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2019年2月17日日曜日

堺屋太一さん逝去!堺屋さんが記者に託した日本人への伝言「“低欲社会”に必要なのは楽しい国造り」






堺屋太一さんは時代を鮮やかに切り取ることができる稀有な存在だった(撮影・長谷川唯) 
 それにしても惜しい方が亡くなった。わたしとは、ほぼ同年代で彼の本をムサボルようにして読んだ記憶がわたしの脳裏に明確に残っている。
この記事を書いた記者が、いみじくも書いているようにわたしにとっても教えられ、共感でき、尊敬ができる同年代の著名人の一人だった。彼のご兄弟はいずれも頭脳明晰、お兄さんは、確か大蔵省出身で一時地元の「紀陽銀行」に出向し、役員を勤められていたとも聞く。今でも私の書庫には彼の手になる著書が数冊あり、半世紀を経た今でも「昔物語」とは思われない。彼が存命ならば「いまの世のなか、とりわけ政治の在り方」などをじかにお伺いしたいものだ、とまじめに思っている。
このブログを記した著者によれば・・・
「 堺屋太一さんは時代を鮮やかに切り取ることができる稀有な存在「」だった方だった。万博プロデューサー、「団塊の世代」の名付け親、通産官僚、作家、エコノミスト、経済企画庁長官――。多彩な才能で知られた堺屋太一=本名・池口小太郎=さんが亡くなり、17日、葬儀・告別式が都内でしめやかに営まれた。83歳だった。
 
 発想のスケールが豪快で、時代や世相を大局観で切り取ることができる人だった。
 1997(平成9)年には朝日新聞に近未来小説『平成三十年』を連載。20年後の沈滞する日本の姿を統計やデータから描き出し、「何もしなかった日本」に警鐘を鳴らした。

 堺屋さんは本誌でも2014年夏から15年秋にかけて、連載「堺屋太一が見た 戦後ニッポン70年」を執筆した。傘寿(80歳)にあわせて、人生を振り返る書き下ろし。当初約50回の予定だったが、興が乗って、64回まで続いた。連載に連動した番外コラムも積極的で、30回も書いてくれた。

 わたしが、週刊朝日副編集長として打ち合わせや取材のほか、連載後も、堺屋さんの事務所をよく訪ねた。1時間から2時間ほど、政治・経済から国際政治、地方政治や大阪のこと、そして世の流行まで、縦横無尽に堺屋節は続いた。

 いつも決まって「どう思います?」。若輩者の意見にも、じっと耳を傾ける聞き上手だった。
 高校時代にボクシング部に在籍して、女子プロレス好き。ヒール役を自任する尾崎魔弓さんのファンで、月刊誌で対談もしている。取材の息抜きに、破顔一笑して女子プロレスの話になることもしばしばだ。

 1970(昭和45)年の大阪万博の開催は、堺屋さんが34歳のころ。企画から運営準備まで6年近くかかわった。総入場者数はのべ6422万人。通産官僚でありながら、万博の名プロデューサーとして知られた。
 
 ペンネームの堺屋太一は、安土桃山時代の先祖の大阪商人から取ったと聞いた。石油が枯渇した日本を描いた『油断!』、戦後のベビーブーム世代を、地層の塊という地学用語でたとえた『団塊の世代』などがベストセラーに。

 大河ドラマの原作となった『峠の群像』『秀吉』など歴史小説も得意で、流行作家として予測小説、歴史物、文明評論の世界を自由に行き来した。

 意外だったのは、内閣官房参与で政権の「ご意見番」なのに、東京五輪のサマータイム導入には大反対だったことだ。昨秋に堺屋さんを訪ねると、「五輪のマラソンのたった1日のことが動機です。動機不純で、定着するはずがない。体協(五輪組織委員会)の人たちの金集めの一環ですよ」 そう怒っていた。戦後のサマータイムが導入されたのは1948年。堺屋さんが学校に通っていた頃だが、「記憶には全くないです。いつも学校に遅刻していったから」アハハと笑った。
 
 このとき聞いたのが、小説をなぞったような、現実の「平成30年」へのぼやきだ。
「日本人の人生は、東京一極集中で画一的な型にはめる規格化が進みました。正社員優遇、小住宅持ち家主義。キャバレーもなくなり、カジノをつくるといえば『依存症が』と反対される。生活は貧しく、均一化しましたね」
 
 いまが明治日本、戦後日本に続く大転換期だと力説した。
「日本に欠けているのは、楽しい国造りです。楽しい国は、多様性と意外性がある。安全で清潔な国なのにそれが欠けている。欲がない、夢もない、やる気がない、低欲社会ですよ。日本の人口は減少する。楽しい日本をどうするか。これを考えるしかない。日本を楽しい社会にするべきです」
 
 編集者として堺屋さんと40年つきあった豊田利男さんによると、2025年の大阪・関西万博が決まった昨年11月は、大喜びだった。
「万博をやるまで生きていたい。大きな万博を2度経験するやつはそうはいないぞ」
 そう語っていたのに、年明けに体調を崩して入院、容体が急変した。
 堺屋さんは、改元をはさむゴールデンウィークをめざして、本を執筆中だった。遺作となる本の仮タイトルは、堺屋さんが名付けた。『三度目の日本』(祥伝社)。これはわれわれ日本人への伝言だろう。 堺屋先生、ありがとうございました。
(朝日新聞オピニオン編集部次長・金子桂一)※週刊朝日 2019年3月1日号

無断転載お許しください。堺屋先生は「仰ぎ見る偉大なる同期の桜」、本欄を執筆された金子先生にも厚く御礼申し上げます。

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