民(5日、和歌山県田辺市本宮町で)
「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録10周年を記念し、和歌山県田辺市は5日、同市本宮町の熊野古道で市民による道普請ウオークをした。「熊野古道」と姉妹道関係にある「サンティアゴ巡礼道」の終着地スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ市の副市長らも参加し、約100人が作業に汗を流した。

 熊野古道を補修しながら歩くことで、世界遺産の価値を再認識したり、保全の大切さを学ぶ機会にしてもらおうと企画。市内の小学生以上を対象に参加者を募集した。

 場所は水呑王子と伏拝王子の間。雨で流出するなどした場所に、土約3トンを補充した。参加者は県世界遺産センター職員の指導で、袋に土を分けて入れて現場まで往復して運び、土を補充して固めた。

 真砂充敏市長は「熊野古道は未来に伝えていかなければいけない貴重な財産。10周年を契機として、多くの人に良さを実感してもらえるよう取り組んでいきたい」と語った。

 サンティアゴ市のレジェス・レイス・ロドリゲス副市長は「熊野古道は景色も素晴らしく、道も美しい。スペインでは専門のスタッフが道の保全活動をしているが、市民が参加する形はない。非常に重要なことだと感じた。私たちも見習いたい」と話した。

 田辺市高雄中学校2年生の中川太陽君(13)は「世界遺産を守っているという充実感を感じることができて良かった」と話した。

 作業後、参加者は熊野本宮大社まで約4キロの古道歩きを楽しんだ。途中、地元の三里小学校の児童らが語り部を務めた。