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2010年3月2日火曜日

3月3日・春の歳時記より・「桃の節句」「お雛さま」と「陰陽道」について



 「雪と氷」が舞台となる「白色の世界」、冬の祭典・バンクーバー冬季五輪が2月28日で終わり、弥生3月、早くもきょうは「桃の節句」、なぜか冬季五輪、活躍した「女性」の姿が印象に残っています。
 なかでも悔し涙を流した浅田真央ちゃん、プロ転向が噂されるキム・ヨナ選手に対し「キム・ヨナ選手には現役を続けて欲しい。やはり一緒に試合に出て、しっかりと勝ちたい!」その心意気やよし!今回の五輪、なんだか女性の活躍が目立ったように感じた。
 そして、「白の世界」から弥生3月入りとともに「桃色の世界」へ、そしてきょうは「桃の節句」です。

 3月3日「桃の節句」「雛祭り」の日ですね。この「桃の節句」は昔は「上巳の節句」といわれ、元々は古代中国から来たものなんです。きょうは春の歳時記の一つとして、「桃の節句」を採り上げましょう。(この「節句」はブログ「こよみのページ」にお世話になりました)

古来中国では、陰陽道で奇数が陽数、つまり縁起がよい数とされてきました。したがってこの縁起がよい数が重なる日は特にいい日とされてきました。いまでも「五節句」が残っています。五節句については、最後に説明をしますので、まずは、きょう3月3日「桃の節句」から始めます。


 桃の節供(桃の節句・雛祭り・上巳の節供)

 旧暦三月三日は「桃の節句」あるいは「雛祭り」。五月五日の端午の節句が男の子の節句といわれるのに対して、こちらは女の子の節句。節句は本来は節供と書き、江戸時代には五節供として、法制化された式日(当時の祝日のようなもの)の一つでした。
 
 現在の三月三日では桃の花には早すぎるようですが、旧暦でいえば約一月位あとになりますので、ちょうどよい時期になります。

 さて、三月三日は桃の節句と書きましたが、もとは「上巳の節供」「元巳」といわれました。「上巳」とは旧暦三月の上旬の「巳の日」と言う意味で、三日に固定されていたわけではありません。

現在のように三月三日に固定されるようになったのは中国の三国時代、魏(AD220-265)の国で。日付が固定されてからは三月三日と「三」が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」ともいわれるようになりました。

 中国古代に於いては、上巳の節句には河で禊ぎを行い、汚れを落とし(これを「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という)、その後に宴を張る習慣がありました。また同じ日に「曲水の宴」も行われ(河での禊ぎと宴会をミックスし優雅にしたものが「曲水の宴」の始まりじゃないのかとも思うのですが、のちのは庭に設けられた水の流れに杯を浮かべその杯が辿りつくまで歌を詠む行事、何とも雅なことではありませんか)、奈良~平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での「桃の節供」のスタートとされています。










 ところがどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代かたしろ・人形)で体をなで、これに穢れを移して川や海へ流すと言う日本独特の行事が生まれた。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域が有ります。和歌山では、紀淡海峡に臨む加太海岸にある「淡島神社」の「流し雛」神事が有名です。

 さてこの形代、いつの頃から公家や上流武家の間で上司への贈答の品となり、こうなると「質素な形代→豪華な人形」へ変化した理由はおわかり頂けると思います。
 

やがて河に流すものでなく、家に飾るようなものも作られるようになりました。その一方で公家の子女が「雛遊び」として人形や小型の調度品を並べて遊ぶままごとがあり、この両者が融合して「雛人形」への道を歩むことになりました。雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれます。
ここに出てくる「人形」、読んで字のごとく「ひとがた」なんです。人をかたどったものが「人形」なんです。

 さて、一般庶民にも桃の節句の習慣が浸透し始めたのは江戸時代。一般庶民、ことに農民にとっては桃の節供を過ぎると秋の収穫期まで続く農作業の季節。楽しみの少ないこの時代、これから始まる労働に備えて十分に休養をとり、また楽しく遊ぶという意味で「磯遊び」や「浜下り」という磯や砂浜で潮干狩りのような遊びをしたといわれています。おそらく「浜で遊ぶ」ということは、元々の「水に入って禊ぎする」という本来の行事が姿を変えたものだと思われます。
 
 旧暦の三日と言えば、海の潮は大潮に近く、潮干狩りにはもってこいというのもあったかもしれません。現在でも桃の節供には蛤を食べる習慣が残っていますが、これは磯遊びの時代の名残ではないかと思います。

 現在の雛人形の形は元禄時代にほぼ完成したといわれ、この時代は庶民の経済力が大いに栄えた時代で、経済的に余裕の出来た庶民が競って豪華な雛飾りを作るようになり、雛壇にたくさんの人形を飾る者も現れ現在に至ったといわれています。

 さて、桃の節供の「桃」については、中国では桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれてきました。桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなり、桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・壽桃(ショウタオ)を食べる習慣があります。壽桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができます

 また桃は旧暦当時の三月を代表する花であるということ、桃は「女性」を思い起こさせる花であると言うことから女の子の節供には「桃の花」となったといわれています。桃の花が女性を象徴するという考え方は中国の影響から、周の時代に成立したといわれる詩経に王が佳い嫁を探す歌が有り、その中に既に「桃の花のような女性」と謡われています。わが国でも「桃尻」という言葉があるくらい「桃=女性の尻」といった見方があるようです。


こういった古典に親しんでいた平安貴族にとって女性の節供の花は桜でも梅でもなく「桃」だったのでしょう。桃、形といい色もですが聞くだけでもセクシーですね!

雛人形の左右の配置
 現在、関東では向かって左が御内裏様(親王:男)、右が御雛様(内親王:女)。関西では反対となっているそうです。
 古来日本では左が上位(左大臣は右大臣より偉い)。ただこの左右は一番偉い人が下位の者を見た場合の左右なので、雛飾りでいえば御内裏様から見た左右。そのため、お内裏様、お雛様を見上げる立場からすると向かって右が上位と言うことでお内裏様が向かって右、お雛様が左にある関西の方式が日本の古来からの方式といえそうです。これは京都が千年の都と云われてきたようにわが国の長い歴史を引き継いでいるからです。
 
 これに対して関東方式は、明治以降ヨーロッパ等の習慣にあわせて女性を向かって右に配する方式を日本の皇室が採用した(西洋式の行事について)ことから、東京の人形商協会が向かって右を女性、左を男性の配置を正式すると決定したためだそうです。

雛人形を早く片づけないといけない理由
「節句を過ぎたら雛人形を早く片づけないと婚期を逃す」といった話を聞いたことはありませんか?
これは、「早く片づけないとよくないことが起こる」という考えには理由があります。
雛人形のルーツは、形代(人形)に身の穢れを移して、これを流し汚れを払った、その形代です。本来なら、穢れを移し、これを流すことによって穢れを払い、禍を遠ざけたのですから、その人形をいつまでも飾っておくことは、穢れと禍をいつまでも身近におくのと同じことなんです。したがって、早くしまわなければならないと考えられたわけです。
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 それでは、初めに書いた五節句の話・五節句(五節供)とは?
 
 節句はもとは「節供」と書き、江戸時代は年に五日の日が公式に法制化された式日(現在の祝日みたいなもの)でした。この5日を「五節供」と言い、現在も重要な年中行事となっています。
 以下に五節句の日付と内容について表にまとめてみましたのでご覧ください

 五節句と行事・由来について
 節句        日付       別名       主な行事・由来など
人日(じんじつ)   正月七日   七草の節句  中国の古い習俗に由来する。
(この日、七草粥を食べ邪気をはらう風習がある。七草を刻む際、鳥追い歌(これを七草囃しという)を歌う習俗もある)

上巳の節句(じょうし)三月三日   桃の節句・雛祭り・重三・草餅の節句
(元は三月初の「巳の日」。古くは河で禊ぎをし汚れを祓い、また身代わりに人形に汚れを移して河や海に流した。江戸時代以降は、雛祭りとして庶民にも定着し、女子の節句とされた)

端午の節句(たんご) 五月五日   菖蒲の節句   元は五月の最初の「午の日」。
(古くはこの日薬草摘みを行い、摘んだ蓬や菖蒲を門口に飾った。菖蒲(ショウブ)の語が「尚武」に通じるとして武士の台頭に従い、庶民にも浸透し立身出世を願い幟や兜飾りを行うようになった。男子の節句)

七夕の節供(しちせき)七月七日   笹の節句     たなばた
(中国から伝わった牽牛星と織女星の星祭り伝説が元。日本では古来からあった「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説との類似性から七夕の日として定着。女子が裁縫や手芸、書道の上達を願う行事も各地に残る)。

重陽の節句(ちょうよう)九月九日  菊の節句・重九 易で陽数の極(きわみ)である「九」が重なることから目出度い日とされた。(この日は菊の花を飾り、丘などに登って邪気をはらい長寿を祈る風習が中国にあり、これが日本に伝わったもの。宮中では「観菊の宴」を開き長寿祝う節句の中でもっとも公的な性格が強いもの。民間にはさほど定着していない)

 五節句は現在でも各地で祝われる節目の行事です。大切に残して行きたい伝統行事です。

節句の月と日
 五節句の日付を見ると、人日以外は月と日の数が同じ、それも奇数。これは五節句の発祥の地、中国で奇数は「陽数」でこれが月日の形で重なる日は目出度い日という考えがあったためです。
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 そこで、中国では「奇数」は「陽数」で目出たいとする「陰陽道」の考え方を、少し説明しておきます。

 陰陽道(『ウィキペディア』より)

陰陽道(おんみょうどう)は、古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系。「おんようどう」、「いんようどう」とも読み、陰陽道に携わる者を陰陽師といいます。

 近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容され、中国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられています。

中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由でわが国に伝来したといわれています。

 日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げてきました。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受けています。

歴史]的には・・・
 

5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。

 7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化され、陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられました。

 平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となり、これにともなって陰陽道は宮廷社会から広く日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。

日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受けています。

 10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。安倍晴明の名は皆さんも聞かれたことがある位有名で著書やマンガで登場します。

 平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格してゆき、中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家、土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。


一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。徳川時代に入り、幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家・幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。

 明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。いまでも民間の呪いや修験道でゴマを焚くこと等名残をとどめています。











図は陰陽師・安倍清明像

4 件のコメント:

  1. しげやん^^おはようございます
    この間お正月かと思いきやもうお雛様!!
    本当に月日の経つのは早いですね
    atitiの知人なんか5月のこいのぼりのポール立てたって言ってたよ^^ワハ早いね!こんなにイベントやってきたらあっという間にい年なんて過ぎるよね^^
                    atiti

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  2. RE: atitiさん
    お雛さまも、昔ほど大掛かりなのは少なくなってきましたよ!
    住まいもマンションとかで狭くなり、また転勤族には大ぶりな
    のは持て余します。それに五節句も若い人には段々薄れ気味。
    日本の伝統あるいい風習は残していって欲しいです。
    そう思いませんか?

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  3. さいたま市の岩槻はお人形の産地です。有名メーカーさんのも岩槻で作られているモノが多いですよ。
    最近、つるし雛も人気ですね。もともとは伊豆のほうの習慣のようですが、手作りできるので趣味で楽しむ人が増えてきました。

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  4. RE: 玲小姐さん
    最近の人形、伝統的なものからモダンなものまでバラエティー
    豊かですね。一寸変わって明治の初めごろの日常生活道具を
    反映した雛飾りを、3月1日にアップしています。
    神戸・有馬温泉中の坊有馬グランドホテル「瑞苑」の「雛飾り」
    のなかに神戸の伯父の家から寄贈したセットがそれなんです。
    明治2年作とあり、当時の日常生活道具のミニチュアが揃って
    います。ついでにお立ち寄りしてご覧下さい。参考になります。

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