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2010年3月24日水曜日

3月25日・「(徳川夢声)話術の続き(その2)!」


「徳川夢声・話術(その2)」

徳川夢声のすごい話術の巧さは、どこから来たものだろうか?
(ここに挙げた断片は徳川夢声「話術」からの抜粋です。いわばエッセンスといえる部分です。Pとあるのは掲載されているページです)



 以下にあるように話術にはハナシの内容もさることながら、マ(間)の取り方が大切なんです。世の中にマが抜けた人のことを「間抜け」と呼ぶではありませんか?また、間が悪い、間伸びしたとか、間が持てないとかに使います。このようにマ(間)は、われわれのとって塩・胡椒のように言葉の味付けに、如何に大切なものかをよくお分かりいただけたと思います。 みなさんも「間抜け」にならないように努めましょう!)

 前回「良い話をするには、別に雄弁を必要としません」という夢声の言葉を述べました。ハナシ方は訥弁でも、場合によってはドモリでも、心の良い人は、良い話ができます。

 もちろん、心が良き人で雄弁なら、それに越したことはありません。例えば、新渡戸稲造、福沢諭吉などという人々は、心も良くして雄弁だった実例でしょう。

 大隈重信、犬養毅、島田三郎、尾崎行雄、永井柳太郎など、むかしの政治家には、雄弁家が多い。
 ですが、しからば、これらの人々が、良き心の持ち主であったかどうか、それは疑問であります。

 けれども、こうした人々は、いずれも個性の強い演説をやっています。善悪にかかわらず、自分自身の人格を、まともにさらけ出して語っています。それが、この人たちを雄弁家たらしめたのであります。

 だから、彼らのハナシすなわち演説は、良き演説とはいえないかもしれない。しかし、聴衆を感動させる演説であったことは確かです。個性の魅力が、聴衆を縛りつけたのです。(pp. 31-32)

 司会者が、どうぞ五分間に、と注意したら五分間で終わらねばなりません。それを十分間も十五分間も喋っているのは、罪悪であります。それだけ、他人の時間をつぶすことになるからであります。

 五分と指定されて、十五分もやる人は、必ず面白くないスピーチをやるに決まっています。自分だけ好い心もちになって、長談義をするような神経では、とうてい、他人を愉快にするような芸当は思いもよりません。

 五分というと、大層短い時間のような気がしますが、実は相当の長い時間であります。大ていの話が、五分あればまとまるものなのであります。(p. 85)

「間」について
 ハナシに限らず、芸術と名がつくものには、音楽はもとより、美術、彫刻、文学、演劇、みな「マ〔間〕」が、重要な位置を占めています。目立たない、目に見えない重要な位置をです。

 日本画を例にとってみますと、ここに一幅の名画がある。(一)尺五(寸)の紙に、赤い唐辛子が二本描いてある――それっきりで、あとは画家のサインと印があるだけの、何にも書いてない白紙です。
 
 せっかく、まだたくさん書くところがあるのに、もったいない話だ、などと思ったら落第です。
それが名作である以上、その空白も一杯に詰まっていて、一点の加筆もゆるさないはずであります。
 同時に、その二本の唐辛子が、上下左右、どちらに一分一厘動いても、画面全体の調子がくずれるはずです。

 つまり唐辛子と、広い空白とが、動きのとれない調和・バランスを保っているからであります。ハナシで申すと、唐辛子やサインや印が喋ってる部分、空白が喋らない部分であります。すなわち、この空白が「マ」なのであります。

 「じゃア、ベタ一面に描いてある、西洋の名画は、マがないじゃないか?」という疑問が出ましょうね。  なるほど油絵具は隅から隅まで塗ってあります。何か描いてあります。
 しかし、焦点はちゃんと定まっていて、日本画の空白に比すべきところは、画面のいたるところに置いてあります。バランスが、みごとにとれています。「マ」がちゃんとあります。

 彫刻も然りです。乳房のふくらみを、美しく表わすためには、その周囲に「マ」の役をつとめてる部分が、必ずあるわけです。それなくしては、乳房が彫刻家の想う通りに、ふくらみません。

こうして考えてまいりますと、「マ」とは「沈黙」なり、では誤解を生ずるかもしれません。

――「マ」とは虚実のバランスなり。
 こう申すと、また別の「マ」の面が、おわかりかと存じます。(pp. 44-45)
高座に落語家が出てきました。彼は、高座に姿を現わし、中央まで歩いて、座蒲団にすわり、お辞儀をしました。

 ただこれだけで、この落語家は巧いか、拙いか見物にはわかってしまいます。
たったそれだけの動作、あるかないかの表情、その中にバランスの破れたところがあったら、これはもう拙いに決まっています。

 一人二人では鈍感な客も、大勢そろうと一種の連鎖反応が起こるでしょう。群集心理というものは、恐ろしい「勘」をもつものです。(p. 46)

 ハナシの場合でも、この「マ」が正確であるとき、聴衆は快感を味わい、陶酔の境地にまで入るのであります。いいかえれば、バランスに対する快感です。(p. 47)

――「マ」とは動きて破れざるバランスなり。
 〔「波瀾層々、起伏定マラズ」〕これこそ、演壇話術における「マ」の問題を暗示しているものです。

 波が、次から次へ、層々と押し寄せてくる、しかもその高低はけっして単調でなく、見ている人間の予想を超えたものである。もしも私たちが、この波の如くに語ることができたなら、聴衆は退屈しないでしょう。  
 

 事実、私たちが海岸の砂丘などに腰をおろして、打ち返す波をみて、ぼんやりと小一時間を過ごすことがあります。もしも、その波の運動が、判で押したように、何時も同じであったら、そんなに長くはみていられないでしょう。(p. 97)

 聴衆の耳に聞えていない部分が、聞えている部分と同様に重大なのである。聞えていない部分に、注意が行き届いていないと、聞えた部分までウソになってしまう。(p. 209)

2 件のコメント:

  1. しげやん^-^こんばんは~^^
    遅くなりましたwwwww漸くたどり着いたよwwwww^^
    マのとり方は大事ですね
    よく漫才などもマが大事だといわれますが・・・・ふふ
    聞こえない部分で聞こえてくる部分を引き立たせるってことかな!^-^

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  2. RE: atitiさん
    相手のいうことを聞くことから始まります。相手より先に
    言いたいことをいえば、相手はモノを言いにくくなります。
    早口でまくし立てるのではなく、どちらかと言えば、やや
    ゆっくりと相手が得心行くようにモノをいう、これが相手
    とのやりとりの秘訣です。
    ある方が行ってました。
    耳は2つに、口1つ、モノを言うより相手のいうこと、先に
    聞け、そのため耳が2つに口1つ。分かります?

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