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2013年7月18日木曜日

政治家と役人の使い方 政党は具体的な方針示せ!       

(記者有論)役人の使い方 政党は具体的な方針示せ!       「オピニオン論者」 駒野剛



 今年の夏は暑い!梅雨明けがはやかった分、それだけ夏が長いと云うこと!関西では京都・祇園祭、大阪・天神祭のころが夏の真っ盛りと云うが、21日の参議院議員選挙や夏の甲子園出場を掛けて各地で高校球児の真摯な健闘が展開される毎日である。

 ところで、インターネットでネットサーフィンしていると、ときには「我が意を得たり」という、意見に遭遇することがある。下に引用する「論者」の意見は、まさにこれに当たる。

 そういうことで「国家百年の計」を建て、且つ実行出来る人物が果たしておるのか人物をを、政党を真剣に選ばねばならないと心した次第である。
 
紙面写真・図版

                   オピニオン編集部・駒野剛
 

 
 340万人。日本には横浜市よりやや少なく、大阪市より多い数の公務員がいる。
 官僚支配打破、政治主導、官から民へ――与野党問わず、政治家からは役人を使いこなす「力」を訴えるスローガンが叫ばれ続けている。しかし現実はどの党も役人に頼り切りである。
 

 しかし、被災地に使われるべき復興財源が他の地域の公共事業や物品購入、ゆるキャラのPR隊の活動費などに流用されていたことは、スローガンが「空文」であることを示した。財源の元は、一日も早い復興を願う国民への増税分。言わば浄財の横取りだ。役人の「知恵者」ぶりとともに、納税者の監視を代行するはずの政治家の目が節穴なことを露呈させた。
 

 中国初の統一帝国・秦を倒した漢の時代に書かれた史記列伝に、こんな一節がある。
 

  「史記列伝」の項目は、わたしがみなさんのご理解を得られやすいように挿入したもの。
「史記列伝」・司馬遷・・・司馬遷は紀元前145年に、夏陽県の竜門で生まれた。

司馬氏は周の史官として代々仕えていたが、春秋時代の初めには洛陽を去り、 一族の中には秦の将軍となった司馬錯や、趙の剣術師範となった司馬凱など、 武術と兵法に優れた人物が輩出している。

司馬遷の父の司馬談は漢の太史公であり、天文と暦法をおもな職務としていたが、 自らの知識と思想を注ぎ込み、歴史書を著すことを夢に描いていた。 父の遺志を受け継ぎ司馬遷が『史記』を書き出したのは、 没後しばらくした42歳の頃と伝えられている。

それから5年後、親友である李陵将軍が敵に拘留され、 司馬遷は彼を必死に弁護することで、武帝の逆鱗に触れて投獄される。そこに待っていたのは去勢の刑罰であり、 3年後に大赦で出獄してから、武帝の側近の宦官として生きるしかなかった。

40代半ばで男性機能を奪われても、日常生活に支障を来さないと考えるのは違う。
実際に性交渉を持つか否かでなく、可能性を最初から断ち切られることで、 司馬遷は人間としての尊厳を保てなくなった。 『史記』を著すことだけが、唯一の生きる術となる。

『史記列伝』に登場するのが覇王や英傑ばかりではなく、 刺客や遊侠の徒にまで光を当てているのは、司馬遷の波瀾万丈の人生と無縁ではない。 地の底で蠢く人たちを主役として描き出すことで、 自らの不条理に折り合いをつけ、人間存在の本質に迫ろうとしている。

その一方で周の蘇秦の言葉として、 「士たる者が頭を下げて書物の読み方を学んだところで、
名誉を獲得しなければ、知識が多いことなど何の役に立つものか」と、 現実の重さを痛いほど噛みしめている。

別のところでは「知ることが難しいのではない。いかに知っていることに身を処するのか、それが難しい」と述べている。 知識の光と闇が、司馬遷の魂で交錯する。

『史記列伝』は70篇で構成されているが、 伝聞という形を借りて広い視野で歴史を捉える。
具体的な根拠に乏しいものも多く、政治家や学者の業績を時系列で追うわけでもない。

司馬遷の想像力の世界に、私たちが誘われている要素もあり、 史実よりは文学に近い表現である。
とりわけ『史記列伝』は特定の個人を選び、エピソードを伝えると共に、 司馬遷が論評を加えるスタイルだから、それぞれのドラマが鮮明に映し出され、強い説得力で私たちに迫ってくる。
長い列伝の最後が「貨殖列伝」なのも、私にとっては示唆的である。

司馬遷が『史記列伝』で遺そうとしたのは、 実証的な史実ではなく、人間の真実に違いない。
数多くの逸話や箴言が後世に大きな影響を及ぼし、さまざまな場面で当たり前のように引用されているのは、 司馬遷の世界が私たちの脳裏に刷り込まれているからだ。
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ある人物を抜擢(ばってき)しようとする皇帝を、役人が止める。
 「秦は、文書と法律いじりだけが能である小役人どもに何もかも任せたため、小役人どもは、しゃくし定規や厳罰策を良いことだと考えて、それを競争しあった」
 「文書や法令ばかりが完備するという弊害に陥り、人民の実情に対する思いやりはなくなった。悪いことは天子に報告されず、秦は衰え、天下が崩れた」
 役人は法や前例、実務に精通している。為政者が素人なら、役人に丸投げしがちだ。それに乗じた役人が暴走する。悪弊は2千年以上昔からあったのだ。


 関東大震災後の復興の立役者に後藤新平がいる。彼とスタッフたちが立案し、予算化した事業が広い道路や、隅田河畔の防火緑地帯化などとなり、東京を新たな近代都市として復活させた。
 後藤がひのき舞台に立つ契機は、植民地化した台湾を経営する児玉源太郎に、起用されたことだった。
 

 後に日露戦争で陸軍の作戦の中核を担う児玉は「仕事が挙がるかどうかは人にある」と適材適所を旨とした。自らは大方針を示して、具体策は後藤ら部下に任せた。さりとて点検も怠らなかったため、後藤は児玉の目を恐れた。鍛えられた手腕が震災復興で発揮され、やがて役人を使いこなす閣僚に育っていく。
 

 今、児玉や後藤のモデルが、そのまま通用はしない。しかし、役人を生かすも殺すも政治家次第なのは、変わらない。参院選が戦われている。役人をどう使いこなすのか、各党はスローガンではなく、具体的なモデルを示して有権者に問うべきだ。
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この「論説」を読んだとき、これが云おうとしているのは、わたしが未だに明確に憶えている戦後復興時の名古屋市の主要道路建設である。その当時幅員100m道路が敷設されたのである。
まさに飛行機が着陸出来そうな道路、確かに爆撃の類焼を防止するには効果的だが、当時はそこまでも?と思ったが、今になってはこれが生きて来たのである。大都市交通網の大動脈の役を果たし、経済成長を遂げる大役を果たしたのである。
 
当時の名古屋市長(政治家)が、将来を展望した名古屋市の建設に向けて最適任者(役人)を選んだことに他ならない。これこそ「国家百年の計」に該当する。こういう構想を描ける政治家や役人がおらないのか?
政治家に「土建族」と云われる政治家のグループがある。しかし実際やることは自分たちへの利益誘導で、自分の私腹を肥やすことに熱心だが、これだけの構想を描ける政治家に出会いたいモノだ!以下、名古屋市の戦後復興の「道路計画」のあり方を見てみよう!
 

名古屋の戦災復興計画

名古屋は歴史のある城下町であるが、名古屋市の中心部とその近辺での都市整備は特に道路整備が進み、幹線道路が何本か街中を貫き、区画街路も6~8m程度あるという具合である。
現在の名古屋の骨格を形作っているのは戦後の戦災復興での大幅な都市改造とされる。
名古屋市は市長を会長として計画関連の関係機関の長と議員や学識者からなる復興調査会を組織して基本計画を策定している。

 そしてその中心となって活躍したのが当時の名古屋市の技監・助役を歴任した田淵寿郎で、1945(昭和20)年10月に市に請われて、早くも翌年には戦災復興の基本方針をとりまとめた上、その方針に従い2本の100m道路に象徴される道路の整備、市内の墓地を平和公園へ移転する等を核とする戦災復興事業を実施し、現在の名古屋市の礎を築きあげた人物と称されている。
田淵は元々は内務省の技術者で、終戦直後は疎開先の三重県にいた。当時の名古屋市長佐藤正俊は名古屋を復興すべく田淵に白羽の矢を立てた。
内務省時代には国内各地の河川改修事業に従事、のち大陸に渡り中国各地の都市計画で腕を振るい、その才覚に絶大な信頼が寄せることとなる。1945年10月10日に名古屋市技監に任命し、市の建設行政全て掌握させる。
 
焦土と化した名古屋の焼け跡地に縄張りをして道路や公園予定地の地権者を説得して回り、まず
道路をひたすら造り続けることとし、市域2割方を道路にした。
当然周囲の反感も買うこととなったが、揺るぎなかった信念をもって実行に移される。そのほか、市内の中心部に約280軒あった寺と寺が抱える墓地、墓標19万基をすべて1カ所に集団移転させた。
 
やはりさすがにこれだけの墓を移転することは物議を醸し苦情が相次ぐが地道に説得し、結局事業を実施する。区画整理は440ヘクタール規模で着手したが1949(昭和24)年にはほぼ9割がた仮換地指定を終えている。戦災復興事業の中で道路整備と並んで相当な労力精神力を必要とした平和光園建設事業を、戦争でなくなった人の霊を弔う戦災復興の記念碑として広大な墓地公園を完成させ、さらにまた予定していた平和堂の建設が資金難で未完成のままだったため、自身の退職金の大半を寄付して完成させた。



 

  今は名古屋の名物ともなっている2本の100m道路(若宮大通・久屋大通)については、防火帯としての計画であったがとくに街の中心を東西南北に縦断し名古屋市を四分割するため、「街の真ん中に飛行場でも造るつもりか。」 と揶揄された。さらに道路予定地に名古屋刑務所が存在し、政府は復興事業の再検討と縮小を要求するといった最も批判を浴びた構想でもあったが、田淵は今後あらゆる災害が起きた際こうした道路は是非とも必要であるといった防災の見地から強く主張。また中心部と名古屋港を結ぶ道路を完備するべきだと考えていた。ねばり強く政府と交渉した結果、刑務所を現在のみよし市に移転させ、100メートル道路を完成させる。

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