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2011年9月30日金曜日

100年前の和歌浦と夏目漱石の関わりのお話

(下の「夏目漱石と和歌浦」の画面をクリックして下さい。画面が拡大します)


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和歌浦を詠んだ漱石の句(わかうら園内)

「和歌浦の風景」シリーズ(おわり)

2011年9月29日木曜日

「和歌浦の風景」その10.紀州天満宮

 さきに和歌浦が国の名勝指定を受けた時に紹介した史跡・名所等を除き、新たに「和歌浦の風景」として和歌山城から和歌浦への「和歌道」の途中にある名所・寺社等を紹介してきたこのシリーズも今回の「天満宮」で都合10回の最後となります。
 

 菅原道真が藤原氏の謀略にて無実の罪を着せられ、左遷により太宰府に流されたとき、この和歌浦の地で天候が回復する船待ちをしたとき、歌を2首詠んでいる。今回はこの歌を紹介して、このシリーズの終わりといたしたい。「和歌浦の風景」の記事と絵の大部分をニュース和歌山新聞社の連載から転載させて頂いたことをお許し願いこのシリーズの終わりとし、次回は最後に今から100年前の8月有名な文豪夏目漱石が和歌浦で2泊し、講演会を開催し100年後の今日を予想するような有名な講演を行い、また和歌浦を詠んだ俳句を遺しているので、それを紹介することとしたい。

老いを積む身は浮き船に誘われて遠ざかり行く和歌浦波     菅原道真

見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上げの浦の曙       菅原道真

(この記事はニュース和歌山09.12.5カラーで読む『紀伊国名所図会』・湿地化進む入江と水鳥居⑨天満宮より転載させて頂きました)

上の絵は、和歌浦の天満宮付近の約200年前の風景です。天満宮は、天神山(標高82メートル)の中腹に建つ和歌浦一帯の地主神(じしゅがみ)で、菅原道真を祭神とする神社です。
延喜元年(901)、道真が大宰府に左遷された時に、風雨を避けるため和歌浦に立ち寄ったとされ、康保年間(964〜68)、橘直幹(なおもと)が大宰府から帰洛の途中、ここに立ち寄り道真を追想して社殿を建立したのが天満宮の始まりといいます。天正13年(1585)、兵火によって社殿を焼失しましたが、慶長11年(1606)、藩主浅野幸長によって本殿・中門・楼門(重文)などが再興されました。
中央左、片男波砂州の付根にある「出嶋」は、岸には舟が繋がれ、魚が天日干しされており、和歌本村から分かれた漁業集落と思われます。その左が海、右が和歌浦の入江(現=御手洗池付近)で、アシなど水生植物が生え、入江は浅く湿地化している様子がうかがえます。
入江に建つ朱色の鳥居は、天満宮のシンボルの水鳥居で厳島神社の大鳥居のようです。入江から片男波砂州には、和歌の松原が広がっています。  
( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)(以上ニュース和歌山新聞より転載しました)
(天満宮案内はクリックで拡大してお読み下さい)

天満宮大鳥居

登り坂から天満宮を臨む

天満宮楼門

天満宮全景
  全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7(1621)年、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮・北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
(「和歌浦の風景」シリーズ ・ おわり)

2011年9月28日水曜日

「和歌浦の風景」その9-2.東照宮の祭礼「和歌祭」

和歌祭・神官

(この記事はニュース和歌山・09.12.12,11.5.21,11.5.28「和歌浦の風景3編から転載させていただきました)

上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御行列の約200年前の風景です。和歌祭は、初代紀州藩主徳川頼宣が亡き父家康の霊を慰めるため、元和8年(1622)旧暦4月17日に始めたお祭りです。その行列は東照宮を出発し片男波の砂州にあった御旅所までいき、田楽などの神事を奉納してかえってきました。
江戸時代の行列は和歌浦の入江を廻りましたが、『紀伊国名所図会』では画面構成から、つづら折れで6枚にわたってえがいています。
上の絵の(二)には先の渡り物(神事に関わる渡御行列)の御旗鉾(ほこ)・獅子・神子のあとに、練り物(城下の町人が参加した出し物)の「長刀振」「赤母衣(あかほろ)」、
(五)には「団扇(うちわ)太鼓」「餅花」「臼引」「手合」「餅つき」「つづみ」「笛」「たいこ」「笠鉾」の練り物が続きます。
(八)には後の渡り物の騎馬神主、太鼓・かね、東照大権現・山王権現・摩陀羅神の3基の御輿がみえます。
和歌祭は約400年の歴史がある和歌山を代表する祭で、たくさんの屏風や絵巻物にえがかれています。時代とともに行列の規模や順序は変化していますが、名所和歌浦で和歌祭保存会等の長年にわたる熱意と努力で復活したこの時代絵巻の実物を来年も見に行きたいと思います。
( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
◇               ◇

上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御行列の約200年前の風景です。和歌祭は、初代紀州藩主徳川頼宣が父徳川家康の霊を慰めるために始めたものです。
絵図の先頭集団「根来衆」に続いて、
(一)には先の渡り物(神事に関わる渡御行列)の御経箱・御榊・御旗鉾(はたぼこ)、
(六)には練り物(城下の町人が参加した出し物)の「猿十二疋(ひき)」「面掛(めんかけ)」「鎧着」・町湊大年寄、
(七)には後の渡り物の神馬(しんめ)、音楽役人のひちりき・笙(しょう)・太鼓・鉦鼓(しょうこ)、小童子、中童子、大童子、御幣、御太刀が続きます。

  根来衆は根来寺の元僧兵で、根来者、根来同心とも呼ばれ、幕府の隠密として活躍した、いわゆる忍者です。寛永3年(1626)、紀州藩に召し抱えられ、平時は農業に従事し、戦時は鉄砲隊として警固の任にあたりました。
根来衆がいつから和歌祭に参加したのかわかっていませんが、忍者が祭という晴れ舞台に登場し、絵図に画かれているのはおもしろいことです。 江戸前期の和歌祭の絵図で根来衆は黒の羽織に着流し姿ですが、寛政8年(1796)の触書で根来衆に麻の裃(かみしも)の着用が許され、ここではその装いで画かれています(和歌山市教育委員会文化振興課  額田雅裕 )
上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御(とぎょ)行列の約200年前の風景です。祭りの行列には様々な出し物がありました。
絵図下段の(三)※注には練り物の「白母衣(ほろ)」「連尺」「棒振」「太鼓」「拍子鉦」「笛」「ほらかい」、
(四)※注には「請棒」「雑か踊」「唐船」「笠鉾(かさぼこ)」「烏帽子(えぼし)着」、
(九)※注には後の渡り物の導師、僧衆騎馬、3つ道具が続いています。

 雑賀踊は、竹の先を細かく割いて束ねた簓(ささら)と表面に鋸歯(きょし)状の刻み目を施した簓子を摺り合せて踊ることから、「ささら踊」とも呼ばれました。それには風流踊に由来する説と、天正5年(1577)の織田信長と紀州雑賀との戦いで、足を負傷した鈴木孫市が戦勝を祝って雑賀衆の守護神である「矢の宮」神社にて舞った片足踊に由来する説があります。
行列は時代とともに変化し、同じ出し物でも時代によって服装に変化がみられます。雑賀踊は、江戸前期には城下の湊から出された三鍬形つきの烏帽子を被ったものと、広瀬から出された鹿角を付けた投頭巾を被ったものが2カ所に登場しました。
しかし、江戸後期の(四)※注では置手拭形(おきてぬぐいなり)の兜を被ったもの1つだけで、武者行列の色彩が濃くなっています(和歌山市教育委員会文化振興課・  額田雅裕)                                (以上ニュース和歌山新聞より)
◇                         ◇      
◎  「和歌祭ガイド」                                      和歌祭保存会
 和歌祭は毎年、5月第2週日曜日に行われる紀州東照宮の大祭の渡御の呼称です。別名、紀州の国祭、天下祭、権現祭とも呼ばれ、親しまれてきたお祭りの行列です。和歌祭と呼ばれているのは、東照宮のある山を和歌山(わかさん)といい、一山を上げてのお祭ということで和歌祭と呼ばれたとか、江戸時代に東照宮を口にするのは恐れ多いということで「和歌の御宮」と言い習わされていたところから和歌祭と呼ばれるようになったなどの説があります。
  
和歌祭の始まりは、江戸時代の元和8年(1622)からです。戦国と呼ばれた時代から遠くないせいか、現在でも行列の中にその頃の様子が伺える種目もあって、他のお祭のお渡り行列との違いを見ることができます。
紀州の人々により、全国に類を見ない祭として、誇りをもって受け継がれてきました。この伝統的なお祭を絶やさず、将来に伝承していこうと守っている和歌山の人々の文化意識の高さを示すお祭でもあるのです。

お祭の当日、陸上では紀州の武勇を示すものや紀州人の心意気を表現した行列が、神輿に従い、海上では御関船(おせきふね)を浮かべて、陸海あげてその日に備えました。古くは、日本三大祭、紀州の国中第一の大祭と呼ばれていました。現在は交通機関の発達で御関船がなくなり、陸上での渡御だけになってしまいました。
お祭の構成は当初、紀州徳川家が中心に、行列の各芸技種目のすべては「株」組織で構成されていて、それぞれの芸技おのおのが独立した型になっています。その「株」が連合して祭の行列となり、そこに無礼講として土地の人々の得意とする芸技集団が行列の後に続いていました。各「株」は家臣団の個々が、名誉をかけて、その技術を代々、口伝によって継承されてきました。

今、武士の世が遠く去り、時の流れに抵抗しきれず、消えかかっている「株」、沈滞している「株」もあります。そして、受け継ぐ人々の職業も多種多様になったことも原因にあげることができます。
しかし、和歌山県の最大の年中行事のひとつとして欠かすことのできない神事として、心ある方々や地元経済を支える方々の後援によって、当初の姿に戻そうとする大きな力となっていることは見逃せません。
親が、そして先祖が残してくれた、この伝統行事の和歌祭を受け継ぐ要因は、紀州の次代を担う若い力に大いに期待がかけられています。

◎「和歌祭保存会発足の背景」について
市の南部海岸線に位置する「和歌の浦」は万葉の時代から有名な景勝地であり、昭和30年代の高度成長期には一時的な繁栄を手にいれることもできましたが近年の過疎化、衰退傾向は目を覆うばかりです。現在のこの状況に至った原因の一つが「文化との共生」をおざなりにした為だと考えることもできます。経済的なまちおこしが全国各地でクローズアップされていますが当地「和歌の浦」では伝統文化を中心とした取り組みが地元の活性化に繋げようとする取り組みをはじめております。
江戸時代より和歌の浦は「関西の日光」として、紀州徳川家の加護のもと文化が華咲いた地域であります。その象徴的な存在が「和歌祭」であり、別名、紀州の国祭、権現祭とも呼ばれ江戸時代には日本3大祭に数えられたほどの大祭です。その始まりが戦国時代とさほど遠くなかったせいか、行列の中にその頃の様子が伺える種類もあって他のお祭との顕著な相違点を見ることができます。
紀州の人々により、全国的に類を見ない祭として誇りをもって受け継がれてきたこの「和歌祭」を様々な貴重な伝統芸技とともに将来の子々孫々へ受け渡そうと昭和60年に発足したのが「和歌祭保存会」であります。そして各方面の方々のご尽力により平成2年には和歌浦の地で盛大に復活させることができたのです。以降、「本祭」には1300余名、「大習(おおならし)」には800余名もの構成で渡御行列ができるようになっております。
●和歌祭保存会(事務局:東照宮)
〒641-0024 和歌山市和歌浦西2丁目1-20 TEL:073-444-0808
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「和歌祭」東照宮境内を埋め尽くす人々

東照宮御輿

同上拡大写真


108段の石段を駆け下る御輿



仮装行列
『名所図会』より
和歌祭
雑賀踊り
「和歌祭」について、さらに詳しく知りたい方は下記をご覧下さい。
 和歌山県立博物館「和歌祭」コラム」
 ◎ 「和歌祭」について、4つのトピックスから眺めていきます。
1. 近代の和歌祭
2. 雑賀踊と和歌祭
3. 東照宮祭礼と猿引
4. 和歌祭の舞楽装束
 http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/waka/colum.htm

(つづく)     

2011年9月26日月曜日

「和歌浦の風景」その9.紀州・東照宮

(この記事はニュース和歌山09.11.28「和歌浦の風景」から転載させて頂きました)
   上の絵は、和歌浦の東照宮付近の約200年前の風景です。
東照宮は、元和7年(1621)に徳川頼宣が父家康を祀るため権現山(標高60メートル)中腹に建立したもので、そこには壮麗・豪華な社殿七棟(重文)が建っています。石段下には別当寺(附属寺院)として創立された雲蓋院(うんがいいん)をはじめ、内六ヶ坊のうち和合院・宝蔵院・玉仙(泉)院・正法院がみえます。
  和歌道(明光通)から市町前に出たところには、東照宮の境内を通らず対岸の出嶋に行けるように、入江を斜めに横切る新道(中道)が造られました。新道はまっすぐで、途中2か所に橋が架けられ、小舟が行き来できるようになっています。
また、東照宮の神域性を高めるため、和歌道と平行に堀川が掘削され、明暦3年(1657)には下馬橋が架けられました。橋の手前には松屋・竹屋の二軒の茶店がみえます。橋を渡った所には木戸が設置され、通行が制限されていたようです。
入江の対岸の片男男波砂州には、東照宮の例祭、和歌祭の御旅所(現=八の字公園付近)があり、松林に囲まれています。( 和歌山市教育委員会 額田雅裕
(以上ニュース和歌山新聞より)
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紀州・東照宮の108段の石段

東照宮楼門

楼門より本殿を臨む

東照宮本殿

欄間の彫刻・左甚五郎作

欄間の彫刻・左甚五郎作

紀州東照宮由緒
紀州東照宮所蔵重要文化財
建造物
      ・本殿・石の間・拝殿 1棟
      ・唐門
  • 東西瑞垣 2棟
  • 楼門
  • 東西廻廊 2棟
美術工芸品
  • 南蛮胴具足
  • 紺地宝尽小紋小袖、藍地花菱唐草文散絞小袖、白地葵紋綾小袖
  • 太刀 銘来国俊
  • 太刀 銘信国
  • 太刀 銘左近将監景依正応二十一月 日 附:絲巻太刀拵(いとまきたちごしらえ)
  • 太刀 銘光忠 附:絲巻太刀拵
  • 太刀 銘備前国(以下不明伝真長) 附:絲巻太刀拵
  • 太刀 銘真長 附:絲巻太刀拵
  • 太刀 銘守家 附:絲巻太刀拵
  • 刀 銘元重
  • 太刀 銘安綱 附:絲巻太刀拵
  • 太刀 銘伯耆大原真守 附:絲巻太刀拵
  • 太刀 銘国時
  • 刀 銘信濃守藤原国広、国儔
  • 刀 銘長曾根興里入道虎徹
◎ 「 江戸時代の芸術」に心を奪われて
和歌浦は、玉津島神社・天満宮・東照宮など古代から近世の史跡だけではなく、景観の優れた名勝であり、干潟の生物や奠供山・和歌浦干潟などの地形・地質の天然記念物としても優れているといわれています。史跡・名勝・天然記念物というすべてがそろっているのは、他にはない和歌浦の魅力であると思われます。
町場に近い場所で、どうしてこうした景観が守られてきたかといえば、家康を祀る東照宮の境内ということもありますし、初代藩主の徳川頼宣の言行録『大君言行録』によると、頼宣は、歌枕・名勝地を開発しては末代までの笑いものになるとして、和歌浦の開発を戒め、景観の保全を命じた記述があります。紀州藩は和歌浦の開発を許可してこなかった経緯があるのです。
元和7年(1621)、頼宣が南海道(なんかいどう)の総鎮護(そうちんご)として創建された社殿は、「関西の日光」とも呼ばれ、権現(ごんげん)造りとなっています。
  また、江戸初期の代表的な重要文化財建造物としても有名です。
 漆塗・極彩色の精巧な彫刻、狩野(かのう)・土佐両派の絵による豪華さに目を奪われ、特に左甚五郎(ひだりじんごろう)作の彫刻や狩野探幽(かのうたんゆう)作のふすま絵は必見です。
 鮮やかな色彩を目のあたりにすると、当時の時代が壮麗な絵巻物となって浮かんできます(和歌山市観光協会の案内文より)
(つづく)

2011年9月25日日曜日

「和歌浦の風景」その8.紀三井寺側から見た和歌浦

紀三井寺側から見た和歌浦湾パノラマ
紀三井寺の桜越に和歌浦を臨む
今回は紀三井寺側から見た和歌浦を紹介します
(以下ニュース和歌山11.4.9,11.4.23日「和歌浦の風景」Ⅱより)
和歌浦全景

                                                     絵馬楼 和歌浦眺望
上の絵は、約200年前に名草山西麓の紀三井寺から眺めた和歌浦の風景です。和歌浦を俯瞰(ふかん)した近世の絵図は、名草山・紀三井寺から見たものが最も多く、奠供山と並ぶ和歌浦の展望ポイントです。
絵馬楼は本堂の南西の部分で、ここからの眺めはさえぎるものがなく、和歌浦を一望することができます。建物内では、西国巡礼が笈摺(おいずり)を下ろしてキセルでタバコをのみ、艶やかな着物の女性が腰かけ、和歌浦の景色を満喫しています。
右奥には広大な屋敷地とその外側の塩浜が見えます。同屋敷は、紀州藩家老で伊勢田丸城代の久野丹波守(一万石)の下屋敷で、咏鶴(えいかく)楼などの建物や池・築山を配した池泉(ちせん)廻遊式庭園がありました。その半分は干潟の状態で、周囲は土堤で囲まれ、松が植えられていました。その堤跡は、和歌浦東二丁目を取り囲む道路として、今日も残っています。
左には片男波と布引の砂州・田浦・雑賀崎、中央には妹背山の多宝塔や観海閣・玉津嶋神社・天神・東照宮・妙見堂があり、雑賀山が半島のように海に突き出ています。背景には友が嶋・淡路嶋から四国の鳴門まで画かれ、帆船が紀伊水道を航行しています。(和歌山市教育委員会文化振興課  額田雅裕)(以上ニュース和歌山より)
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大正時代の和歌浦~紀三井寺渡し船

この「和歌浦の風景」もあと2回になりました。次回は徳川家康公・紀州徳川藩始祖徳川頼宣公(南龍公)の2柱を祀る紀州東照宮とその西となりに位置する天満宮を紹介します。東照宮の祭礼は「和歌祭」として広く知られ、全国から大勢の見物客で賑わいます。それを付録ということにして紹介しますので、最後までお楽しみ下さい。
(つづく)

2011年9月24日土曜日

「和歌浦の風景」その7.妹背山・観海閣から臨む名草山

(上と下の記事はニュース和歌山/09.11.7&11.14日「和歌浦の風景」より)
上の絵は、和歌浦・妹背山の観海閣から名草山中腹の紀三井寺を望んだ約200年前の風景です。
観海閣は、正保2年(1645)から慶安4年(1651)ごろに初代藩主徳川頼宣の妹背山周辺整備によって、和歌浦の景色を眺められる施設として建てられました。
観海閣の大きな屋根の下には、和歌浦の景色を愛でる人やキセルで煙草をのみ一服する人たちがえがかれています。左側では、敷物に座り、お酒を飲みながら重箱をつついています。手前の人は、片ひざを立てて扇子で風炉をあおぎ、お酒を熱かんにしています。奥の2人は、すっかり上機嫌で、艶やかな着物の女性に話しかけています。
観海閣には、旅姿の人や背中に「西国三十三所」と書いた西国巡礼の人たちも大勢休憩しています。おそらく芦辺屋前から対岸の第2番札所紀三井寺へ向かう舟の出る時間を待っているのでしょう。
そのほか対岸には、布引の砂州、三葛・田尻の集落が見えます。現在の県立医科大学附属病院がある和歌川河口付近には、良質な三葛塩を産出した塩田がひろがっています。  ( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)

 上の絵は、名草山中腹に位置する紀三井寺の約200年前の全景です。同寺は、宝亀元年(770)、中国の僧為光(いこう)上人によって開かれた寺院で、金剛宝寺と号します。本尊は十一面観世音菩薩で、西国第二番札所として有名な観音霊場です。
名草山の西麓を南北に通る近世の熊野街道には旅人の姿がみえ、門前町には「宿や」が並んでいます。表坂石段下に「こくや(穀屋)」と記された建物は、中世末から近世初頭に参詣曼荼羅などを持って伽藍再興のため各地を駆け巡った勧進聖(ひじり)の寺院です。
   表坂登り口には「二王門」、石段の左右には「普門院・平等院・瀧の坊・松樹院・宝蔵院・宝性院」の子院と三井水のうち清浄水と楊柳水があります。楊柳水の下の「志やか(釈迦)堂」は臨済宗正眼寺(しょうげんじ)で、日前宮の神官、紀国造がしばしば隠居所としました。その跡地には現在、浄土宗遍照院が建っています。
  232段ある石段の上には鐘楼・「大師堂・尺加(釈迦)堂・本堂・本坊」、上段には「鎮守・大日(多宝塔)・開山堂」が画かれています。開山堂前には伊藤蘭隅書という
「行く春に 和歌浦にて 追ひ付きたり」の桃青(松尾芭蕉)の句碑が建っています。 
(和歌山市教育委員会文化振興課  額田雅裕)       (以上ニュース和歌山より)
      
和歌浦~紀三井寺の渡し船
(つづく)

「和歌浦の風景」その6.妹背山の多宝塔

   紀州藩始祖徳川頼宣の生母、お万の方(養珠院)のことを前掲したので、それに関連して「妹背山」のことを掲げたいと考え、妹背山にある多宝塔を採り上げた。
                  (以下はニュース和歌山・09.11.14「和歌浦の風景」より)


上の絵は、和歌浦の妹背山から三断橋、鏡山の先端部付近を南側から俯瞰した約200年前の風景です。
妹背山の東端には観海閣が建ち、その背後には整地された多宝塔の敷地がみえます。そこには慶安2年(1649)に徳川家康33回忌の追善供養のため、妹背山の岩盤を穿って、後水尾(ごみずのお)天皇が書いた経石を奉納しました。
その上に最初は小堂を建てました。が、承応2年(1656)に初代藩主頼宣は母お万の方の菩提を弔うため、小堂を多宝塔に建て替え、妹背山を整備しました。
 左端にみえる「輿窟」(こしのいわや)は、現在の塩釜神社で、高野山ふもとの天野(伊都郡かつらぎ町)の丹生都比売が玉津島への浜降(はまくだり)神事を行なった際の御旅所といわれます。
  中央の三断橋は、頼宣による妹背山周辺整備の一環として妹背山と玉津島を結ぶため、慶安4年(1651)ごろに架けられたものと思われます。その西詰には右に「朝日や」、左に「あしべや」と2軒の茶屋があり、橋のたもとには2艘の舟がえがかれています。ここから紀三井寺へ巡礼の人たちを乗せた舟が出ていたのでしょう。( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)              (以下ニュース和歌山より)

妹背山多宝塔

海禅院多宝塔

多宝塔由緒
(つづく)

2011年9月22日木曜日

「和歌浦の風景」その5.養珠寺と妙見堂

(この記事はニュース和歌山・09.10.31「和歌浦の風景」より)
 上の絵は、和歌浦の妙見山(標高32メートル)、 養珠寺付近をえがいた約200年前の風景です。
養珠寺は承応3年(1654)に初代藩主頼宣が生母お万の方の霊牌所として建立した日蓮宗の寺院です。開基には身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、山梨県)の日護上人を請じました。境内南西の山上には万治3年(1660)に妙見堂が創建されました。 妙見とは北極星を神格化したもので、日蓮が信仰に取り入れたことから、お寺の守護神として用いられました。

 山麓の集落は津屋で、手前の道は現在の国道42号にあたります。その手前は田んぼのようにみえますが、「塩浜」と記され、津屋川沿いの土手は干潟を囲んで塩田にした堤防だったのです。

 絵図では、塩田を利用して約3度の海水を約17度に濃縮する砂寄せが行われ、そこから塩水を桶に入れて棒で担ぎ集落まで運んでいます。釜屋からは煙があがり、薪をたいて釜で煮詰める当時の製塩の工程がよくわかります。
しかし、塩は国の専売事業となり、効率が悪かった県下の塩田は、明治43年(1910)までにすべて廃止されました。( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
(以下ニュース和歌山より)
◇                          ◇
養珠寺


養珠寺本堂
(養珠寺縁起)
 正保4年(1647)紀州藩祖徳川頼宣が寺庵を建立し、京都鳴滝より、中正院日護を招き、住持させた事に始まる。
日護は、頼宣生母で篤信の養珠婦人(徳川家康の側室。紀伊国藩主徳川頼宣・水戸藩主徳川頼房の母・  お万の方)の晩年の指導者で、ここに住まいしながら、妹背山を開き、徳川家康の冥福を祈ると共に、国内の滅悪生善、抜苦与楽を発願して題目石を藏する事業を指導督励した。
 
 

 承応2年(1653)に養珠婦人が逝去すると、頼宣は、日護の寺庵に宝塔堂舎を建立し、母の院号から、妹背山養珠寺と号し200石を寄進、養珠婦人の遺骨を分収、位牌を安置して堂内に御霊屋を造営し菩提所とした。さらに頼宣は、宝塔堂舎を世々慎守すべき事を記して養珠寺に納めている。「宝塔堂舎を建立」の宝塔とは、妹背山の多宝塔の事である。

境内には本堂、釈迦堂、妙見堂、辨天堂(妹背山より遷座)書院、庫裏が建つ。尚、裏の妙見山は戦国武将・雑賀孫一の城跡である。また、日演と縁のあった井原西鶴も養珠寺に寄宿していた事がある。
和歌山バス和歌浦下車すぐ、南消防署北隣にある。
(つづく)

2011年9月20日火曜日

「和歌浦の風景」その4.雑賀荘の守護神「矢の宮」と雑賀衆について

戦国時代には和歌浦一帯は、鉄砲集団で全国に名を馳せた雑賀衆の拠点「雑賀荘」に属し、「矢の宮」神社は雑賀荘の守り神として有名です。祭神は熊野本宮大社と同じ「八咫烏」命で、この3本足のカラスはJFA(日本サッカー協会)のシンボルマークとなっていることは、みなさんよくご存じの通りです。

では「名所図会」から「矢の宮」を紹介します。「矢の宮」は和歌道の秋葉山の南麓にある五百羅漢禅寺の和歌道を横切った西側に位置し、雑賀衆の本拠地で雑賀衆の守護神であり、雑賀衆は全国にその名を知られ大坂「石山本願寺(浄土真宗)」に味方し織田信長と10年にわたる戦を繰り広げ、石山本願寺を倒すには、まずその戦力の中心である鉄砲集団・雑賀衆を討伐すべしと織田信長は15万の兵を紀州に送り込み対峙したがのち和睦、その背景には毛利方や上杉方に信長軍の背後を襲われる危険を避けるためとも云われている。ときは天正5(1577)年2月のことであった。(以下の記事はニュース和歌山・11.6.11「和歌浦の風景」」」より)

「矢の宮」神社



熊野本宮大社の「八咫烏」
JFAのシンボルマーク「八咫烏」

天正10年本能寺の変で信長が横死すると、信長に代わって天下人を目指した羽柴秀吉が天正13年(1585)十数万の兵を動員し、紀州攻めを行った。
この紀州征伐により「根来寺」には火を掛けられ、堂塔の殆どが灰塵に帰し、多くの僧兵は討ち死にし、雑賀衆が立てこもる「太田城」は水攻めにあい秀吉軍に下り、これを最後に雑賀衆は壊滅したが、いまでも和歌山市内には「雑賀」の名が付く地名が随所にのこっている。その雑賀衆のことにも触れておきたい。
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 雑賀衆(さいかしゅう)(ウイキペディア)
は、「さいが」とも読み、また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。

雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」という五つの地域(五組・五搦などという)から成り立っている。
すなわち、雑賀衆とは、この五つの地域が地縁により結びついている一揆集団である。
16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。
また海運(海賊?)や貿易も営んでいたため、正確には武装商人集団と見た方が正しいのかも知れない

 

雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている

雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。

「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺蓮如の子である実如の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。
そしてこの翌年2月には本願寺証如からこの時の活躍について感謝状(「本願寺文書」)が出されている。
1570年(元亀元年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫市(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍についた。
その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。

しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。
しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦))。

信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。

1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の和歌山市・鷺森別院)に顕如を迎え入れた。畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示した。
しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。
1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握った。

以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、徳川家康の要請に応えて根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる千石堀の戦い(第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。(太田城の水攻め)
かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。
(参考)
雑賀衆の頭領・雑賀(鈴木)孫市は、自由奔放な性格で人気がたかく多くの作家が小説化している。
なかでも、司馬遼太郎「尻啖え孫市」、津本 陽「雑賀六字の城」、地元作家神坂次郎「海の伽耶琴(カヤグム)ー雑賀鉄砲衆が行く」がよく読まれている。
(つづく)