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2010年4月13日火曜日

4月13日・熊野古道中辺路「秀衡桜」が見頃!

 新緑に映える秀衡桜 熊野古道沿い
 
 きのうは一日中ほん降りの雨で、桜ももうオシマイだろうと、近場の「桜情報」を調べたら、紀三井寺のサクラは、もう葉ざくら、11日夜で夜桜は終了、12日以降は「サクラ情報」提供は終了とあった。
 近場でのサクラはもう終わりか、と思っていたら、今日の新聞では熊野古道・中辺路にある「秀衡桜」は今が見頃とあった。  そう、このサクラは遅咲きだったなぁ、かつて熊野古道の中辺路を本宮まで辿って箸折峠の「牛馬童子」、近露の「野中の一方杉」やこの「秀衡桜」を脳裏に思い浮かべて懐かしく思いを馳せた。

 きょうは、新聞の報道から記事を紹介し、ついでに秀衡桜の由来についても併せて紹介しよう!

和歌山県田辺市中辺路町野中、継桜王子近くの「秀衡桜」が見ごろを迎え、来訪者を楽しませている。

 平安末期、奥州の武将藤原秀衡(1122~1187)が、妻と熊野詣でに来た際、生まれた子の無事を祈って地面に挿した枝が成長したと伝えられている。現在の木は明治中期に植えられた4代目。4月下旬の遅咲きで知られているが、今年は4月初めから開花し始めた。

 樹高は約12メートル。そばの熊野古道まで枝をせり出し、花が新緑に映えている。
 夫らと3人で訪れた堺市の縫製業小島礼子さん(62)は「10回は見に来ている。自分も奥州(青森県)出身。(秀衡が)身重の奥さんを連れてはるばるやって来たということを思うと感動する」と話した。
※藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。清衡・基衡・秀衡と続く奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍。藤原基衡の嫡男。無尽蔵とも言える黄金の富を有する東北の王者。



 継桜王子社から約100メ-トル東の道端にある大きな桜が「秀衡桜」です。
 昔は継桜王子の社前にあったのですが、前の桜も明治の水害で倒れてから現在の場所に植えられました。

 秀衡桜は、奥州の藤原秀衡が、生まれたばかりの子を滝尻の岩屋に残して熊野へ参る途中、ここで杖にしていた桜を地に突き刺し、それが成長したものだという伝説があります。
植えつがれていまの桜は何代目かになります。

そばに高浜虚子の

「鴬や御幸の輿もゆるめけん」の句碑があります。





「乳岩と秀衡桜」(民話)

 奥州平泉の藤原秀衡は40歳を過ぎても子どもに恵まれないので、熊野権現へ17日の参篭をして願をかけた。その願はかなえられて妻はみごもり月日は流れて7ヶ月となった。

 熊野権現のあらたかな霊験で懐妊したので、そのお礼詣りにと、妻と共に旅立ち永の旅路を重ねようやく滝尻に着き、ここの王子社に参詣したところ未だ臨月に達しないうちに産気を催し、不思議にも五大王子 が現れて「この山上に胎内くぐりとて大きな岩屋がある。汝只今いそぎそこで産されよその子はそこに預けて熊野へ参詣せよ」とのお告げがあった。

 そこで岩屋で子どもを生みそのまま寝かせておき熊野へと急いだ。
 途中野中で手折りにした桜の杖を地にさし「参詣の帰り途この杖に花が咲いていたら無事なり」と立願して本宮へ急ぎ、熊野大権現を拝礼し、すぐ下向して野中に着き桜の杖を見ると、花はいきいきとして香盛んであった。
 さてはわが子も無事であろうと滝尻の岩屋へと急いでみると、子どもは一匹の狼に守られ岩から白くしたたる乳を飲んで丸々とこえていた(この子が後の藤原忠衡である)。
 これこそ神のお救い、何とかしてご恩を報いたいものと後に七堂伽藍を造営して諸経や武具を堂中に納めた。


これを秀衡堂とも七堂伽藍とも言ったが、天正の兵乱にこわされ今では記録さえ残っていない。秀衡はその伽藍の維持費として黄金を壷に入れ近くに埋めたと伝えられている。 この岩屋は乳岩と呼ばれ深さ6メートル横4メートルぐらいであり、腹這いでくぐり抜けることができる。乳の少ない婦人が詣るとご利益があるという。

 また秀衡がさしたと言う桜は「野中の秀衡桜」といわれ現在のは二代目か三代目らしいが、桜のそばに「奥州秀衡二代の桜」と刻まれた石柱が当時を物語るようにたっている。

2 件のコメント:

  1. しげやん^^こんばんは~
    中辺路には行ったことがありませんがいろいろ謂れがあって
    面白いですね^^此処は遅咲きのサクラですね^^
    もう葉桜になっているところが多いのにね^^
    先日行った塩津の山のところのサクラも満開時は綺麗だけれど
    すっかり葉桜になっていましたよ^-^今年の春も終わりですね^-^
                  atiti

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  2. RE: atitiさん
    今日昼間温山荘や紀三井寺遊歩道の琴ノ浦トンネル付近の
    桜を眺めたら、大方葉ざくらになってました。モノの4.5
    日で花が散って葉桜になる。これは、桜の木にそれだけ生命
    力があると思えば納得がゆきます。弱った桜の木を治すのに
    桜守という樹木医があります。
    桜はそれだけ日本人に愛されているのでしょう。

    熊野古道、平安時代から今日までおよそ千年以上に亘って、
    貴賎を問わず通い続けてきた道だけに、いろんな歴史が残さ
    れています。
    わたしは、脚がもう少し達者なとき家内と一緒に田辺まで
    電車でゆき、そこからバスで数回に分けて通いました。
    一泊付きという時もありました。その延長が湯の峰です。
    本宮から十津川経由五条までという帰りのコースもありました。いまは道路が格別によくなって行き易くなりましたよ!

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