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2010年8月18日水曜日

18日・和歌浦その3.「奠供山(てんぐやま)」と「不老橋」

 玉津島神社の本殿の右側に「奠供山(てんぐやま)」への登山の案内板が設置されていて、位置的には 玉津島神社の背後の山である。奠供山の名前は、天皇の祭事に用いられた祭具(奠供)よるとのこと。標高わずか約34mの岩山である。






 














 
神亀元年(724年)即位した聖武天皇は、同年10月に和歌浦へ行幸して14日間滞在した際、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る、故に弱浜(わかはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)と為せ、宜しくし守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ、春秋二時官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せよ」という詔を発した。

 聖武天皇は和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じたのである。『紀伊続風土記』では「神亀元年御幸の時、登山望海此間最好と、詔し給ふは即此山なり」として、奠供山を詔が発せられた場所であるとしている。












玉津島 見れども飽かす いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため  藤原卿

 天平神護元年(765年)10月聖武天皇のあとを継いだ称徳天皇行幸の際には、南浜に「望海楼」が営まれ7日間滞在したとされているが、江戸時代後期の儒学者仁井田好古は「望海楼」を奠供山の南麓の市町にあったものとし、好古の撰文になる望海楼遺址碑(和歌山市指定文化財)にはそのことが刻まれている。

 この奠供山周辺はその後妹背山を除いて陸化してしまったが、聖武天皇が奠供山山頂から臨まれた和歌浦一体は今とは異なる景観だったであろうことが想像できる。付近にはいにしえ、玉津島と呼ばれる小嶋が連なり、片男波と呼ばれる干潟ももっと広くて入江奥深くまで入り組んでいたことと推測できる。

 和歌浦東側の入り江近くに架かるアーチ型の石橋「不老橋」は、片男波の松原にあった東照宮御旅所の移築に際し、嘉永4年(1851)紀州徳川家10代藩主・治宝(はるとみ)の命によって架けられた。
この橋は家康を祀る東照宮の例大祭・和歌祭の時に、徳川家や東照宮の人びとが御旅所に向かうための「御成り橋」として使用された。 


 片男波海岸も人工の海水浴場として天然の砂嘴の趣が失わたが、それでも和歌浦・和歌浦湾の景観は見応えがある。

 この片男波の人工浜化と海水浴場の整備によって史跡「不老橋」の東に新しく「あしべ橋」と道路が造られ、これが和歌浦の景観を害するとして裁判沙汰の及んだが、原告側が敗訴、現在の道路状況となった。


 





 



 話が変わるが、聖武天皇を継いだ称徳天皇行幸のとき、奠供山南麓に行宮「望海楼」であるが、明治時代後期に旅館「望海楼」がその地の建設された。そこには明治43年客引きのために日本で最初の鉄骨製エレベーターが建設されている。高さ約30mであった。今では景観問題でとても建設できないであろうが・・・
 明治44年、和歌山での講演のため夏目漱石が来和、和歌浦「望海楼」に宿泊して句を詠み、このエレベーターに乗り、その著書『行人』で和歌浦につい次のように述べている。いまから100年前の出来事である。
 
《手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂まで物数奇(ものずき)な人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。(中略)
 二人は浴衣がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人這入(はい)ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶しい感じを起した。
「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語(ささや)いた。
「そうですね」と自分が答えた。
「人間もこの通りだ」(中略)
 牢屋に似た箱の上りつめた頂点は、小さい石山の天辺(てっぺん)であった。そのところどころに背の低い松が噛(かじ)りつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼に嬉しく映った》(「行人」)

 このエレベーターも、大正5年(1916)には、第一次世界大戦の影響で解体され、軍用船へと変わったのでした。

なお、和歌浦滞在中夏目漱石は
  「涼しさや 蚊帳の中より 和歌の浦」
     「四国路の 方へなだれる 雲の峰」、
の2句を遺している。

2 件のコメント:

  1. しげやんこんばんは~^^
    和歌浦は意外と知っていても行かないところが多いです!
    また時間が出来たら行ってみたいです^^
    atiti子供の頃和歌浦の展望台があって登った事があります
    回転していたような記憶があります^^
    今日も暑い一日でしたね^^

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  2. atitiさん
    和歌浦は飛鳥の都があった時代や平城京の奈良時代には都人
    の憧れの場所だったに違いありません。紀の川を下ってきて
    和歌浦に着き海が見えた時の喜びは歌にもある通り”包み
    持ち帰りたい”気持ちにさせたそれは素晴らしいものでした

    和歌浦の価値はこれら古代、中世、近世を通じて文人、墨客
    に愛されてきた長い歴史を通してはじめて蘇って来ます。
    いままで行政が保存にあまり力を入れてこなかったですが
    今回の国の名勝指定を機会に力を入れるでしょう。

    新和歌浦は大正時代に開発されました。旅館・ホテル街、遊園地として章魚頭姿山にロープウエーが造られ、遊園地が拵えられ回転展望台も設置されましたが、和歌浦の観光地としての魅力低下と共に客数の減少で設備の老朽化もあり廃止さ
    れてしまいました。

    (旧)和歌浦の史跡保存とともに新和歌浦、雑賀崎をどうして行くかが大きな課題でしょう。

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