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2012年11月8日木曜日

十一日は「悲劇の王子・有間皇子まつり」


『悲劇の貴人・有間皇子の生涯のあらすじ』

有間皇子 中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺!  

 

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者・中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。

 
 中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。

640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある(万葉集収録)。

・”家にあれば  笥に盛る飯(いひ)を 草枕  旅にしあれば  椎の葉に盛る”

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

 

・”磐代の  浜松が枝を  引き結び  真幸(まさき)くあらば  また還り見む”

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

写真: 磐代の有間皇子結松記念碑

地元海南市では有間皇子の処刑地は熊野古道の「藤白坂」 説をとり、それに基づき、 毎年11月11日の命日に、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」より要点を抜粋)
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●異説:(有間皇子の処刑地を南紀の磐代とする地元に伝わる伝承話)                                         

・有間皇子社:明治中頃、神社合祀によって無くなった社で、処刑された有間皇子の霊を祀る社であったとされています。(現:御坊市切目)

・これに対し、藤白神社境内の「有間皇子神社」は昭和56年4月に地元の有志たちの手で建てられましました。
紀伊続風土記 第二輯 卷六十七   日高郡切目荘 ○有馬皇子社
 或る人熊野紀行に載す。その地今詳ならず。下文に載す小祠三社の内なりしを土人その傳を失ひしのてもあるべし
○小社三社
   弁財天社 大畑にあり
   玉権現社 高垣にあり
   衣美栖社 海浜にあり

熊野独参紀」卷の二

有馬ノ皇子ノ小社アリ
切目川幅五十間 常ハ徒渉 洪水ニハ渡舟ナキ故往来留ル也 切目崎風アル時ハ浪アラシ 
有間皇子の墓とされる「岩内1号古墳」

   そこでドロドロとして不明なことの多い古代史大好き人間のわたしは、有間皇子が縊られた地を探していたら、下にある中紀・御坊市歴史再発見シンポジュームの開催予告が眼に停まった。そこには「有間と宮子」~御坊・日高に眠る古代史開眼~とあるではないか?

そして基調講演を同志社大学の名物教授でいまは名誉教授である森浩一氏、パネルデスカッションのコーディネターに松平定知氏(元NHKアナウンサーで歴史番組を担当)等錚々たるメンバーが顔を揃えているではないか!

同シンポの案内には、紀伊の地で刑死した孝徳天皇の皇子「有間皇子」と、文武天皇夫人で聖武天皇の御生母「藤原宮子」、有間皇子が眠ると説かれる「岩内1号古墳」と、宮子姫の創建由来がある「道成寺」。二人が生きた7世紀から8世紀は、大化の改新や壬申の乱などの権力争いを経て”日本”として律令国家構築へ向かった時代。

岩内1号古墳と道成寺、双方が日高川を挟んで南北に存在するー御坊・日高の地から古代を紐解くー!とあるではないか?森浩一氏は古墳や考古学・古代史の権威、その権威ある学者が御坊の「岩内1号古墳」を有間皇子の墓だと云われるのならば海南藤白が有間皇子縊られた地であるとする説が消え去るではないか?
シンポの開催は11月10日(土)と云うんだから11日の「有間皇子まつり」の前日ではないか?  是非とも聴きたいシンポであるが、いまからでは間に合わない。何とかして、当日の資料を手に入れたい!早速手配せねば・・・!

森浩一氏
・森浩一氏:考古学者・古墳の地名呼称提唱 ・同志社大学教授・同名誉教授・ 第22回南方熊楠(みなかた・くまぐす)賞受賞(和歌山県田辺市、南方熊楠顕彰会主催)。
 「考古学は地域に元気を与える学問でなければならない」を信条に、環日本海学や関東学、東海学など、地域活性化に寄与する学問として考古学の役割を確立。「三角縁神獣鏡国産説」を提起して邪馬台国論争を深め、天皇陵と呼ばれる古墳の呼称を地名で呼ぶよう提唱した。
 著作は一般書だけで100冊を超えるほか、講演活動を通じた市民への啓蒙(けいもう)、遺跡保存への活発な働きかけなどが熊楠の生き様に通じ、賞にふさわしいと評価された
           
               
      (クリックで大きくなります) 
 
 

岩内1号墳(和歌山県指定史跡) 

日高川左岸丘陵上にあり、7世紀中頃以降に造営。その技法や棺・副葬品等の内容から、
県下においても国内でも稀少な終末期古墳。墳丘の盛土に見られる版築技法、漆塗り木
棺や銀線蛭巻太刀などに見られる副葬品は、皇族級以外に求められないような内容で、 森浩一氏が約30余年前に被葬者を有間皇子と提唱。
 
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上に記した有間皇子が縊られたのは日高だとする説に対して、あくまでも海南市藤白坂だとする説を信じ、唱えられている藤白神社吉田昌生宮司の談話を下に紹介することにしよう!

 
藤白神社・吉田昌生宮司

地元海南市では有間皇子が縊られたのはあくまでも海南市の藤白坂だとする説を採るので、「有間皇子の変」の要点は上記の文章と重複するが、地元海南市の藤白神社吉田昌生宮司の談話を交えてもう少し説明しよう。(引用は大人の自愉let・2012.11号より)

吉田昌生(74)宮司:海南高校から国学院大學に進んだ。昭和30年代で東京タワーができた頃。「和歌山県事務所で守衛のアルバイトをしていたけど、真上に聳えていくタワーに感動しました」。古典が好きで34年から国語教諭として県立高校に奉職。生徒たちを和歌浦に連れ出し、古文の授業を行ったり、遠足で熊野古道を歩かせたりした。
 星林高校には12年いた。野球部の副部長、部長をつとめたが、43年春の選抜に箕島高校とダブル出場。夏は箕島高校の東尾修投手(元・西武監督)を打ち込んで出場した。父、留信宮司の元で禰宜をしていたが、平成7年、海南高校下津分校を最後に退職。宮司に専念している。
 教員生活の傍ら、吉田さんは熊野古道の復活、整備に取り組んできた。何度も走破し、ガイドブック「熊野への道」(和歌山編・大阪編)を発行。このほど刊行された「熊野古道 公式完全ガイド」(扶桑社)でも、地理関係を監修している。
 「古道は『ふるみち』と読むべきです。古いだけじゃなく、自然に触れ、温かい人情に触れる。『触道(フルミチ)』でもある。貴賎上下を問わず、受け入れる接待の精神こそ熊野のすべて」。
 昭和61年、「紀州語り部の会」が発足して以来の会員だが、後継者作りにも熱心に取り組んでいる。今でも語り部養成講座を毎月2回、行う。「世界遺産には保全という側面がある。語り部は先達としての意識を持て。そのために全コースを歩け」と教える。「街道沿いには、古来から食べられる植物が自生している。人に優しいんです。今、世界的に宗教による戦争が絶えない。どんな宗教でも受け入れる日本人こそ、誇りとすべきでしょう」。


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「有間皇子まつり」


有間皇子歌碑「家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
 

有間皇子神社(藤白神社境内)
 


「万葉集歌」朗唱会

熊野古道・藤白坂登り口
・開催地:和歌山県海南市藤白:藤白神社境内「有間皇子神社」情報提供元:協同組合i-TAK
・開催期間:
※イベントの中止や開催期間の変更に関しては、「問い合わせ先」欄に掲載の連絡先までご確認ください。情報提供元:協同組合i-TAK                                   


・主催者:藤白神社

2 件のコメント:

  1. まぁ大抵の場合は政治的陰謀におきましては、
    人間性の良いお坊ちゃまが殺されるのが常ですからねぇw
    きっとこの皇子様も気のいいお坊ちゃんだったのでは...

    あぁそうなると私なども危ない危ない、
    まさに気のいいだけの坊ちゃんですからw

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  2. モノノフ殿
    げにこの世で権力ほど怖ろしきモノは御座り申さぬ!
    有間は狂人を装い中大兄皇子の奸計から逃れようと
    したが、役者ぶりは中大兄皇子が一枚上、それに
    嵌められ申した。古代だけでなく平安時代の上皇に
    よる院政、一度大きな権力を握った者はその悪魔から
    逃れられぬと見えまする。いまのロシアや中国にして
    然り、中国でも国家主席を退いた人が院政を敷くとは
    専らの評判に御座る。権力に縁がないわれわれは幸せ
    に御座るが、トバッチリは弱き者に及びまする!

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