2010年1月から綴ってきたブログをマイナーチェンジしました。09年にはアメリカで初の黒人大統領オバマが誕生し「CHANGE]という言葉が流行語となりましたし、わが国でも政権交替が行われました。 このブログでは歴史ある地元紀州の「温故」と「知新」に倣って、さらに一歩踏み込んだ「創新」を視点として「温故創新」を採り上げて参りましたが、「街おこし」に熱心に取り組まれておられる方々とも連携しながら、さらなる充実を図ってゆきたく、タイトルも[徒然なるままに地元の『温故創新』を訪ねある記]と、より視点を明らかにしました。 なにとぞ、従来にも増してご支援下さるようお願い申し上げます。
ブログ アーカイブ
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2010
(171)
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8月
(12)
- 29日・歴史ある町の新しいまつり「八咫の火祭」開催される!
- 27日・和歌浦の南・海南市(旧下津町)に遺る万葉集歌その3.
- 25日・和歌浦の南・海南市に遺る万葉集歌その2.
- 23日・和歌浦の南・海南市に遺る万葉集歌その1
- 20日・和歌浦その4。「妹背山」と「三断橋」
- 18日・和歌浦その3.「奠供山(てんぐやま)」と「不老橋」
- 16日・和歌浦その2.「玉津島神社」
- 11日・和歌浦その1・「片男波」
- 9日・「和歌浦」国の名勝指定される!
- 7日・「たまステーション」その2(駅舎インテリア)!
- 5日・和歌山電鐵「たまステーション」完成~「たま」げた駅舎だニャー!~
- 2日・「たまステーション」の特徴について!
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8月
(12)
2010年8月29日日曜日
29日・歴史ある町の新しいまつり「八咫の火祭」開催される!
8月の最終土曜日の28日夕(和歌山県田辺市)本宮町で「八咫の火祭」が開催されました。
この火祭りは、本宮町の長い歴史と現代の感性を織り交ぜた新しいお祭『八咫の火祭』~祀りから祭りへ~で、神武天皇の道案内を務めたとされる「八咫烏」の古い故事と現代の新しい感覚を織り交ぜた新しい「まつり」で平成11(1999)年始められました。まさにこのブログを再開時にテーマにしてきた「温故創新」のモデルともいえる行事でした。
(八咫烏(やたがらす=熊野の神々の使いとされる三本足の烏)が正しい道へ導いたという言い伝えにならい「人々を幸福に導く」という意味を込めた「導きの祭り」でもあります。)
18:30頃~熊野本宮大社から熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)へ、「炎の神輿」や平安衣装に身を包んだ女房、山伏など約70名余名の時代行列が進む。御幸道には、250本の和ろうそくが灯り雰囲気も満点。祭りのクライマックス、熊野八咫踊りでは、燃える神輿の周りで、観光客も参加して輪になって踊る。そして花火が火祭りのフィナーレを飾る。ことしはシンガーソングライターのRUUさんの弾き語りでした。
では、幽玄と幻想、そして新しいまつりをお楽しみ下さい!
2010年8月27日金曜日
27日・和歌浦の南・海南市(旧下津町)に遺る万葉集歌その3.
2010年8月25日水曜日
25日・和歌浦の南・海南市に遺る万葉集歌その2.
(クリックで拡大します)
5.海南消防署前
この歌の作者、藤原卿は不比等の第4子・麻呂と思われ、さきに紹介した和歌浦玉津島神社奥の奠供山山頂にある歌碑の作者と同一人物です。和歌浦湾を南に黒牛潟まで足を運んだものと思われます。
6.労金海南支店東歩道
7.JR海南駅南高架下
8.藤白神社
( 藤白の坂を越えているうちに、私の着物の袖は山の雫にすっかり濡れてしまったよ。)
紀の国から大和への帰路での歌です。一行は坂の草露にも汗にも濡れたのでしょう。
この峠は658年謀反の罪に問われた有馬皇子が絞殺された所でもありました。
『 40年前のその悲しい事件を「わが衣手」が「雫」に「濡れる」ことを背後に意識しながら作者は山を越えているのであろう』 (伊藤博)、『表面は単なる旅情の形にし、皇子を悲しむ心をその旅情の溶かし込んでいる』(窪田空穂)の一首です。
9.有馬皇子の墓と歌
有馬皇子(640~658)孝徳天皇の皇子。歌人。皇位継承資格者として中大兄皇子(なかのおうえのおうじ・後の天智天皇)に妬まれ、狂気を装ったが、蘇我赤兄のざん言により謀反の疑いをかけられ紀州牟婁温湯(今の白浜温泉)に行幸中の斎明天皇のもとに送られ詮議をうけ帰路藤白坂(海南市藤白)で処刑された。
歳わずか18歳。牟婁温湯への往還の途中で詠める歌。(歌意・我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)
この歌は単に器を使って食べていないから詠んだ歌とは思われない。生か死かの不安な気持ちの中で、椎の葉に飯をのせて神に供えるているのであろうか?
つづく・・・
5.海南消防署前
この歌の作者、藤原卿は不比等の第4子・麻呂と思われ、さきに紹介した和歌浦玉津島神社奥の奠供山山頂にある歌碑の作者と同一人物です。和歌浦湾を南に黒牛潟まで足を運んだものと思われます。
6.労金海南支店東歩道
7.JR海南駅南高架下
8.藤白神社
( 藤白の坂を越えているうちに、私の着物の袖は山の雫にすっかり濡れてしまったよ。)
紀の国から大和への帰路での歌です。一行は坂の草露にも汗にも濡れたのでしょう。
この峠は658年謀反の罪に問われた有馬皇子が絞殺された所でもありました。
『 40年前のその悲しい事件を「わが衣手」が「雫」に「濡れる」ことを背後に意識しながら作者は山を越えているのであろう』 (伊藤博)、『表面は単なる旅情の形にし、皇子を悲しむ心をその旅情の溶かし込んでいる』(窪田空穂)の一首です。
9.有馬皇子の墓と歌
有馬皇子(640~658)孝徳天皇の皇子。歌人。皇位継承資格者として中大兄皇子(なかのおうえのおうじ・後の天智天皇)に妬まれ、狂気を装ったが、蘇我赤兄のざん言により謀反の疑いをかけられ紀州牟婁温湯(今の白浜温泉)に行幸中の斎明天皇のもとに送られ詮議をうけ帰路藤白坂(海南市藤白)で処刑された。
歳わずか18歳。牟婁温湯への往還の途中で詠める歌。(歌意・我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)
この歌は単に器を使って食べていないから詠んだ歌とは思われない。生か死かの不安な気持ちの中で、椎の葉に飯をのせて神に供えるているのであろうか?
つづく・・・
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