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2013年7月28日日曜日

高校野球和歌山大会・箕島29年ぶりV 故尾藤氏長男“スマイル”継承就任1年目で栄冠!

箕島29年ぶりV 故尾藤氏長男“スマイル”継承就任1年目で栄冠・月28日(日)


      ”甲子園出場校のなかでも話題の一つになること間違いないし!”

画像:涙をこらえる箕島・尾藤強監督
涙をこらえる箕島・尾藤強監督
(和歌山大会決勝戦・箕島高10:1南部高)

 強監督らしさが出たのは2回だ。1死一、三塁で8番・須佐見。南部バッテリーは2度ウエストするなどスクイズを警戒した。だが、バントのそぶりがないまま、2ボール2ストライクからのスリーバントスクイズで先制。敵将の南部・井戸大志(ひろし)監督は「オヤジさんより、したたか」とその采配に舌を巻いた。緊張から普段の力を発揮しにくい場面にも、須佐見は「(監督は)ミスしてもけなさないので楽にいける」と難なくこなした。
 偉大な父と比較されることを覚悟の上で、今年3月に母校の監督に就任した。その中で「復活ではなく、新しい歴史をみんなでつくっていく」と言い続けてきた。
 
 
 ただ、「箕島特有の厳しさの中で伸び伸びとした野球で(部員の)成長を手助けできれば」と目指すスタイルは父と重なる。父のトレードマークだった「尾藤スマイル」は「意識しません。無理に笑うこともできませんし」と苦笑いするが、選手と交換日記などでコミュニケーションを欠かさず、練習中にも自然と笑みがこぼれる。中西主将が「やっぱり笑顔が多い。リラックスできる」と話すように、“血”は受け継がれている。
 
 
 小学生の頃から自然と憧れた箕島へ進んで父の薫陶を受けたが、選手時代は甲子園に手は届かなかった。指導経験もなかった中で転機が訪れたのは昨秋。OB会に要請されてコーチで戻り、その時点で将来の監督就任も既定路線となった。土木建設業者で働きながらの指導。当初は「ハードやな」と感じていたが、選手たちの必死な姿を見ると、泣き言は言ってられなかった。
 
 
 監督として初めて踏む聖地。父には「甲子園に行くことになりました。ありがとう」と報告し、夢の舞台に立つ。

 ◆尾藤 強(びとう・つよし)1969年(昭44)7月30日、和歌山県有田市生まれの43歳。箕島時代は投手として父の指導を受け、86年夏の和歌山大会で2年生エースとして決勝まで進んだが敗退。3年時も甲子園に出場できなかった。法大進学後、長野県のサッシメーカーに就職。96年の結婚を機に帰郷し、地元の建築会社に入社。昨秋から母校のコーチを務め、今年3月に監督就任。会社勤務を続けながら指揮を執る。

・「尾藤魂」2011.9.14から朝日新聞の連載された尾藤公監督の半世紀。
・「武闘魂」応援団ブログ: http://bittoudamashi.ikora.tv/

(詳細内容)
写真・図版
優勝を決め、校歌を聞きながら感極まる箕島の尾藤強監督
=和歌山市の県営紀三井寺球場
写真・図版

 

 

和歌山大会で29年ぶりに夏の甲子園出場を決め、
喜びの涙を見せる箕島の尾藤強監督(手前)=27日、
和歌山市の県営紀三井寺球場
写真・図版
1979年の第51回選抜大会を制し、春3度目の優勝を遂げて
笑顔をみせる箕島の故・尾藤公監督
 

 かつて甲子園を沸かせた名将の二世が27日、そろって第95回全国高校野球選手権記念大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催、8月8日開幕)の代表を決めた。福岡から初名乗りを上げた自由ヶ丘の赤嶺琢(たくま)監督(48)は、1990年から沖縄水産を2年連続全国選手権準優勝に導いた故・裁弘義監督(2007年死去、享年65)の長男。29年ぶりに和歌山大会を制した箕島を率いるのは、春秋連覇を含む計4度の甲子園優勝を誇り未だに甲子園の名勝負の語りぐさになり、相互交流が今でもつづく「箕島:星陵」を勝利した故・尾藤公(ただし)・元監督(11年死去、享年68)の長男強(つよし)監督(43)だ。こちらはかつて親父が率いた同じ箕島高校の監督として、親子二代で監督を務める。父の姿を見て育った2人が、大舞台で新風を吹き込む。
 
29年の空白、半年で埋めた 箕島・尾藤強監督
 「尾藤スマイル」が甲子園に帰ってくる――。箕島の尾藤監督は今年3月1日に就任。初めての夏に、長い空白を一気に埋めた
 

 優勝校の校歌が流れると、尾藤監督の肩が震え始めた。一塁側ベンチ前で目元を覆う。「この校歌を聞きたくて、選手は毎日がんばってきましたから」
 

 技術面より、精神面の指導を心がけてきた。「どちらかと言うと個人主義。それを変えようと」。練習試合でミスや気を抜いたプレーがあると、「(夏の和歌山大会がある)紀三井寺でやったら大変なことになるぞ」と選手に説き続けた。
 

 春季県大会でいきなり優勝すると、今夏は相手に一度もリードを許さなかった。決勝は2回にスクイズで先制し、徐々にリードを広げた。「挫折したり、孤立したりした選手ばかり。それが最後にすごい力を発揮した」
 

 重圧について問われると「29年ぶりとか、ブランクとか言われるが、2年半がんばってきた3年生の夏を背負っているプレッシャーの方が大きかった」と振り返った。「父には、大きなけがなく終われてありがとうとお礼をして、甲子園に行くことになったよ、と報告したい」
 

 スタンドには卒業生や地元のファンが詰めかけた。野球部OB会の児島昭人会長(63)は「みんなでつなぎ、みんなでカバーする尾藤野球をわずかな期間で復活させた」と目を細めた。
 

 1979年夏に延長18回の熱闘を繰り広げた星稜もこの日、石川大会で決勝進出を決めた。当時監督だった山下智茂さん(68)は3月に尾藤監督と会い、「いい目、強い目になった。勝てるよ」と話したという。「本当にやりましたね。4カ月ちょっとで甲子園。やっぱりおやじがついてる。うちも甲子園で対戦できるようがんばります」と喜んだ。

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