咲いた! ソトオリヒメ桜!
ことしはやっぱり早い。
和歌山市和歌浦中の「玉津島神社」で、絶世の美女「衣通姫(そとおりひめ)」の名を持つ
「ソオトリヒメ桜」が咲いていました。

清楚な中に、ほのかな艶やかさが漂う薄紅色の花。名前に恥じぬ美しさです。
衣通姫は同神社の祭神の一人で、和歌の神様です。
毎年この時期になると、近くを通る度に「もう咲いたかな?」と見に行ってしまう私。
どうぞ、美しさやたおやかさ、文学的香気の御利益がありますように…。
「若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み芦辺をさして鶴(たず)鳴き渡る」
その後も、奈良時代、平安時代を通じて多くの歌がここで作られている。
では何故、和歌浦の玉津島明神が衣通姫なのか。
もともと、和歌浦は「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていた。神亀元年、聖武天皇が行幸した時、これを「明光浦(あかのうら)」と改めた。
・地元和歌浦を紹介するブログ「魅せられて和歌の浦」
には、
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』丹生都比売神社
和歌山市和歌浦中の「玉津島神社」で、絶世の美女「衣通姫(そとおりひめ)」の名を持つ
「ソオトリヒメ桜」が咲いていました。

衣通姫は同神社の祭神の一人で、和歌の神様です。
毎年この時期になると、近くを通る度に「もう咲いたかな?」と見に行ってしまう私。
どうぞ、美しさやたおやかさ、文学的香気の御利益がありますように…。
☆ ☆ ☆
やはり、新聞社の女性が書かれた文章は女性らしく繊細で「美」に憧れが感じられます!
ところで、和歌三神とは、住吉明神、玉津島明神(衣通姫)、柿本人麻呂である。
あるいは、第三番目を柿本人麻呂に代えて天満天神(菅原道真)とすることもある。
和歌三神が選ばれたのは中世になってからと考えられるが、それにしても、第三番目の神は明らかに歴史的現実の人物であるが、第一番目の住吉明神は宗教的にも架空のものであり、しかも、住吉の神が作った歌など存在もしない。何故、住吉の神は和歌の神なのか。その上に、第二番目が僅かな歌しかない衣通姫である。
住吉明神が和歌の神とされたのは、住吉明神が祀られる住之江の浦(大阪市住吉区)が歌枕(和歌に詠われている名所)の一つであるからであろう。
かくして、玉津島明神(衣通姫)が和歌の神とされたのも、玉津島神社がある和歌浦が風光明媚な歌枕の地であり、しかも「和歌」と云う言葉を持つ地名であったためだろうと思われる。
万葉集には和歌浦を詠んだ歌が十一首も残っている。特に山部赤人の歌は「片男波(かたおなみ)」の語源として有名である。
「若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み芦辺をさして鶴(たず)鳴き渡る」
その後も、奈良時代、平安時代を通じて多くの歌がここで作られている。
もともと、和歌浦は「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていた。神亀元年、聖武天皇が行幸した時、これを「明光浦(あかのうら)」と改めた。
これにより、その浦にある玉津島と云う小島に祀られていた神も「明光浦之霊(あかのうらのみたま)」と呼ばれるようになる。
やがて、この「あかのうら」が「わかのうら」に転じ、これに「和歌浦」の文字が当てられるようになる。
ところが、何故か、いつの間にか、和歌浦の玉津島明神は衣通姫であると云うことになってくる。
そして、やがて、それが発展して、不思議な物語が生まれてくる。南北朝時代の北畠親房(きたばたけちかふさ・1292~1354)が「古今集註」の中で記しているもので、平安時代中期の光孝天皇の夢枕に彼女が立ったと云う物語である。すなわち、
光孝天皇が和歌浦に御幸して宿った夜、その夢の中で、一人の女性が立っていたので、
「そなたは誰れ人なるぞ」
と訊ねると、
「わらわは衣通姫なり」
と答えて、
「立ち帰り またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき和歌の浦波」
という歌を残して消えて行く。と云う謎めいた物語である。
この物語によって、玉津島明神が衣通姫であるとする考えが通念として定着してくる。。
玉津島明神が衣通姫であるされので、彼女は和歌の神と云う事になったが、彼女を和歌浦に結びつけたのは何なのか。何故、玉津島明神が衣通姫なのか。地元かつらぎ町上天野の里に鎮座する「丹生都比売命」の渡御は、かつては約50kmも離れた和歌浦の玉津島神社であったことと、何らか深く関わりがあろうと思われるので調べて見ることとした。
そして分かったことは玉津島神社の祭神が女神三神・稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)を祀るということだ。このうち稚日尊は丹生都日売命と同神だと云うことであった。これで一つの謎が解けた。

そして分かったことは玉津島神社の祭神が女神三神・稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)を祀るということだ。このうち稚日尊は丹生都日売命と同神だと云うことであった。これで一つの謎が解けた。
『和歌三神』の一つとされ、万葉のゆかりの深い神社・ 和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26



女神三神を祀る、古くから和歌の神様として多くの歌人の信仰を集めてきた神社
「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」 藤原卿
「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」 藤原卿
【玉津島神社の歴史】
社伝によれば、神功皇后が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まると言われています。神亀元年(724年)に即位した聖武天皇が紀伊行幸の際その景観に感動し「この地の弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのうら)とせよ。そして番人を置いてこの浦が荒れ果ててしまわないようにさせよ。さらに春と秋には都から役人を遣わして、玉津島の神・明光浦の霊を祭らせよ。」と命じたとされています。そしてこの地のおもむきのある風景を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀る事になりました。
玉津島神社には、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が奉られています。 天照大神の妹神である稚日女尊を祀り、その後、この大神を尊崇していた神功皇后を合祀しました。さらに光孝天皇の病を治したという衣通姫尊も勅命により合祀し、女神三神を祀る事となりました。 古くから和歌の神様と呼ばれている衣通姫尊は、第十九代允恭天皇の妃で容姿が美しく、艶色が衣を通して光り輝いたほどの女性だったそうです。
author : 和歌の浦みちしるべの会
2013.02.24 Sunday
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』丹生都比売神社
かつらぎ町天野に所在する丹生都比売神社。玉津島神社と関係が深く、1989年から復興された「渡御の儀」は毎年4月第3日曜日に実施されています。鎌倉時代、「浜降り神事」として神輿を奉じて紀ノ川を下り、玉津島神社に参詣し、塩竃神社を御旅所として泊まり、日前宮に入り、天野に帰ったとされます。近世の渡御は、本殿から神社入り口の祝詞棚の御旅所までで、ここで西方の玉津島神社を遙拝し、惣神主が祝詞を奉上しました。
丹生都比売神社は、丹生四所明神、又は天野(あまの)大社とも呼ばれ、古くから高野山の鎮守の神として知られています。丹生都比売命(にうつひめのみこと)は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。『丹生大明神告門(のりと)』では、丹生都比売大神は天照大御神の妹神であるとしており、稚日女尊(わかひるめのみこと)と同一神とする説もある。日本に初めて稲作を教えて生命の糧を授けたという伝説があり、また空海が高野山を開くにあたり丹生都比売命の指示に従ったといわれています。
「花盛祭(はなもりさい)」のご案内・平成25年2月20日 UP
| 当社の春の大祭で、ご祭神に花を供え春の訪れを寿ぐ祭りで、当日は参道に季節の花を竹筒に入れ飾ります。午前の祭典では、本殿の御扉を開け、祝詞を奏上し、子供たちが神前神楽「浦安の舞」を舞います。 午後には、「渡御の儀」を行います。 この「渡御の儀」は、古く鎌倉・室町時代に行われ、神輿行列が和歌山市内の和歌浦にある玉津嶋神社までご巡幸した「浜降り神事」が起源となっています。 春爛漫の天野の里を、神輿と神様のお道具を持ち狩衣を着た人々の行列が巡行します。 また、当日は野点(お茶)や舞楽等の奉納演奏も行われます。
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■出家の述懐
■庵での歌西行は、実に様々な地で庵を結んでいる。嵯峨の小倉山の麓の庵。また、鞍馬山の奥にも庵を結んだとされる。そこで詠んだ和歌に、
■陸奥への旅西行が修行のため陸奥へ旅立ったのは久安二年(1146)、西行が二十九歳の頃であった。平泉についた西行は、前九年の役、さらには後三年の役の舞台となった衣川を見て、
■高野山、入山す陸奥の旅から帰り着いた西行は、拠るべき仏法を見定めたのか、心に期しての行動を高野山に見い出した。久安五年(1149)ごろのことである。以後たび重なる出入りを繰り返しつつ、西行の三十年にわたる高野山居住時代が始まる。高野山は、当時、落雷で大塔や金堂などが炎上し、復興のため高野聖が結集していた。西行も聖として住み着いたと思われる。
■西行と清盛さて、西行の高野山入山のきっかけに、平清盛の誘いがあったという説がある。若き日、同じ北面の武士として仕えたことから、あながち根拠のない説でもなかろう。当時、清盛は、安芸守(あきのかみ)になっており、安芸の一宮(現在の厳島神社)の造営に力を注いでいた。この頃、こころざすことありてと言う詞書で、西行が西国(すなわち安芸の一宮)へ向かって旅をし、高富の浦で詠んだと思える歌が残っている。
■保元の乱、平治の乱西行が高野山に住み慣れたころ、武家政権の到来を暗示させる、保元の乱、平治の乱が起こり、西行は歴史の転換期に遭遇する。保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇が崩御、崇徳上皇の皇位継承のふんまんに加えて、摂関家の内紛、武家同士の反目が加担し、正に血で血を洗う戦乱となった。崇徳上皇は、後白河天皇に敗れ、讃岐へ流された。保元の乱の三年後、平治の乱が起こり、平清盛の大勝となった。平治元年(1159)十二月のことであった。西行がことさらに心に掛けたのは、崇徳上皇の御身の上だった。崇徳院が讃岐の配所で崩じたのは、長寛二年(1164)八月のこと。このころ西行自身は、崇徳院への深い追悼の念を持ちつつ、大峯修行を決行し、
■四国への旅西行が讃岐(四国の香川県)へ旅をしたのは、仁安三年(1168)、五十一歳の時であった。目的は、まず讃岐で崩御した崇徳上皇の御墓に詣でることであった。
■入滅す西行は、うらうらとした気持ちで死にたいと願って生きてきた。少しでも心に濁りがあるとそれは叶わない。いまや年を重ね、
西行法師終えんの地として知られる弘川寺は、役行者の開基でその自作といわれる薬師如来像を本尊として、天武朝期に勅願寺となり行基や空海もここで修行したと伝えられています。














