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2015年12月7日月曜日

県知事メッセージ「海難1890」を皆さんに見てもらい明日への希望と勇気をもちましょう!


知事メッセージ 県民の皆様へ
仁坂知事の写真


 エルトゥールル号事件を描いた「海難1890」が12月5日についに封切られます。
 田嶋串本町長と学友で世界的に有名な田中光敏監督の発意から生まれたこの映画がついに実現したのです。
 
 5年前にこの話を聞いた私も早速協力して、資金集めなどに皆で悪戦苦闘しました。その間はリーマン・ショックなどがあり、企業の財務が急速に悪くなって、大変難行でしたが、安倍総理とトルコのエルドアン首相(現大統領)が意気投合し、この映画を応援しようと決めてくださってから、急に話が進み始めました。
 私は資金集めに走り回りましたし、東映が配給先として責任を持ってくれるようになり、和歌山を中心にNPOができて、皆が応援して、ようやく感動的な大作ができました。
 
 1890年オスマン・トルコ帝国の希望の星であったエルトゥールル号が、日本との友好親善で大変な功績を上げた後、串本大島の樫野崎沖で荒天の中、座礁沈没するのですが、その時、樫野をはじめ近くの漁村の人々が、寝食を忘れ、生存者の救出と介抱を行い、貧しい暮らしの中でもありったけの食糧などを提供して、トルコの人々を救いました。
 
   一方トルコは、これを多として、このことを125年間教科書に書き続けて、忘れないでいてくれたのです。その記憶の中で、今度はその95年後の1985年、テヘラン空港で取り残された日本人のために航空機を飛ばしてくれ、自国民よりも優先して救出してくれたのはトルコでした。
 
  この時空を越えた友情と思いやりがこの映画のテーマです。私は125年前のわが和歌山県民がかくも立派な心意気を身をもって示してくれたことを心から誇りに思いますが、同時に30年前にトルコから示されたあの英雄的な友情を決して忘れてはならないと思います。
 
 県民の皆さん、是非この映画を見ましょう。見て、感動して、泣いて、そして明日への勇気と希望を心に湧かせましょう。
和歌山県知事 仁坂 吉伸




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日本とトルコを繋ぐ固い絆の実話!そこは和歌山の串本の1890年の実話です!

 

<日本・トルコ合作映画>海難1890:2015年12月5日(土)公開

イントロダクション
  日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つの国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。
  そして2015年、日本トルコ友好125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。

  1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。

   しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていった。

   そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。
  しかし、日本政府は救援機を飛ばすことが危険と判断し救助要請に応えなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ首相は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を譲ったのだった。

   時代を超えて受け継がれてきた人々の絆・真心。現代に至るまで日本とトルコの友好関係の源泉となっているこの2つの壮大な物語は、全ての日本人、トルコ人の心に響く感動の超大作として、2015年冬誕生する。
キャスト・スタッフ
【出演】
 内野聖陽 ケナン・エジェ 忽那汐里 アリジャン・ユジェソイ
 小澤征悦 宅間孝行 大東駿介 渡部豪太 徳井 優 小林綾子 螢 雪次朗 かたせ梨乃
 夏川結衣 永島敏行 竹中直人 笹野高史

【脚本】
 小松江里子

【音楽】
 大島ミチル

【企画・監督】
 田中光敏

 
豪華キャストが勢揃い!日本・トルコ合作映画『海難1890』ワールドプレミア レポート!

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<映画「海難1890」>トルコ特別塗装機「串本号」関空に!:

毎日新聞12月4日(金)
 両国合作映画「海難1890」が、12月5日全国封切に合わせたかのように「KUSHIMOTO(串本)号が関西空港に飛行した。
画像:乗客を乗せ、離陸を待つターキッシュエアラインズの「KUSHIMOTO(串本)号」=関西国際空港で2015年12月3日午後10時40分、川平愛撮影

  乗客を乗せ、離陸を待つターキッシュエアラインズの「KUSHIMOTO(串本)号」=関西国際空港で2015年12月3日撮影

 史実を基に日本とトルコの友好の原点を描いた両国合作映画「海難1890」(田中光敏監督、毎日新聞社など製作委員会)が5日から全国公開されるのを記念して、ターキッシュエアラインズ(旧トルコ航空)の特別塗装機が3日、関西国際空港に飛来した。
   1985年のイラン・イラク戦争時、テヘラン在留日本人救出のために飛んだトルコ航空機のデザインを復刻。イスタンブール−関西空港線に投入される。

 映画は、1890年に和歌山県串本町沖でオスマン帝国(トルコ)の軍艦エルトゥールル号が荒天で沈没し、地元住民が乗組員を救助した話が描かれ、映画の題名もこの救出劇にちなんでいる。特別塗装機(エアバスA330−200型機)は「KUSHIMOTO(串本)号」と命名され、折り返し便の出発に合わせて行われた記念式典には串本町の田嶋勝正町長も招かれた。田嶋町長は「串本号と命名していただきたいへん光栄です。両国のさらなる発展のため尽くしていきたい」とあいさつ、日本とトルコの末永い友好を誓った。

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12月5日に和歌山に関するビッグニュースが飛び込んできた。それは、11月5日を「津波に日」とする国連の決議である。因みに今年の旧暦の11月5日は12月15日に当たることになる。
 

「稲むらの火」世界に…津波の日採択、歓迎の声

たいまつを掲げる浜口梧陵の像(和歌山県広川町で)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

© 「  たいまつ」を掲げる浜口梧陵の像(和歌山県広川町で)
 
 国連の委員会が11月5日を、国連の記念日に当たる「世界津波の日」とする決議を採択したことを受け、決議の由来となった「稲むらの火」の逸話が残る和歌山県や、津波被害が懸念される地域で、採択を歓迎する声や、今後の意気込みを表す声が上がった。
 
 稲むらの火は、1854年11月5日(旧暦)の安政南海地震の際に、現在の同県広川町を襲った津波で、地元の浜口梧陵(ごりょう)が稲わらに火を付け、村人を高台に導いて救ったという伝承だ。
 
 同町は2007年、その教訓や功績を伝えるため、「稲むらの火の館」を町内に開館。過去に複数の被害を受けた太平洋の国々など国内外の視察を受け入れてきた。今秋には、逸話を紹介する英語版のDVDを製作し、東京の各国大使館に配布、国連での採択への協力を求めていた。

                                        (END)
 
資料室 ●濱口梧陵 ●稲むらの火 ●津波防災


かつての国語教科書や、ラフカディオ・ハーンの小説でも伝えられなかった本当の「稲むらの火です。
濱口梧陵の偉業「百世の安堵を図れ」はこの実話の中に生きています。

枯れた井戸イラスト1 枯れた井戸の水

今から150年ほど前のある冬の朝、広村に地震が起こりました。
いつもと違う海に、村人たちは津波を心配して広八幡神社に避難しましたが、被害がなかったことを喜びあいました。
ところが次の日のお昼過ぎ、あわてて梧陵さんの家にかけ込んできた村人が言いました。
「えらいこっちゃ、井戸の水が枯れているぞ!」
*1854年(安政元年)12月23日午前10時に起こった、のちに安政東海地震とよばれた地震です。全国で2000~3000人がなくなりました。

津波イラスト2 大地震だ!津波だ!
夕方の4時。きのうの地震とは比べものにならない大きな地震が起きました。
家が倒れ、かわらが吹き飛びました。ドーッという、大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲がみるみる広がっていきました。
そしてついに大きな津波が押し寄せてきました。「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」
梧陵さんは波にのまれながらも必死で村人たちにそう叫んで、広八幡神社へと避難を呼びかけました。
*この地震はのちに安政南海地震とよばれ、全国で数千人がなくなりました。


稲村の火イラスト3 命の火、「稲むらの火」
津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、今度はすごい勢いで海へ引いていきました。
あたりはひどいありさまで、おとなも子どもも家族をさがして叫びまわっています。
梧陵さんは、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからずさまよっている人がいるにちがいないと考えました。
とっさに、「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積み上げられた稲の束に火をつけてまわりました。すると、逃げおくれた村人が次から次へと火を目指して丘にのぼってくるではありませんか。「ああ助かった、この火のおかげや」9人目の村人が避難を終えたそのときです。さらに大きな津波が押しよせて、稲むらの火も波に消されていきました。
*このときの津波がいちばん大きく、この後も何度も津波が押し寄せては引いていきました。


生きる希望イラスト濱口梧陵イラスト
4 生きる希望

津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりでした。
村を捨てて出て行こうとする人もいました。梧陵さんは考えました。「このままでは村がほろびてしまう。広村で生きていける方法はないものだろうか…。よし、浜に堤防を築こう。村人に働いてもらってお金を払い、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ。」
地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、梧陵さんは家族や店の人に村を守りぬくための協力を求めました。
*梧陵さんの家は、広村と千葉県の銚子というところで昔からしょうゆを造っていました。店や工場ではたくさんの人が働いていました。


広村堤防イラスト5 広村堤防
広村の人たちは、梧陵さんの決断に心の底から感謝しました。畑の仕事や漁の仕事をしながら、一所けん命に働いて堤防を造っていきました。4年がかりで大きく立派な堤防が完成し、海側には松の木を、土手には、はぜの木を植えました。
長い年月がたちました。広村に大波がおそってきましたが、村は堤防のおかげで守られました。大きい地震があったときにも、津波は村に入ってきませんでした。
今も広村堤防は広川町の人びとを守り続けてくれています。
*1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が起こり、4mの津波がおそいましたが、堤防に守られた地域は無事でした。


小学国語読本 巻十より 「稲むらの火」
小学国語読本
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【開館時間】
 午前10時~午後5時
  (入館時間は午後4時まで)

【休館日】
・月曜、火曜日
  (祝日の場合は開館)
※11月5日津波防災の日は開館いたします。
・年末年始

  (12月29日~1月4日)
稲むらの火の館 概要
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梧陵史跡散策ガイド
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