ブログ アーカイブ

2011年3月4日金曜日

4日・新田長次郎氏と「琴ノ浦温山荘園」(その4)

 今回、冒頭で新田長次郎氏の人となりや発明、事業展開を紹介するのには、大きな意味や理由がある。 というのは氏の発明力・アイデアが随所に「琴ノ浦温山荘園」の設計に生かされているからである。
 名所旧跡巡りをするのに、前もって予備知識があるのと、ないのとでは同じモノを眺めても受け取り方が大きく異なってくるからである。
 前置きが長くなったが、再び地元「わかやま新報」から掲載記事をお借りして、話を進めることにしたい。
「坂の上の雲」で有名な陸軍大将‥秋山好古氏と無二の親友だった新田長次郎氏・温山荘園内
  新田長次郎氏のことについては、いままで余り触れることなしで来たが、氏の人となりや氏が興した事業・発明は株式会社ニッタの125年に及ぶ歴史として「ニッタの歴史館」で紹介されている。
 これらのなかから主立った氏の功績をピックアップしてみよう。
 
【100年を越すニッタの歴史館】意外なものがニッタで開発されています。

・1888年(明治21)年
「動力伝動用革ベルト」
動力伝動用ベルト
  当時創業者は、製靴用皮革製造に携わっていたが、その技術を生かした革ベルトを品評会に出展。そこで革のなめし技術が認められ、大阪紡績から動力伝動用革ベルトの製作を依頼された。
  それまでは、革ベルトは輸入品しかなく、高品質な国内生産品が求められていた。これに応える品質の動力伝動用革ベルト製造に日本で初めて成功したのがニッタだ。
  1893(明治26)年新田は横浜港からアメリカ‥ヨーロッパに外遊、当時シカゴで開催の世界大博覧会に出品されていたベルトの桁違いの大きさに仰天、製造されていたニューヨークまで足を運び、さらに先進‥英国の進んだベルト製造法を学び帰国後、新製品開発に情熱を注いだ。
  この頃後の第23代総理大臣となる清浦奎吾と知り合い、清浦が新田の工場を視察することになった。
 日清、日露の両戦争に際しては、呉海軍工廠はじめ多くの軍部工廠からの需要を一手に引き受け、莫大な利益をあげた。
  このように軍部の御用達工場として、また、このことがきっかけで、ニッタの紡績業界での知名度は非常に高まり、いまでも紡績用機械にはニッタの製品が使われている。
・1911年(明治44)年
「国産初のタンニン製造当時の事務所」
タンニン製造の事務所
 革をなめすためにタンニンを使用するのだが、創業者が槲(カシワ)の樹皮、ノブの根皮に良質のタンニンが含まれていることを知った。当時、革製品の需要増大のため、本州では槲、ノブが減少し、タンニンの原材料の入手が難しくなっていた。
  北海道十勝には槲樹林が多いことに着目、ここに日本初のタンニン固形エキス製造のための十勝製渋工場を設立。槲を伐採する一方、将来のために植林を開始した。
 このタンニンを採るための原料として使われた槲は、当初は樹皮しか使われていなかった。


「新田ベニヤ」
新田ベニア
 槲(カシワ)の木から樹皮を剥ぎ取った後の幹の主な再利用方法は、鉄道の枕木などがあったが、それを合板として事業化。その後研究を続け、耐水耐熱に優れた膠接着剤を開発し、1923年、「ベニヤ」の登録専売特許を得た。
 ベニヤの用途は和洋建築、建具、飛行機、汽車、汽船、楽器、玩具、自動車などにも広がった。


・1917年(大正6)年
「大阪柏原ゼラチン工場」
ニカワ・ゼラチン工場
 当時、国内での膠(ニカワ)、ゼラチンの使用量は増大していたが、国産品は、生産量、質ともに満足のいくものではなかった。
 膠の原料がベルト製造過程の副産物であったことから、西洋の膠製造法を研究し、製品化にいたった。同じく工業用ゼラチンの製造も開始したので、膠及び一般工業用ゼラチンは輸入に依存する状態を脱した。
 その後、食・医薬用ゼラチンの研究をすすめ、さらに技術的に難しかった写真用ゼラチンの開発にも取り組んだ。
膠およびゼラチン製造のために工場を建設したのだが、この工場は、品質・生産量ともに東洋一の膠・ゼラチン工場であった。
 

「小学校・私立松山高等商業学校創設」
 当時、家計を助けるために働いて学校にも行けない子供たちがたくさんいた。その子供たちのために、創業者は1911年、大阪市で有隣尋常小学校を開校した。
 この学校の経営経費の一切を負担し、生徒の学用品、衣服、履物まで支給した。
 12年後大阪市にすべてを寄贈した。 また、1923年、創業者の郷里である松山に松山高等商業学校(私立では全国3番目の開校・現 松山大学)を開校。その創立費と経営費を出資した。
 こうした活動は、創業者が技術と事業だけでなく、教育を通じて社会に貢献したいという考え方によるものである。
                          
松山大学(元・松山高商)

新田長次郎氏の号「温山」から名付けた「温山会館」




松山高商「建学の精神・三実主義」

 長次郎は、事業で得た利益を社会、特に、未来を担う子供達のために提供したのである。大阪市の有隣(ゆうりん)尋常(じんじょう)小学校の生徒達のためにである(1911《明治44》年6月16日付『大阪朝日新聞』)。
 有隣小学校を大阪市に譲渡した直後の1922(大正11)年、松山市長に就任していた加藤恒忠(1859~1923。1922〔大正11〕年松山市長に就任。)が長次郎を訪ね、「松山市に於いては官立高等学校が設立せられ、大学教育を受けむとする者には便宜を得たるも、県民に於いてはさらに実業専門教育機関として高等商業学校の設置を熱望せり。且他日最高学府たる四国に大学を設置せらるヽものとせば、高等学校の外に高等商業学校の設備あらば、其の地を松山に選定せらるヽに便なり、君が財を投じて松山市に高等商業学校を設立するの意思なきや」と尋ねる。
 長次郎は、有隣小学校に代わる適当な社会事業を考慮中でもあったため、加藤の申し出に直ちに賛同し、創立費用、経営費用(45万円)を出すことを快諾、その結果、1923(大正12)年3月3日文部省の認可を受け、専門学校令による松山商業高等学校が松山市清水町(現文京町)に設立され、同年4月25日に開校する運びとなった。

 同校の同窓会は新田長次郎氏の号「温山」から「温山会」と名付けられ氏の遺徳を今に称えている。
 なお、新田氏が経営した会社は第二次世界大戦、敗戦による紆余曲折を得ながら125年の歴史を有する株式会社「ニッタ」として、創業者・新田長次郎氏の遺志を継ぎ、現在に至っている。   

        ◇          ◇
(「わかやま新報」記事より借用)

新しいアイデアを取り入れた茶室の材料

             (つづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿