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2010年11月29日月曜日

29日・「天野の里」巡り(その3)

世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』は「紀伊山路」 「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」からなり、三重、奈良、和歌山の三県にまたが古代から自然崇拝に根ざした神道(山岳信仰・修験道)、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教(真言密教)、多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場であり、熊野参詣道、高野山町石道、大峯奥駈道などの参詣道とともに広範囲にわたって極めて良好に遺存している世界的にも比類のない事例であります。 
また、それらが今も連綿と民衆の中に息づいている点においても極めて貴重な資産であります。    

 そこで「天野の里」も「丹生都比売神社」、高野山への「町石道」も神を崇める信心者、仏教信者だけでなく修験者(山伏)も行き交う道だったに相違ない。 いまにそうした遺跡が古くから数多く遺されていることからもうなずけよう。 丹生都比売神社の境内の東の一隅には「大峰山修験道行者碑群」「真言曼荼羅板碑」そして「脇の宿石厨子」が遺されているのはこれらの証といえよう。

◎『大峯修験者の碑・光明真言曼荼羅板碑・脇ノ宿厨子
・「大峯修験者の碑」
 高い石柱の四基は、大峯修験者(山伏)が大峯入峯に 際し建てた碑で県の文化財指定されています。
大峰修験者ゆかりの碑。100名余りの修験者と共に大峰に入るたびに1基ずつ建てられました。
 鎌倉時代全国的に盛んとなった修験道(山伏)の中で、高野山の修験者によって、200人に及ぶ人々が参加し、大峰修行して建立されたものと言われています。 丹生都比売神社輪橋(太鼓橋)のそばにあったものが、大正年間に、この地に移されたものです。
・「光明真言曼荼羅板碑」 
 





 





光明真言曼荼羅碑(こうみょうしんごんまんだらひ)といい1662年に建立、時計の針の方向に梵字で光明真言が 刻まれています。
・「脇ノ宿石厨子」



 内部には、葛城修験の御本尊「役の行者」の石像が 安置されています。




◎「横笛の恋塚・横笛の墓」
 平重盛(たいらのしげもり)に仕える若侍・斎藤時頼(さいとうときより)(滝口入道(たきぐちにゅうどう))と建礼門院(けんれいもんいん)の官女・横笛(よこぶえ)との悲恋物語は有名です。
 庵のそばに葬られたという塚、それが「横笛の恋塚」です。
その後、さまざまな女性から供養されたのか、古びた五輪が積み重ねられ苔にむした「墓」が建っています。


 
 







 横笛との恋に悩んだ斉藤時頼はその思慕を断ちきるべく仏門に入り治承三年(1179年)高野山に入った時頼のあとを慕い、横笛も黒髪をおろして法華寺(奈良)に入って尼となりました。
 のち高野山に近い天野の里に庵を結んだのでしょう。
横笛が尼になったことを知った滝口入道はこんな歌を贈りました。

  そる(剃る)までは 恨みしかども あづさ弓 まことの道に 入るぞうれしき

  そる(剃る)とても 何か恨みむ あづさ弓 引きとどむべき 心ならねば


下の歌が横笛の返歌です。
 二人は現実的には結ばれることはありませんでしたが、魂は仏道を通してしっかりと通い合っていたといえます。間もなく横笛は亡くなりますがきっと安らかな死であったことでしょう。滝口入道が二十歳、横笛十七歳の時でありました。
 横笛の、病のとこに、滝口入道から送られてきた和歌は、
<滝口入道からの歌>         
          
  高野山(たかのやま) 名をだに知らで すぎぬべし                                      憂(う)きをよそなる 我身なりせば                                                                                <横笛の返歌>

  やよや君(きみ) 死すれば登る 高野山(たかのやま)
           恋も菩提(ぼだい)の 種(たね)とこそなれ       

 
 この和歌のとおりに亡くなった横笛は、一羽のうぐいすとなって高野山大円院の梅の木に停まり、しばらくうつくしい声でさえずっていた。やがてよわよわしく二、三度はばたくと、庭の井戸に落ちて水にしずんだ。 はっと夢から覚めた入道は、井戸からうぐいすをすくい上げ、変わりはてた横笛の姿に無念の涙をながした滝口入道、滝口入道が修行した高野山大円院には「横笛」に関わる遺跡が遺されています。

◎「貧者の一灯(お照の墓)」

 高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。
その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
 

 





 


お照は、槇尾山のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。
 後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています


◎「有王丸の墓(僧・俊寛の弟子)」
 天野社より、八町坂を行くこと300m、道のそばに数基の碑が並んでいます。
桜の木の下に静かに眠るのは、有王丸と言われています。
 京都・鹿ヶ谷の山荘での平清盛打倒の謀議が破れて鬼界ヶ島(きがいがしま)に流された僧俊寛(しゅんかん)の遺骨を、弟子の有王丸(ありおうまる)が治承元年(1177年)、高野山に納めました。その後、法師となって主の菩提を弔いました。
 俊寛の娘も、12歳で天野の別所で尼となったことが「源平盛衰記」に記されています。
 「姫君出家の志ありと仰せければ、有王鬼角して高野のふもと、あまのの別所という山寺へ具し奉り出家し給ひにけり……云々」、
 「歌舞伎」の世界でも、とりわけ有名な『俊寛』は松本幸四郎や中村勘三郎によって演じられ、ことに勘三郎は「俊寛」が流罪で終焉の地「鬼界ヶ島」での現地公演に情熱を傾けておられます。

 流罪の罪を赦されて鬼界ヶ島を離れる最後の舟に乗ることを許されず、ひとり島に取り残された俊寛が舟と別れを告げ一人寂しく舟を見送る俊寛の形相には鬼気迫るものがあり、最高の見せ場となっています。

 僧・俊寛は元々真言宗の僧侶であっただけに、その弟子「有王丸」は師の遺骨を分骨して総本山である高野山に納骨しようと遠路はるばるこの地を訪ね天野の里に庵を結び主の菩提を弔い自身もこの地が終焉の場所になったのでしょうか?
 歌舞伎の世界に疎いわたしですので、この物語はmegさんに教えを乞うことにしたいです。
 「天野の里」については、この郷は熊野古道と同じく古来より有名無名の史跡が数多く遺され、暖かい村人の信仰の心に支えられ、こんにちに及んでいます。まだまだ紹介する処がありますが、今月中に終わりたく最後に30日の「天野の里」の雑録でひとまず幕を閉じることにいたします。ここまで駆け足で来ましたが、明日もどうぞご覧下さい。

4 件のコメント:

  1. しげやん^^こんばんは~
    大峰山はatitiの知人が今まで登りました!
    大分しんどいでしょうね~
    しげやんも昔登ったのではありませんか??

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  2. atitiさん
    昔々のことですが、一度だけ登りました。大峰山は修験者が
    修行する山ですので、普通は山伏の姿で講を組み登ります。
    修験者の修験は非常に厳しくていまでも「千日回峰」とか
    いって千日をかけて峰々を駆け巡る厳しい行があり、これ
    を達成すればみんなから崇められます。
    断崖絶壁から鎖で繋がれた身体を突き出され「親に孝行するか?」と云われ、「ハイ」と云わないと引き上げてもらえま
    せん。熊野古道ではいまでも修験者の姿をよく見かけます。
    護摩をたいて祈りながら迴向します。

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  3. こんばんは。
    歌舞伎の世界では、芝居がおもしろいようにと随分脚色されているのではないでしょうか。
    鬼界ヶ島の場所も、硫黄島、喜界島、長崎県の伊王島と諸説あるようですね。
    有王丸さんは、どの島に行ったんでしょう♪

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  4. megさん
    そのようですね!歌舞伎は江戸時代には大衆受けするよう、
    大げさで面白おかしくメリハリあるよう脚色されたことで
    しょう。有王丸は説明板にあるように鬼界ヶ島となってい
    ます。この当時流刑地といえばおそらく場所は限られてい
    たと思うんですが、それぞれの島には俊寛の銅像が建って
    いるようです。多分義経伝説と同じでそれぞれ名所競争の
    有様のようです。
    蛇足になりますが、MEGさんのコメントが書かれないなあ
    と?の思っていましたが、きょうスパム扱いになっている
    のを見つけ解除しました。恐縮してます。

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