そこで「節分」の意味をよく考えると元々「節分」は季節の分かれ目を意味することから、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」のそれぞれの前日を指していました。
それが今日「節分」といえば立春の前日を指すようになったのは、特にこの日を冬から春になる一年の境とし、いまの大晦日と同じように考えられていました。
新年を祝うと同時に、厄を払っておこうと「豆まき」をする特別な日であったためです。「豆まき」の行事は「追儺(ついな)」と呼び,古くは中国から伝わって来た風習です。地方によって異なりますが、年齢の数だけ豆を食べて新年を祝う、体をこすり厄を移して四つ辻や川に捨てるなどの風習が見られます。
神社のの節分(追儺)都年中行事画帳(京都・吉田神社)
葛飾北斎画」(北斎漫画)『節分の鬼』(豆撒き) |
また、旧暦では「元旦」と「節分」の日が近いため、もともと大晦日の習俗であった「追儺(ついな)」という鬼払いの儀式も取り入れられました。もとは宮中の行事であった追儺も、江戸時代には庶民の間に広まり、人々は大声で豆を撒(ま)いて悪鬼を払い、また間口や窓にヒイラギにイワシの頭を刺したものを吊るして魔除けとしたのです。
ところでこの節分の行事を寺院で大規模に行ったのは(江戸)浅草寺が最初で、その様子は『江戸名所図会』に見られます。
かつては本堂において法要を行った後、本堂外陣(げじん)の柱に登った役僧が3000枚ほどの「お札」を団扇(うちわ)であおぎながら、堂内のご信徒に撒く行事でしたが、明治17年(1884)以後は禁じられてしまいました。現在では正午と午後2時頃に、伝法院から本堂へ一山住職と年男による練行列の後、本堂東側に用意された特設舞台から年男による豆撒きと、三大寺舞(じまい)の一つ「福聚(ふくじゅ)の舞(七福神の舞)」の奉演が行われる他、午前10時頃には浅草寺幼稚園園児による豆撒きや、夕刻には「浅草観音文化芸能人節分会」といった行事が行われます。
江戸・浅草寺「節分会」 |
また、かつて本堂の柱から撒かれていた「お札」と「福豆」は、ともにご希望のご信徒に境内のお守授与所で授与されております。
ちなみに浅草寺の豆撒きでは、観音さまの前には鬼はいないということから、「鬼は外」とは唱えず、「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)福は内」と発声いたします。
(江戸・浅草寺「節分会」より引用)
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