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2010年3月26日金曜日

3月27日・「3月27日はサクラの日」です!

  いざ往かん、桜は見ごろで天気良し!今日は「サクラの日」いま5.6分の咲きです!

 今年のサクラの開花は例年からみて早く彼岸入りの前ごろから「サクラの開花便り」が聞こえてきたが、ここ3.4日雨模様の悪天候続き、ようやく天候が回復基調、これだったら週末は「お花見」が楽しめそう!

 きょう27日は「日本サクラ協会」によると「サクラの日」だとか、27(3x9=27(サク)だそうで、多分に数字の語呂合わせである。

 ところで、サクラの木の寿命を調べてみた。そうすると、普通は6.70年だそうで、我が国のサクラの大半を占める「ソメイヨシノ」の殆どが寿命を迎えていると聞く。
 とりわけ日本人はサクラが大好き、花といえばサクラとなる。このサクラの花見を楽しめるよう、この桜の木の保存に全国各地に「桜守」がおられて、桜木の保存に当たられているそうだ。きょうは桜の木の寿命と、これを守る「桜守」のお話から始めよう!

※桜の木の寿命について。
 僧侶から桜の話を聞いたのですが、その時の話を。桜の木って寿命どのくらいだと思います??
 お寺は古くからの出来事を全て、書き残してありますので、どの木がいつ頃植えられたのか記録があるので分かるので、僧侶が庭師から教えられ、記録を調べて確認できた話なんですが、桜は普通、品種改良やすぐに栽培して増やすために、接ぎ木と言って他の木に枝を接いで栽培してますので、すぐに本数が増やせます。
 ですが、接ぎ木で栽培した桜の寿命はせいぜい60~70年で幹や枝が腐ってきて、折れるか枯れちゃうそうです。

 種から大事に育てた木だけが、樹齢200~400年とかになれるそうです。
種から育てた桜は、花が咲くかどうかは30年くらい経たないと分からないとかで中には数年で咲く木もあるそうです

 きょうはこの桜の木を守る「桜守」のことをまず最初に書いて、続いて27日「サクラに日」の話題と、地元にちなむサクラを愛でた歌・俳句をご紹介することにしよう。


 




           
       
      (京都・円山公園のしだれ桜)

 まず初めに「桜守」という言葉をご存知ですか? 
 桜の木の声に耳を傾け、各地の名木を守り続ける「桜のお医者さん」です。

 わが国で最も有名な「桜守」は京都在住の第十六代佐野藤右衛門、創業天保3年、代々御室御所に仕え、植木職人として御室仁和寺の造園工事に携わり、家業の植木屋を継承し、明治より造園業を営み14代目より滅び行く桜を憂い、日本各地の名桜の保存に努め、現在約200種を保存している。庭師十六代、三代目桜守を受け継いだ佐野藤右衛門さんは、桜と心を通わせ、桜を通して自然や生活環境の変化、日本人の心の変化を見続けてきました。

■「桜守」の仕事 ■
「人が桜を愛でるのはほんの数日やけどな、桜はそれ以外の季節も花や実のためにエネルギーを蓄えて、成長しようとしとるんです。  そして、日光、土、水、鳥、虫、周りの木・・・どれか一つとの関係が壊れただけで、弱って枯れてしまったり、自生できなくなるんですわ。 桜の声に毎日耳を澄ませて、周りの自然にも目を配らなあきまへん。 そうして桜が寿命を迎える日まで手塩にかけて守り続ける・・・この仕事に必要なんは、なによりもまず桜への愛情です。春になって、つぼみがふくらんできた状態を『笑いかけ』と言いますが、わしは桜がやさしく微笑むこの瞬間がいちばん嬉しいんですわ」。

■ 円山公園の枝垂桜 ■
「この枝垂桜は、わしの親父が命がけで守った桜ですわ。先代の桜が寿命で枯れた時、親父はその種子から育てていた若い桜をここに植え替えたんです。京都市の命令で親桜と同じ場所に植えなあかんかってんけど、実はこれが良くない。桜は連作に向かへん木です。なかなか花をつけへんかった・・・『ひんそうな桜やな』と陰口を言われながら、親父はこの桜を毎日のように世話して、ジェーン台風が来た時には、ずっと木にしがみついて幹をささえたんです。ほんま、命がけやったと思います。その後、だんだんと花をつけるようになって、今では見事な花を毎年咲かせてはる。たくさんの人に見てもろうて桜も親父も喜んでると思います。当時の親父の苦労を知ってる人はほとんどいはらへんけど、桜が一番よう知ってるはずですわ」
花見のマナー ■
「酔っ払って桜の根元に酒をこぼしたり、立小便するのはよろしい。土の栄養になりますから。しかし、ビニールシートはあきまへん。桜が呼吸できないんですわ。空気を通すゴザがよろしおす。根を痛めるハイヒールや、振動を伝えるカラオケも桜が嫌がります。桜も人間も、同じ世界で呼吸する生き物。ちょっとした配慮と、桜と対話する気持ちを持って花を愛でてほしおすな」
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 きょうは「サクラの日」に寄せて地元「紀州権現平桜」の「桜守」の話題と、地元の桜の名所の「サクラ」に寄せる歌や俳句をご紹介することとしよう。

 3月27日は「さくらの日」(ニュース和歌山3・24)  
  
 
 開花が早い今年の桜前線。例年なら見ごろの3月27日は日本さくらの会が定めた「さくらの日」だ。「日本を代表する花の桜への関心を高めよう」と「3×9(さく)=27」の語呂合わせで1992年に制定した。和歌山には「日本一の桜」と絶賛されながら一時壊滅し、和歌山市内の女性の尽力で、その美を後世につないだ桜がある。「紀州権現平桜(ごんげんだいらざくら)」。紀北には県植物公園緑花センター(岩出市東坂本)に1本残っている。



 再び日本一に? 紀州権現平桜、一市民の力で美受け継ぐ 

「紀州権現平桜」は、西富田村(現白浜町)から北米へ移住した6人が1901年、「故郷に報いたい」と同町の熊野神社に植樹した。紀南の山桜を改良した品種で、花は地元で評判を集めた。
 
 これを見た植物学者で、水上勉の小説『櫻守』のモデルとなった笹部新太郎氏(1887〜1978)が自著『櫻男行状』で絶賛。「この桜こそ今日以後の日本の桜の品種改良の基盤となるもの」と讃えた。しかし、戦中戦後の食料難で畑にするために神社の木は伐採。壊滅状態に陥った。
 
 復活のきっかけを作ったのは和歌山市の薬剤師、妙中康子さん(65)。妙中さんは94年、当時、京都大学教授だった山田康之さんの講演で、権現平桜の種がバイオで増殖され、西宮市で「西宮権現平桜」となり花を咲かせているのを知った。「和歌山のものなら和歌山へ戻してあげたい」と妙中さんは教授に直談判し、約2メートルの苗木を譲り受け、和歌山県の研究施設に育苗を依頼。接木で苗木を増やし、99年に大半を熊野神社に植樹し、毎年、花を咲かせている。

 県植物公園緑花センターには2002年に県林業試験場から一本を譲り受け移植した。現在、高さ約3メートル50センチで桜としてはまだ幼木。「紀州ふるさとの店」前で、細い枝を精一杯に伸ばしている。同センターの畑田和伸所長は「花びらは普通の山桜より大きい感じ。笹部さんは数多くの桜を見ており、目は肥えているはず。今は幼木ですが、孫子の世代にやっぱり『日本一の桜だ』となるかもしれない。大切に育てたいですね」。 
 
 権現平桜の開花は4月の見込み。妙中さんは「和歌山まで苗木を運んでくるのは大変でしたが、一本でも紀北に来てくれうれしい。紀の川土手沿いに権現平桜が並べばいいなと時々思いますね」と話している。
 緑花センターは午前9時〜午後5時。火曜休み。同センター(0736・62・4029)。
写真上=心なしか花びらが大きくみえる=2007年撮影
写真下=右は権現平桜。芽を確認する畑田所長
     ◇                 ◇

地元紀州に関わる有名人でサクラの花を詠んだ二人を紹介します。一人は「西行法師」その人であり、あと一人は本居宣長である。
 
西行は佐藤義清といい、秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘(紀の川中流域の現・紀の川市粉河町)の預所に補任されて裕福であった。

 16歳ごろから徳大寺家に仕えた。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面の武士としても奉仕していたことが記録に残る。 

和歌と故実に通じた類稀なる人物として知られていたが、同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。諸国放浪のほか高野山や吉野に庵を結んだ。サクラを人一倍愛し辞世の句ともいえる 

 ”願わくば 花にしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ”(この花は桜を指す。)

はあまりにも有名で、実際この歌の通り旧暦二月十六日に息を引き取った。

 あとの一人、本居宣長(享保15年(1730)5月7日生-享和元年(1801)9月29日没 享年72歳 )伊勢国松坂本町生、松坂魚町で内科、小児科医を開業、29歳 松坂魚町宅等で古典講釈塾を開き『源氏物語』等町人に教える、34歳☆ 江戸の国学者賀茂真淵氏と一夜対面、翌年入門、通 信教育で指導を受ける(賀茂真淵氏死去まで約6年間)。63歳 紀州徳川家(五十五万五千石)に仕官(但し松坂住み)、資格は医師ながらもっぱら古典講釈をおこなう。没年までに和歌山に三度出府し藩主、また清信院に進講する。わが国随一の国学者、その子孫等も代々紀州藩に仕えた。

 彼の「山櫻」に喩えて「大和心」を詠った歌はこれまた有名で、前の世界大戦時に、散り際の潔さが特攻隊の精神にと軍に悪用され、もてはやされたことでも有名である

 ”敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花”

 そうして、あともう一人は、旅は百代の過客にしてで有名な松尾芭蕉である。
芭蕉は春とサクラを追って和歌浦・紀三井寺を訪れ、句を遺している。この句碑が紀三井寺にあり、「花見」の折、この句碑を訪ねることができるので、おマケに加えておこう


「芭蕉句碑」
 

 ”見あぐれば さくらしまふて 紀三井寺”
 

芭蕉の句碑は紀三井寺正面参道山門から登る231段の中程、清浄水の所にあります。 芭蕉は貞享4年(1687)に江戸を発ち旅に出ました。翌年、名勝・和歌浦に来て、こんな句を残しています。

  ”行春を 和歌の浦にて 追付たり”
 
 当時45歳だった芭蕉は51歳で亡くなっているので、晩年に近かったと言えるかも知れません。老俳諧師は春を追いかけて南へ南へと旅を続け、和歌の浦まで来てようやく春に追いついたと思ったのでしょう。 
芭蕉はその足で紀三井寺にも参り、冒頭の「見あぐれば…」の句を物したのです。                                                              歌の浦でやっと春に追いついたと思い桜見しようと喜び勇んで紀三井寺に来たら、もう桜は無かった…。旅人の落胆する気持ちが素直に出た句だと云えます。

 

6 件のコメント:

  1. しげやん^^
    これからの季節、紀三井寺で花見できていいねぇ!
    体の調子も良くなってきて家から近いからサイクリングで見に行ってきて^-^日本はいいですね四季があって^-^
                  atiti

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  2. RE: atitiさん
    今日は少し風が冷たかったが、紀三井寺緑道を紀三井寺まで
    いってきたよ~!競技場ではフリーマーケットでていたよ~
    この記事は明日アップします。いまが見頃で、キツイ雨風が
    きたら花が散ってしまうので、一度は早く行かないとと思い
    行ってきましたよ!

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  3. やっとコメントが書けるようになりました。
    まだ娘の手助けがないと、書き込みが出来ないと思います。

    紀三井寺の桜TVで満開と出ていました。
    大阪より桜前線は早いらしいですよ。
    俳句と短歌
    つい指折り数えて作っています。メモらないのですぐ忘れてしまいますが。
    日本人ですね。

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  4. RE: リコウランさん
    作家の森村誠一さんが「写真俳句」なるものを奨めておられ
    ます。そこには「ひねるより 一句一写の 花便り」とあり
    写真を撮っ他ときの感想を俳句を詠んでメモ替わりにする
    そうです。これなら俳句の上手、下手を云わずに誰でもでき
    そうです。わたしも下手の横好きでやってみたいと思います。
    この写真俳句なんか、如何です!

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  5. 紀伊田辺から紀伊富田2011年3月17日 22:33

    ネットで見ていても白浜町の権現平桜復活に関する記事には「桜会」やら「地元有志」「才野区」は出てきますが妙中康子様の御名前がなかなか出てこないですよね。妙中様は富田での権現平桜復活の一番の功労者であると私は思います。で、なけりゃ里帰りは無かったと思います。地元では年寄りでないと権現平が桜で有名であったことは知らないのが実情でした。私もほどほど歳を重ねるまでは知りませんでした。そういう私は「桜会」の一員でもあります。植樹された権現平桜の生育がおもわしくないため県の指導で従来桜の伐採を一度行いました。その後は少し伸長が見られましたが年数の割には成長していないです。「桜会」は年々平均年齢が上昇中ですが権現平桜について熱い思いを語っていた故、片山義広氏の思いをつないで行かなければと思います。ちょっとこのページが気にいったので投稿しました。アルコールが入っているため乱筆?乱打?をお許しください。

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  6. しげやん07102011年3月27日 19:44

    紀伊富田さま
    今日は「さくらの日」だとか、近場の紀三井寺緑道の桜並木
    を見に行きましたが、昨年から見れば一週間ほど遅い様子です。紀三井寺の標本木もようやく数輪、開花したそうです。
    桜を愛する人が多いのですね!
    紀州では歌人西行、国学者の本居宣長も桜の歌を詠んでますから

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