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2011年11月30日水曜日

”叩けよ!されば開かれん!来年2月海南「ひなめぐり」開催決まる!

  本年2月「街おこし学習」の講座を受講した方々が集い、他の「街おこし」グループとも連携しながら第1回「紀州海南ひなめぐり」を開催したが、予想以上に反響を呼び多数の見物客で町中が賑わったし、「街おこし」活動も活性化する役目を果たした。
 「ひなめぐり」実行委員会では来年もさらにバージョンアップして2/1~3/3の期間中、市内3カ所で開催するという。その予告が今日の「わかやま新報」に掲載されていたので、転載させて頂いた。

今年開催された「紀州海南ひなめぐり」ポスター

JR海南駅コンコースに飾られた巨大な「ひな段」

今年開催された「ひなめぐり」には自分の足で3カ所を巡りこのブログでも掲載した。
2011年2月
・12日・「ひな巡り」イベントにこと寄せて「五節句」の由来について!
・11日・「紀州海南ひな巡り」Part3.「一番街商店街」のひな
・10日・「紀州海南ひなめぐり」パート2・JR海南駅
・5日・「立春」の陽気に誘われて漆器の街・「黒江」散策
・1日・はや2月入り、一足早い「紀州海南ひなめぐり」開催

 さらにバージョンアップされる来年のイベントには、今からその時期が来るのが待ち遠しい想いである。

 聖書マタイ伝には”叩けよ!されば開かれん!”という教えがある。まづは、最初の第一歩を自分の足で踏み出すことの大切さを教えているのだろう。
「ひなめぐり」実行委員会も、本年の第1歩を手始めにして、力強く来年の第2歩を進めようとしていることは、とりもなおさず海南市内の各「街おこし」グループの活性化と連携強化に結び付き、これらがエンジンになって市全体が元気になる推進力になるよう期待して、実行委員会と連携する各「街おこし」グループのご活躍をお祈りしたいと思う次第である。

来年2月 第2回「紀州海南ひなめぐり」・11月30日 [わかやま新報]
 海南市が漆塗りのひな人形「紀州雛」の発祥の地であることを生かし、 市内のあちこちにひな人形を飾って観光客に楽しんでもらう「第2回紀州海南ひなめぐり」 が来年2月1日~3月3日、 JR海南駅前商店街など市内3会場を中心に開かれる。 ことし2月に初めて開いたのが好評で、 来年も同駅構内に約1000体の巨大ひな壇を設置するなど、 趣向を凝らした取り組みで地域活性化を目指す。


 市民らでつくる実行委 (東美智実行委員長) が主催。 JR海南駅、 同駅前商店街、 黒江川端通り周辺の3会場に計約2000体のひな人形を飾る。 3会場をつなぐ道路や店先には、 道案内役として 「つるし雛」 を飾る。


 前回、 土産として要望が多かった 「つるし雛の手作りキット」 を販売する他、 親子に好評だったひな壇の飾り付け、 1~3㌢角のスポンジを使った巨大壁画制作も行う。


 前回は、 約1カ月で同駅構内に1万人 (前年同期比310%) 以上の来場者が訪れた。


 東実行委員長 (55) は 「期間中、 海南市に来ればあちこちでひな人形が見られる。 そんな老若男女に愛されるまちにしたい。 何もかもバージョンアップして、 お待ちしております」 とPRしている。
 ことしも町中に飾るひな人形を12月1日から18日まで募集する。
 詳しい問い合わせは東実行委員長 (℡080・3840・0740) へ。(以上11/30 わかやま新報より)

2011年11月28日月曜日

先人の知恵に学ぶ!小学生発案の津波避難訓練

昨27日(日)のこと、日曜日だというのに午前9時前に(防災)サイレンの音と避難を呼びかけるマイクの放送が隣接の海南市側から流れてきた。
わたしの家は和歌山市でも市の西南端で、南東に隣接する琴ノ浦「温山荘園」は海南市、海南市は過去昭和21年(65年前)の南海大震災、昭和35年(51年前)のチリ津波に市の中枢部(市役所・消防署・警察署・市民病院等)が被災するなど過去に苦い経験をもち、防災に関しては県下でも熱心に取り組んでいる自治体である。

 そこに3月11日発生の未曾有の規模の東日本大震災と大津波である。海南市が位置する黒江湾には近い将来発生する可能性が高い東南海・南海大震災に備えて国によるわが国でも最初の浮上式防波堤を10年計画で工事中であるが、これとて完成しても3.11規模の大津波には到底防ぎようもなく、県としても「ハード面」より「ソフト面」に重きを置いた対策で県下各自治体毎に万が一のときの避難場所の再点検を行っている。

 思うに海南市としても過去の被災状況を忘れられないよう、後々に伝えるとともに防災訓練も熱心に行われている。これを小学校でも採り上げたのだと思う。
昨27日の防災訓練は3.11の災害を我がこととして捉え、現実に起こった時の避難場所に避難誘導する学習と実地訓練を地区住民ともどもおこなったモノなんだろう。「稲むらの火」の地元として「先人の知恵」を後々に伝えてゆく学習だったと想われる。3.11の大災害を学習しこれを自分のこととして受け止め地区の住民のかたとなにがをするのか、といういわゆるPーDーC(プランードゥーーシー)のCを12月に実施するという。小学生にしては素晴らしいことだと想うし、指導される方々にはよろしくお願いしたいと心から思う。放映には実地避難訓練の様子が流れたが、ここには画像を取り損ねたのでお許し頂き、避難訓練の模様を想像して下さい。

「小学生発案の津波避難訓練!」

 近い将来起こるとされる東南海・南海地震で津波による被害が予想されている海南市で地元の小学生が作ったシナリオをもとにした避難訓練が27日行われました。

 訓練は東南海・南海地震が起きた場合、1時間後におよそ4メートルの津波が到達すると想定されている海南市の黒江地区で、市が地元の消防団や小学校と共同で行いおよそ2000人が参加しました。訓練のシナリオは黒江小学校の子どもたちが東日本大震災を受け、地区の危険な避難経路などを調査した上で作り、その場所を通行制限にするなど、実践的な形式で行われました。

 通行制限の場所は当日まで知らされておらず、住民たちは自宅からの避難の途中、家屋の倒壊や火災などで道路の通行が制限されている予想外の状況に混乱した様子で、子どもたちの誘導を受けながら避難していました。

 また子どもたちは今後の防災に生かすため参加者全員に避難にどれくらいの時間がかかったかや、避難を呼びかける防災無線が聞こえたかなどを尋ねるアンケートを行いました。

 小学6年生の女の子は「学習してきたことを訓練で実践できてよかった。アンケートの結果から課題をみつけたい」と話していました。海南市の市民交流課危機管理室の奈良岡鉄也室長は「今回の訓練では、一つの場所にみんなが集まりすぎることがわかった。今後、避難場所を分散することが必要になってくると思う」と話していました。港のすぐそばに住んでいるという69歳の女性は、「高台まで28分かかりました。こうした訓練は実際の避難に役立ち、大変意味のあることだと思います」と話していました。

黒江小学校では来月21日、保護者や地域の人たちとともに、今日の訓練の成果や課題などを話し合う学習会を予定しているということです。(11月27日 20時07分・NHK和歌山放送局ニュースより引用)

2011年11月26日土曜日

初冬、地元名物のの風物詩・海は海霧と山は霧氷!

◎寒い朝 海霧の風景串本町で海霧<和歌山>
 串本町の海岸で25日朝、海霧が発生し、朝日に照らされて幻想的な風景が広がりました。
 冬の海霧は厳しく冷え込んだ朝方に、暖かい海から立ち昇った水蒸気が冷たい空気にさらされ霧に変わる現象で、黒潮が流れる紀伊半島南端の串本町では冬の風物詩になっています。

25日朝の串本町は、潮岬で最低気温が7度9分と平年よりも2度5分低く12月上旬なみの冷え込みになりました。
幻想的な海霧

「美しい串本町田原海岸の海霧風景動画」
http://www.youtube.com/watch?v=KZS5XjssuaI&feature=related
田原海岸では、夜明け前から写真の愛好家たちが待ち構え、午前6時40分ごろの夜明けとともに、海霧が朝日に照らされて黄金色に染まりました。
海霧の向こうには、小島に立つ釣り人のシルエットも浮かび上がり、海の上は幻想的な雰囲気に包まれていました。

この海霧は、来年2月上旬ごろまで、冷え込みが厳しく風がなく波も穏やかな日に見られるということです。11月25日 NHK報道より)
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◎紀南地方で今季最低気温 護摩壇山で初霧氷(AGARA紀伊民報より)
 
 放射冷却の影響で和歌山県内は22日朝、今シーズン一番の寒さとなった。高野山(高野町)で氷点下1・4度を観測。急な冷え込みで、田辺市龍神村の護摩壇山(1372メートル)の山頂付近は霧氷で白くなった。
 護摩壇山での霧氷は、今季初確認。午前8時ごろ、山頂付近は遠くが見渡せないほどの霧が立ちこめていたが、8時半を過ぎたころから霧が晴れ始めた。



 護摩壇山森林公園入り口付近では、一面樹木が白くなり、幻想的な風景を浮かび上がらせた。同公園総合案内所によると、21日には昨年より12日遅い初雪が舞ったという。
 県南部の22日朝の最低気温は、龍神(田辺市)0・7度▽西川(古座川町)0・9度▽栗栖川(田辺市)1・1度▽南紀白浜5・3度▽新宮6・3度▽潮岬(串本町)6・9度―だった。23日は気圧の谷の影響で昼前後から夕方にかけて雨となる予報。雷を伴う所もある見込み。


【霧氷で一面真っ白になった護摩壇山の頂上付近(22日午前8時半ごろ、和歌山県田辺市龍神村龍神で)】

2011年11月25日金曜日

創造的ユニーク経営の和歌山電鉄「ローカル線客招きアイデア賞」受賞す!

  採り上げる話題が少し古いですが、10月14日「鉄道の日」に行われた日本鉄道賞表彰で、和歌山電鉄が「ローカル線客招きアイデア賞」を受賞の栄に浴しました。
それに当たり、同社小嶋社長が受賞のご挨拶をされましたが、これを拝見するとまことに謙虚で、和歌山電鉄を取り巻くサポーターやお客、国・関係行政の応援と社員の努力の総合力で受賞できたものと、ご自分の卓越した経営力を一切云わずに関係者をたてられていることがまず素晴らしいです。
 そしてお分かり頂けるように会社が目指すべき方向をハッキリ指し示し、それに向かって社内外の力を総合力として発揮できる環境を作られていることが分かると思います。
 以下小嶋社長の受賞ご挨拶を引用、紹介しますので、”マネージメントとは”の1つのモデルとしてお読み下さるようお願いします。

日本鉄道賞表彰委員会「ローカル線客招きアイデア賞」受賞 ご挨拶
                                                                 
                              和歌山電鐵 社長 小嶋 光信

2011年10月14日の鉄道の日に行われた日本鉄道賞の表彰で、和歌山電鉄が日本鉄道賞表彰委員会から「ローカル線客招きアイデア賞」をいただきました。第1回(平成14年)の鉄道賞で岡山電気軌道のMOMO(モモ)が大賞をいただき、第5回(平成19年)には和歌山電鐵が、「地方鉄軌道再生のモデルケースとなれるよう日本一心豊かなローカル線を目指しますの取り組みに対して、「選考委員会特別賞」をいただき、両備グループにとっては3度目の受賞で大変光栄です。


2006年4月の再生開始以来、「日本一心豊かなローカル線になろう!」を合い言葉に、貴志川線の未来をつくる会の濱口代表はじめ6,000人のサポーターや、ご利用客、国、和歌山県、和歌山市と紀の川市など、行政の熱き応援と、デザイナーの水戸岡さんと弊社社員の努力の総合力でいただけたものと感謝しています。


知ってもらう、乗ってもらう、住んでもらう」のホップ、ステップ、ジャンプで、先ずは地域で忘れられはじめた和歌山電鐵を、地域の皆さんに知ってもらおうと、水戸岡デザインでいちご電車を発表し、おもちゃ電車、たま電車というユニーク電車シリーズで一躍知名度をあげることが出来ました。


開業の日に家を失った三毛猫たまちゃんを駅に住まわせてほしいという小山商店のおばちゃんの必死の願いで、たまちゃんの目を見た瞬間「この子は駅長だ!」と閃きました。2007年1月に貴志駅駅長に正式に就任以来、素晴らしい客招き業務を遂行して、あれよあれよと日本のみならず、韓国、中国、台湾、ヨーロッパまで有名になり、たくさんのお客様がたま駅長に会いに来てくれて、遂に和歌山県の観光に11億円もの貢献をしたということで、和歌山県知事より勲功爵位をいただき、今年は和歌山県客招き大明神を委嘱されと、神様の域にまで達しました。

たま駅長&客招き大明神
たまミュージアム貴志駅

たま電車
そして昨年のたま駅長の功労に報いるために、世界でただ一つの檜皮葺きの屋根で猫の顔をしたたまミュージアム貴志駅で地域の活性化も図れました。
そして地域のみなさんや行政の協力と献身的な社員の努力で年間80件弱のイベントを開催し、利用客が年間192万人から220万人に、15%もお客様が増加しました。
昔盛大だった三社祭り(日前宮・竃山神社・伊太祁曽神社)も復活し、乗ってもらうから、今やたくさんのミニ開発で人口が増加し始めています。


よくこれだけ次から次へとアイデアが出ますねと言われますが、まさにみんなのアイデアの結晶であり、良いことはみんなでやってみようと言うことの成果です。
これからも地域の皆さんに、また世界の電車好き、猫好きのみなさんのご期待に応えられるように、楽しいアイデアを楽しんでいただけるように頑張ります。

ローカル線客招きアイデア賞」受賞風景

※小嶋社長さんご自身は特に「猫好き」という訳ではなく、自宅に紀州犬を飼っていたそうです。
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◎ スクラップか?お宝か?
            (クリックし拡大してお読み下さい ⇓ )
MBSTV・11/22より

2011年11月23日水曜日

日本一串柿の里かつらぎ町四郷と「串柿まつり」

  11月23日は「勤労感謝の日」、勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう。戦前はその年の収穫を祝う「新嘗祭(にいなめさい)=天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する宮中祭であった。もともとが農業関係の祭典であったため、現在でもこの前後1週間に「農業祭」が実施されることが多い。


 地元和歌山は高野山を挟んで東は奈良県吉野、西は真田幸村蟄居の地として知られる九度山、かつらぎ町と日本一の柿の産地を形成している。とりわけ「串柿日本一」を誇るかつらぎ町四郷地区では10月下旬から11月下旬にかけて「串柿」がスダレのように連なり、日に日に色づく柿の色が晩秋の到来を告げてくれ心を和ましてくれる。
   ここ四郷では23日は第23回「串柿まつり」が開催され、大勢の見物客で賑わいをみせる。

四郷の里(東谷・平・滝・広口の四つの村を総称して四郷(しごう)といいます)
400年の昔から串柿の特産地として、現在に引き継がれています。10月も秋が深まり、串柿作りが始まると農家の軒先や周囲の柿場(干場)に柿の玉のれんが一斉に吊るされ山里は柿一色に染まります。
400年の昔から歴史と伝統を育んできたのどかな山里からは紀ノ川の清流を眼下に国道24号線沿いの町並みを見渡して、はるか雨引山、龍門山、高野山、大峰山を遠望できます
             (クリックで拡大してお読み下さい) 


  



「串柿」加工風景
     
キャラクターマスコット

(下のアドレスをクリックすれば、吊し柿のいろんな画像を見ることができます)
http://www.katsuragi-kanko.jp/kusigakinosato_photolibraly.html


                   (下のアドレスをクリックすれば千両太鼓の説明が見られます)
              http://www.katuragi.or.jp/senryotaiko/


「串柿」の由来
一本の串柿に10個の柿を刺し並べている串柿、その由来は家族の和と幸せを願い
「新玉の年の初めに夫婦ニコニコ仲睦まじくという思いが込められています。

    夫婦(2こ)         仲むつ(6つ)まじく           夫婦(2こ)

                               (おわり)

2011年11月21日月曜日

「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」正岡子規に遺された秘話

 秋を代表する果物といえば「柿」、「柿」といえば子規の「柿食えば・・・」の句が浮かんでくる。
     ”柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”  正岡子規

 上の句は誰もが知る子規の代表句であるが、2009年12月2日NHK『歴史秘話ヒストリア』第25回『友よ 泣かずに笑へー 正岡子規 闘病を支えた絆ー』で夏目漱石との真の友情、そして『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』の句が生まれたエピソードについてタイトル通りまことに秘話めいたはなしを聞いた。
 
 12月に入るとNHKでは毎日曜日の夜、司馬遼太郎原作『坂の上の雲』第3部が放映される。いよいよクライマックスで今から期待しているが、このドラマの第1部で正岡子規と夏目漱石の交遊が描かれていたが、子規の影響からか漱石も俳句を詠んだ。相当な数の句を遺している。
 子規の『柿喰えば・・・』の句は、子規と漱石の真の友情を物語るなかの一コマとして生まれたそうである。

 はじめに「歴史秘話ヒストリア」では、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」誕生の舞台裏というエピソードが展開された。
◎ 放送の骨子(抜粋)「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 











 実はこの句には大きな謎が隠されている。
子規は一体、どんな状況下でこの句を生み出したのだろうか。

当時の気象記録や子規の随筆などの資料から、名句誕生の舞台裏を探る。


 そこには、知られざる美少女の面影があった。

法隆寺ではなく東大寺南大門近くの旅館「對山樓角貞」で着想されたのではないか?、ということである。

 松山で共同生活していた夏目金之助(漱石)から旅費の援助も受けて、1895(明治28)年10月下旬、東京へ戻る途中、脊椎カリエスの症状が始まっていながら、子規は念願の奈良を訪れる。旅館では、


「大仏の 足もとに寝る 夜寒かな」
「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」
「長き夜や初夜の鐘つく東大寺」 を詠んでいる。


 奈良の旅館では、ほんに可愛い女中がやって来て、子規の大好きな富有柿を剥(む)いてくれた。
 その時の様子を子規は、随筆の中で回想している。
「下女は直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に山の如く柿を盛りて来た。此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。
 生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。
 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。

 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。

 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。そして女は障子を開けて外を見せた。」・・・
 美味しい美味しい柿。しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。子規が東大寺から斑鳩の法隆寺に移動したのは、到着して四日目。時雨(しぐれ)が続いて底冷えがするようで、病身には堪(こた)える。


「いく秋を しぐれかけたり 法隆寺」


 一方、子規から学んだ夏目漱石の俳句に、「鐘撞(つ)けば 銀杏散るなり 建長」があり、この句の方が先に詠まれている。

このことより、番組はざっと次のように推測している。

 旅費を援助してくれて、美味しい柿も沢山食べ、鐘の音の趣にも触れた。念願の奈良の旅を無事に終えた。

世話になった漱石が、良い句を詠むようになったのは喜ばしい。厚い友情に応え、返歌や連句の如くに詠もう。


「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、記録によればこのとき10月26日天気は小雨。


  東大寺の初夜の鐘の音を、法隆寺の鐘の音に置き換えたのだろう。その方が晴天の秋色濃き法隆寺の方が絵になるからだろうか。
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 序に云えばこの奈良の旅館「對山樓角貞」はなくなり、「天平倶楽部」に姿を替えている。
そこの看板(銅板)に、こんな説明書きがあった。
タイトルは「子規の庭」だ。
子規の庭
 この地は江戸末期から明治、大正にかけ奈良を代表する老舗旅館「對山楼・角定」のあった所で、政府要人や学者、文人など明治の各界を代表する著名人が数多く宿泊しました。中でも俳人正岡子規は、明治28年10月26日から4日間滞在、この近辺を散策し、多くの句を残した。


子規の句碑
 













 というわけで、「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」という子規直筆の句碑(高さ1.8m×幅1.2m)が建てられたのだ。
 なお「對山楼・角定」は「たいざんろう・かどさだ」と読む。もと「角定」という旅館に、山岡鉄舟が「對山楼」と命名したそうだ。伊藤博文、山県有朋、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど、多くの名士が泊まった名旅館だ。

 有名な「柿食えば…」の句も、この旅館で食べた柿と、聞こえてきた東大寺の鐘の音がヒントになっているという。

 そして子規が法隆寺の茶店で柿を食いながら詠んだことに置き換わった句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句碑は法隆寺の池の畔に佇んでいる。そして10月26日は奈良県では「柿の日」となっている。
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 「柿」の話は、このあと地元和歌山は「つるし柿」日本一の郷・かつらぎ町四郷の里へ続きます。        (予告)

かつらぎ町「吊し柿」の里

2011年11月19日土曜日

「いい夫婦」(3)川柳コンテスト」大賞・優秀作発表!

 2011年で第6回を迎えた「いい夫婦」川柳コンテストは全国から12,997句の作品が寄せられ、3月11日の大震災の影響もあってか「夫婦の絆」を題材に詠んだ句が多く見られたそうです。
 これらのなかから「いい夫婦大賞」1句、「企業賞」4句、「優秀賞」5句を掲げることといたしました。
 どうぞ、各句を味わいつつ「わが夫婦」を観察し直すひとときにされれば、幸いです。


           (クリックで拡大してお読み下さい  ⇓ )


 これで11(いい)月22(夫婦)日の「いい夫婦」のシリーズの幕を降ろして、つぎは季節がら、みなさまからアンコールの希望が多い正岡子規の『柿喰えば・・・』にまつわる話と日本一「串柿の郷」と云われる地元かつらぎ町四郷(昨年掲載済み)の景色を再度アップすることにいたします。ご了承下さい。

2011年11月18日金曜日

「いい夫婦の日」(2)・ベストパートナー2011「絆夫婦」

2011年11月22日「いい夫婦の日」
2011年ベストパートナー「絆夫婦」


(クリックで拡大してお読み下さい ⇓)




 次回は第6回「いい夫婦 川柳コンテスト」12,997句の作品から「いい夫婦
大賞」1句「企業賞」4句「優秀賞」5句を発表します。

2011年11月17日木曜日

11月22日は何の日? 「いい夫婦」の日です(1)


   今年2011年11月11日は頭の20を除けば11.11.11と11が3つも重なる滅多とない日ということで、一生の記念にそれもさらに凝り性の記録マニアは11時11分に「婚姻届」を提出した新婚夫婦が全国的に多かったように聞いている。
因みに私の下の子供も平成10年10月10日に婚姻届を出したのだから、この世の中縁起を担ぐ人も多いと想われる。

 ところで、1年365日、「今日は何の日」というのが必ずある。毎月22日は「夫婦の日」、その他いくつかの記念日があるが、国として11月を「ゆとり創造月間」と定めているので、それに相応しい「いい(11)夫婦(22)」の日を採り上げその由来を紹介しよう。

・1988年・◦財団法人余暇開発センター〈現(財)日本生産性本部〉が、夫婦で余暇を楽しむ「ゆとりあるライフスタイル」を提案 ◦11月22日を「いい夫婦の日」と提唱。
・1998年・「いい夫婦の日」をすすめる会 事務局 設立
・1999年・第1回「パートナー・オブ・ザ・イヤー」選出

2011年は今年のベスト・パートナーが既に発表済みなので、それらを含めてアップすることにします。
             (クリックで拡大してお読み下さい)
                          ・2011年ベストパートナー賞・今年は「絆夫婦」
高橋ジョージ・三船美佳ご夫妻に決定!(11.8) 次回に掲載します

2011年11月15日火曜日

きょう十一月十五日は「七五三」です!

十一月も半ば、今月は各週末は「七五三」詣りで近くの氏神様は、さぞ賑わったことかと思う。今日は本来の「七五三」の日に当たる。そこで「温故」の記事としてこの「七五三」の祝いとそれを唱った童謡「通りゃんせ♪」について触れたいと思う。

「七五三の今昔」
七五三詣りの様子

「七五三(しちごさん)」とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力である。

 
 男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁より)。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多い。地方によっては男の子の3歳を行わない所もある。
現在では北海道を除いた全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。
「七五三」詣


 旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。
 明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっている。
 
 3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。 
 現代では行事に正装に準じた衣装(晴れ着)で臨み、洋服の場合もあるが和服の方が多い。少女(極くまれに少年)は、この時に初めて化粧(厚化粧の場合が多い)をして貰う場合が多い。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。


 近世までの日本は、現在の開発途上国と同様の状況(栄養不足・健康への知識不足・貧困など)が原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低く、その様な事から乳幼児の生存を祝う節目として定着した。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもあるが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためである。
 また、三歳=言葉、五歳=知恵、七歳=歯を神から授かる事を感謝とする地方や、三歳、五歳、七歳は子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もある。

 近代以前は疫病や栄養失調による乳幼児死亡率が高く、数えで七歳くらいまではまだ人としての生命が定まらない「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられた。
 そのため、一定の成長が確認できるまでは、人別帳にも記載せずに留め置かれ、七歳になって初めて正式に氏子として地域コミュニティへ迎え入れられた。     
 
  また、胎児・乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、ある程度の年数を生きた人間とは異なり現世へのしがらみが少なく速やかに再び次の姿に生まれ変わると考えられていて、転生の妨げにならぬよう、墓を建てたりする通常の人間の死亡時より扱いが簡素な独特の水子供養がなされたりした。

 そうした生命観から、乳幼児の間引きとともに堕胎も、「いったん預かったが、うちでは育てられないので神様にお返しする」という感覚があった。特に、飢饉時の農村部の間引きや堕胎は、多数の子供を抱えて一家が共倒れで飢えるのを回避するために、養う子供の数を絞るのはある程度やむを得ない選択という面もあった。
キリシタン時代の宣教師たちは、間引きが殺人であるとして、強く非難した。

 神社や寺への参拝が慣例となっているが、このような伝統に配慮してキリスト教の教会でもこの時期に七五三のお祝いを行うところがある。

・[千歳飴]
 七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされている。

童謡・「通りゃんせ!通りゃんせ!♪」
 『通りゃんせ』の舞台、川越市ではなぜ帰りがこわい?

 〝行きはよくても帰りはこわい〟と歌われた『通りゃんせ』のモデルとなった場所は、埼玉県の川越市だといわれる。

 川越市は「小江戸」とも形容されるように、江戸時代には都とずいぶんなじみの深い土地がら。江戸の北の守りとして、また、江戸の台所として代々幕府がおさめてきた天領である。

 さて、そんな川越には、かつて城があり、城の本丸の近くに「三芳野神社」が建立されていた。この神社、幕府とかかわりが深く、庶民の身ではふだんは参詣もかなわず、庶民の参詣が許されるのは、年に一回の大祭のときだけだったという。

三芳野神社
 とはいえ、そんなときでも、場所がら、警備の者が多い。町人たちがめずらしさのあまり、キョロキョロしようものなら、「何をしている」「はやく歩け」と叱声が飛んできた。そんな庶民の落ち着かない気分が行きはよいよい帰りはこわいと表現されたという。 三芳野神社は、現在も川越市の一角に健在である。

童謡・『通りゃんせ』作詞・不詳 本居長世編・作曲
     1.通りゃんせ 通りゃんせ
       ここはどこの 細通じゃ
       天神様の 細道じゃ
       ちっと通して 下しゃんせ
       御用のないもの 通しゃせぬ
       の子の七つの お祝いに
       お札を 納めに 参ります
       行きはよいよい 帰りはこわい
       こわいながらも
       通りゃんせ 通りゃんせ ♪
2.通りゃんせ 通りゃんせ
  ここは冥府の細道じゃ
  鬼神様の 細道じゃ
  ちっと通してくだしゃんせ
  贄のないもの 通しゃせぬ
  この子の七つの 弔いに
  供養を頼みに 参ります
  行きはよいよい 帰りはこわい
  こわいながらも
  通りゃんせ 通りゃんせ ♪