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2011年2月5日土曜日

5日・「立春」の陽気に誘われて漆器の街・「黒江」散策


 昨4日は「立春」、1月末の寒波とは打って変わって、気温13.4度で風もなく立春の日に相応しいポカポカ陽気、そこで2月1日から開催されている「紀州海南ひなめぐり」の3会場のうち、家から最も近い紀州漆器の街「黒江」を家内と連れ立って見て回った。

 黒江はご存知「紀州漆器の郷」、その中にも雛飾りを行っているポイントが数ヶ所ある。
クリックデ拡大します・黒江」散策マップ

「黒江ぬりもの館」


「池庄漆器店」



黒江/川端通り
 
「黒牛茶屋」


「器楽や」



「うるわし館」玄関
 

「うるわし館」
尾崎家長屋門
 今回は「黒江」に街の「ひなめぐり」に絞っての見物だけに、ゆっくりと時間を懸けて見て回った。
 黒江は、わたしが生まれ育った街だけに、隅から隅まで知り尽くしており、わたしが生まれ育った「尾崎家本家」が所在する。
 今回は本家には寄らずにもっぱら「ひなめぐり」に時間を費やした。

「うるわし館内雛飾り」

漆器「紀州雛」
名手家雛飾り
名手家雛飾り説明文

「「うるわし館・根来塗り」

「うるわし館・ジャンボ夫婦雛」

「漆器「紀州雛」
「黒江ぬりもの館・昔のひな道具}





上記4点は「黒江ぬりもの館」展示

上記2点は「黒牛茶屋。雛飾り」
地元銀行ショーウインドウに飾られた「雛人形」

「黒江」は毎年「紀州漆器まつり」が川端通りで11月第二土曜・日曜日に開催され、数万人の見物客を集めるが、こと漆器の町「黒江」地区だけでなく低迷する地場産業に歯止めをかけ、海南市全体を「町おこし」により活性化しようとする初の試みだけに、地区毎のコラボの連携がどうかと案じられたが、そこは海南市全体を盛り上げ活性化を図ろうとする前を見据えた熱意が感じられた。

 漆器類は、安価な磁気製品と異なり普段の手入れに時間をとられる。しかも、いまのご時世よいものには中々手が出ないし、手入がかかる。

 しかし、漆の器は一種独特の”うるおい”をもたらす。わたしは、日常生活のなかにも”彩り”をもとめ、はやいハナシ大好きなお酒をお気に入りの徳利とぐい呑みをとっ替え引き替え、その日の気分で器を替えている。
 
 最近では漆の器でフランス料理や西洋料理を楽しもうという機会が増えているよう耳にする。これは漆器の器を使ってもらえるよう意図的に料理と器のコラボを企画されているようだ。
 何もしないで、手を拱いていては、いよいよ雪ダルマが坂道を転がり落ちる凋落ぶりに拍車をかけるだけであろう。やはり温故の上に立ち創新を創りださねば行けない。

 そういうコトも入れて、今回の企画が芽を出し立派に実を付けて欲しい。
地元に属する縁者として、ぜひそうであって欲しいと願うばかりである!頑張れ!
 
 今日、明日の土曜日、日曜日の混雑を避けて、春の陽気に誘われたこともあるが、この両日は大勢の観光客が訪れるに違いない。
 まずは、何ごとも自らに足で最初の第一歩を踏み出すことが大切であろう!
 
 漆器も街の中心である「黒江・川端通り」界隈を地図とスナップ寫眞により、上記の通り紹介させていただいた。
 
 そして次なる機会を設け、他の2会場にもできるだけ早い機会を作り、ルポする予定にしていますので、ご期待ください。

6 件のコメント:

  1. 立派な御殿飾り雛が残ってるんですね!
    根来の写真もありがとうございます。
    しげやんさんは、すごいお家で生まれ育たれたんですね。
    写真を拝見して、あらためて思いました。
    他の2ヶ所のお雛様も楽しみです♪

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  2. 根来塗り塗り、こちらの、デパートでも見かけます。たしか母が、お茶入れを持っていたかもを。見てみよう。ワタシも漆器の手触りが好きで、そう高いものではないけれど山中塗りのおわんを普段に使っています。

    お雛さま、関東のとは、ちょっと雰囲気が違いますね。お内裏さまがいらっしゃる御殿は、こちらでは見かけないように思います。

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  3. megさん・・・長いので2分割で書きます

    わたしの家の遠い祖先は、古代大和春日の地を支配していた大和の古代豪族和邇氏に連なる同族の春日小野氏と云われています。
    昨年は「平城京遷都1300年祭」」で、奈良は活況を呈しましたが、この時代以降に新たに興った新興の藤原氏に春日の地を乗っ取られ、和邇氏とその同族は没落または周辺の地へ移住したようです。
    紀州大野郷に地に和邇氏の祖神を祀る「春日神社」を勧請したとき、それを供奉して10家が紀州に移住してきた伝承があり、その1家、尾崎家です。
    初めは10家で「春日神社」の神職を年交代で務めていたようですが、次第に土豪化し、中世は紀伊国守護畠山氏に仕え、戦国時代を経て、駿河国から紀州徳川藩主 になった時代には紀州の土豪たちは徳川藩の懐柔策により駿河国から移封された藩主に付き添って紀州に来た藩の重臣の下に組み込まれて、勢力を失ってしまいました。

    わたしの祖先も、徳川藩に地方役人として仕え、勢州大杉山材木奉行や和歌山城下の周辺の郡代官を努めたりしました。
    享保の頃(1730年)大野郷の地から西へ3kmの「黒江」に移り住み、今から270年位前に90坪の家を建てたことが建築図面とともに記録が遺されています。
    わたしの本家には中世以来の古文書が数百点あり、幕末の「紀伊続風土記」「和歌山県史」、「海南市史」等々に記録されています。
    megさん・・・長いので2分割で書きます

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  4. megさん・・・続きです

    この長屋門もその当時の門構えですが、老朽化等で大分手入れがされています。長屋門の基礎は青石積みの石垣の上に立てられていましたが、石垣の補強にためにコンクリートで
    補強したので、門の前の石段に当時の姿が伺えると思います。
    座敷は家の歴史を示せるよう当時の姿でその他は昭和8年に大改築し、現在に至っています。座敷と主家、長屋門、それと蔵がもう一つ合わせて3つ「登録文化財」建築に指定されました。そういうことで座敷、長屋門は武家風建築です。
    わたしの親父は兄弟の末っ子でしたが、本家を相続し家業の漆器問屋を営んでいしたが、
    第二次大戦になり平治産業の漆器問屋から軍事産業経営に転換、昭和20年の爆撃により一夜にして1トン爆弾に被弾、跡形もなく吹っ飛んでしまいました。
    やがて終戦になり、元の漆器問屋に戻りましたが、親父は空襲で工場が爆撃されたショックが手伝い、比較的若くして商売から隠居し、別邸として建てていた現在の住まいに昭和25年引き越し、すぐ上の兄(伯父)の後を託し現在に至っています。
    家に保存されていた古文書数百点は平成13年和歌山県立文書館の手で、整理・整頓し「尾崎家文書目録」に編集され、一般公開されています。わたしも少しは古文書を解読できるよう古文書のくずし字を読めるよう勉強し、尾崎家文書の大部分を解読し、CDに保存しております。そういうことも手伝って「春日神社」が主催する「大野十番頭(われらが祖先ら)祭」開催のとき「海南市中世講座」の講師役を依頼され、太平記で有名な「大塔宮護良親王熊野落」」に大野郷「春日神社」に宮を一時匿い申し上げた講座の役を勤めるなど郷土の歴史にも頭を突っ込んでこんにちの至っています。

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  5. 玲小姐さん
    しばらくです。根来塗りはご存知「根来寺」で仏器・食器として黒の下地の漆の上に朱塗りの漆を掛け、使い込んでいるうちに種の漆の所々が剥げ、それが自然の景色を醸しだしたのが、そのように云われてきました。
    今では、人工的にこの状態にするよう、目のごく細かい砥石で朱塗りの部分を削り、人工的に創りだしています。
    製品としては、手間が掛かるので値段も相当します。
    自然にできた景色はいいですね!重みが違います。
    このブログでも以前「根来塗り作家の作品展」の様子をアップしましたので、そちらも合わせてご覧ください。
    日付とタイトルを調べ、下に書いておきますので、それをガイドにして是非ご覧ください。

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  6. 玲小姐さん
    2010年12月17日金曜日
    12月18日・生きるーその力の源は?ーある漆芸作家に学ぶ!「池ノ上曙山とその弟子たちの作品展」
    池ノ上曙山さんは根来寺から唯一「根来塗作家」を名乗ることを許されている方です。よろしく・・・!

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