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2013年6月19日水曜日

信州松代藩財政再建の立役者」 ~恩田木工~ (その3)

「信州松代藩財政再建の立役者」 ~恩田木工~ (その3)



恩田木工
信州松代藩家老・恩田木工(おんだもく)が、疲弊した藩政の立て直しに着手したのは江戸中期の宝暦7年(1757年)。
 
木工の政治手法は、人間の相互信頼の回復、誠実の追求であり、意識改革であった。
 
当時、財政再建といえば全国いずれの藩でも倹約と増税。松代藩も藩士の給与半減(半知借上)が常態化し、農民には翌年、翌々年の年貢まで前納させるほどだった。
 
しかし藩重役の無策に加え汚職がまん延するなかでの重税は、為政者への不信と不満を鬱積(うっせき)させるだけだ。
 
松代藩では藩士足軽の出勤拒否(今でいうストライキ)という前代未聞の騒動や一揆が頻発した。木工が藩政改革を命じられ、勝手方御用兼帯(財政統括職)に就いたのは、藩全体がそうした無気力なえん世気分に覆われた時期であった。
 
政治の要諦は「民、信なくば立たず!」、よって、まずは「隗より始めよ!」である。
木工は身内を集め「今後、自分はいっさい虚言を吐かない。食事は一汁一菜、衣服は新調せず木綿とする。妻とは離婚し、子供は勘当、雇い人は解雇、親戚とも縁を切る」と宣言。
 
「家族や親戚の者が虚言したり、ぜいたくな暮らしをしていては木工も同じだと思われる。これでは改革はできない、だから義絶する」と言い渡した(『日暮硯』)。領民に耐乏生活を強いる立場にある者は、率先して身をつつしまなければならない。役目が果たせなければ切腹するほかない。「おまえ達にもその覚悟があるか」と問うたのだ。家族ら得心し、今後は木工に倣って質素倹約を誓った。
 
次に藩士の半知借上をやめてヤル気を引きだし、会計制度の整備と財政帳簿の管理と倹約を徹底させ、不正は厳しく処断した。領民には、税の前納の廃止と滞納分を免除する半面、先納分は返還せず、以後、月賦納入とし滞納は許さないことなど定めた。木工は、それらを一方的に告知したのではない。

領民と直接対話し、諄々(じゅんじゅん)と説きながら、合意を積み重ねていったのである。
民衆は為政者の人間性や力量を直観的に、あるいは本能的に見抜く。そこに不潔不浄を嗅ぎとれば拒絶し、本気と覚悟を読み取れば信頼し追随する。

木工が指揮した藩政改革は、41歳から宝暦12年(1762年)正月に46歳で急死するまでの実質わずか4年。その間、財政の劇的な改善はなかったが、木工が拓いた道筋は明和3年(1766年)ごろから、再建の兆しを表わし始めたのだった。
 
同時代の松代藩士・小松成章は「恩田木工は近世の賢臣というべし。上を敬い下を恵みて、仁徳深かかりければ、一人もこの人を悪(あし)ざまにいう者なし」と記し、木工が重病にかかったと知れば「国民(くにたみ)歎きわずらい、我も我もとつどい集まり日待(ひまち*2)という事をして本復を祈りける」と伝えている。
 
民衆は、恩田木工に清潔と誠実を確信し、藩政改革に手を添えたのである。
信州松代藩財政再建の立役者、恩田木工の仁徳深い政治手法は、今のBizスタイルにおいても通用する手法ではないだろうか。
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この恩田杢の思想と同じことを,東北の地「米沢」で行った名君がいる。「上杉米沢藩主]」・上杉鷹山その人である。「上杉藩」については、越後120万石から出発し、「関ヶ原」の戦い豊臣方として敗れてから、徳川家康の徳川の支配に時代に入ると、相継ぐ「国替え」や「減石」等「上杉藩」の石高収入)は120万石から最終30万石へと減封、これに対して家臣団は昔のままを維持してきたため収入は大幅減少なにに、家臣団は減らずよって支出は減らずに、慢性赤字の状態が長らく続く。つまり「入るを図って、出るを制する」ことが行わレなかったからである。

なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり”

みなさんは、この言葉を一度は耳にされたことが,おありであろう!
これは、上杉鷹山が,息子に残した家訓である。さらに「伝国の辞」というのがあって、これは「藩を経営する」立場から書かれた「経営」の書で、今でも「経営の教え」として、上杉鷹山の遺した事績はいまの世にも語り継がれている。


それを見事に建て直したのが上杉鷹山その人である。江戸時代の「財政再建」のモデルとして、この二人はいつの世も採り上げられるが項を改めて、この上杉鷹山に治績を次に採り上げることとしたい!
                                       (上杉家・上杉鷹山へ続く)                

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