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2010年11月15日月曜日

15日・今日は何の日「七五三」に「坂本龍馬暗殺の日」

 きょう11月15日は俗にいう「七五三」小さいお子さんをもつご家庭はカレンダーの都合で例年10月下旬から多くなって、11月上旬がお参りのピークになります。

 古来、七五三は3歳を「髪置き」、5歳を「袴着」、7歳を「帯解き」の祝いといい、大事な人生儀礼とされてきました。単に、お子様に綺麗な衣装を着せて写真を撮るだけではなく、お子さんが神さまからお守りいただけますよう、ご家族でお参りするのが一般的なようです。

「七五三」とは、子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力です。

 こうしてみると「七五三」のお祝いの行事は江戸時代に入ってからで、330年ぐらいしか経っていなかったのですね!いささか驚きです。

 それと、もう一ついま世の中で一大ブームを巻き起こしている「坂本龍馬」、NHKテレビ大河ドラマ「龍馬伝」も終焉に近づき21日(日)「大政奉還」28日(日)「龍馬死す」で幕を閉じますが、実はきょう11月15日が坂本龍馬が暗殺された「命日」に当たります。

 とは云っても時は幕末の慶応3(1867)年11月15日に京都河原町近江屋において暗殺された事件の日で、きょう正午NHKニュースでも「坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺の命日の供養」が行われたとの報道がありました。世のなかいまだ「龍馬ブーム」なんですね!
  









 



(左・坂本龍馬 右・中岡慎太郎)
 
 当時は旧暦で、これを今年の新暦に当てはめると12月20日になります。「龍馬暗殺」の犯人説は諸説あり、京都見廻組(幕府京都守護職付属の警備隊)の犯行が定説になってはいますが、いまでも竜馬暗殺の犯人説には数説あって、NHK大河ドラマ「龍馬伝」ではどの説を採るのか?どういう描き方になるのか興味が尽きない処です。

 ①京都見廻組説  ②新選組犯行説  ③紀州藩士報復説  ④イギリス陰謀説等々諸説あるが、このうち最有力視されているのは①見廻組の佐々木只三郎らが実行犯とする説。裏付け証言の存在する唯一の説であり、通説となっている。これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。
                  (佐々木只三郎)
1870(明治3)年、見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し、囚われていたところ、新選組隊士であった大石鍬次郎や横倉甚五郎らの犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けた際、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となった。今井は刑に服しており、事実上、近江屋事件は解決していると言える。
 誰が見廻組へ指図をしたかについても論じられるが、当時の政局は大政奉還に反対する佐幕派の譜代諸侯も多く、京都守護職の任に就いていた会津藩内においても松平容保候をはじめとする大政奉還賛成派と反対派がいたため、見廻組が京都守護職の傘下であっても、必ずしも会津藩から指図が下りたとは限らない。
勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。 また、佐々木只三郎の一存で見廻組を動かした可能性もある。

③の紀州藩士報復説は、前にもUPした紀州藩「明光丸」と龍馬率いる海援隊が乗り組む「いろは丸」沈没事件で紀州藩は莫大な賠償金を龍馬に取られた遺恨が龍馬暗殺の根拠とされたのですが、このとき犯人として付け狙われた紀州藩士三浦休太郎はのちに犯人でないことが判明しました。

 ところで、龍馬ブームにあやかってか否か、朝日新聞和歌山版で都合6回にわたって『龍馬外伝~紀州6話』が掲載されました。地元のわれわれが知らないところで意外と龍馬と紀州のかかわりが深かったことを改めて知りました。
 これらのうち①③④⑤はこのブログでも9月17日から30日に4回シリーズで採り上げてきたので、今回は「龍馬暗殺の真犯人」と思しき人物が、徳川御三家の一である紀州藩を頼って重傷の身体で紀州入りし、拒絶され紀三井寺のある寺院で死亡しそのお寺に墓がある記事⑥項の内容をご紹介し、きょう11月15日のブログ記事としたい。
【1】 4日間の和歌山滞在 (10/26) 龍馬が勝海舟のお供で紀州入り
【2】 敵討ち助けた「義きょう心」 (10/27)
【3】 元紀州藩主・将軍家茂 (10/28) 紀州藩主から14代将軍へ、海舟の神戸海軍操練所創建建白を即決する。公武合体のなか皇女「和宮」と婚姻、仲睦まじかったと云われている。幕府軍が長州征伐途中大阪城で逝去、英君と讃えられ若すぎる21歳での逝去は海舟をして逝去を悼み嘆かしめた。
【4】 愛された紀州の腕白者 (10/30) 龍馬の右腕であった元紀州藩士陸奥陽之助(宗光)
【5】 「いろは丸事件」 (11/01) 紀州藩「明光丸」と龍馬率いる「いろは丸」衝突事件
【6】 実行犯?紀三井寺で死す (11/02) 京都見廻組組頭 佐々木只三郎
 ◎ 謎を呼ぶ暗殺犯
 坂本龍馬を暗殺したのは、いったい誰なのか?。新選組の原田左之助、御陵衛士の伊東甲子太郎(かしたろう)一派、薩摩藩士の中村半次郎……。黒幕まで含めると、様々な名が取りざたされて、謎が謎を呼ぶ。最も有力とされる一人が和歌山市紀三井寺の地に眠る。




 










京都見廻組の佐々木只三郎の墓。瀧本院ゆかりの人が手を合わせた=和歌山市紀三井寺

 佐々木只三郎(たださぶろう)。紀三井寺の前田泰道・副住職(52)によると、会津藩士の三男で、27、28歳ごろ、江戸に出て遠縁の旗本の養子に入った。
 武術に優れ、特に「小太刀を使わせたら日本一」と評判に。旗本の子弟を集めた京都見廻組を指揮する与頭(くみがしら)に抜擢(ばってき)、新選組とともに志士に恐れられた。「和歌も学び、文武両道の才人でした」。

 一方の龍馬。ろうそくの炎が最後に輝きを増すかのように、薩長同盟を実らせ、大政奉還を成し遂げた。命の火を吹き消されたのは慶応3(1867)年11月15日(旧暦)。
 数人の男に京都・近江屋で襲われた。犯人は当初わからなかったが、明治以後、生き残った見廻組隊士が龍馬暗殺を告白。只三郎らが実行犯との見方が強まった。

 その只三郎も龍馬同様、新時代を目にすることはなかった。慶応4(1868)年1月3日、幕府軍と新政府軍が鳥羽伏見の戦いで激突した。只三郎は腰に銃弾を受けて負傷し、戸板に乗せられて紀州に落ちのびた。
 しかし、城下に入れず、運ばれたのは紀三井寺。塔頭、瀧本院だったといわれる。同院の稲塚正勝住職(65)は「紀州藩は徳川御三家の一つ。かくまってもらえると思ったが、官軍の目を恐れた藩から庇護(ひご)を受けることはできなかったらしい。仲間と紀三井寺の山内寺院や門前の民家に分宿したようです」と話す。只三郎は数日後、同院で息を引き取ったという。同院に残る記録では享年36歳。

 紀三井寺の急な階段を上り、さらに奥へ進むと瀧本院の墓所がある。墓碑には、「徳川家臣 佐々木只三郎源高城墓」と刻まれてあった。数十年前まで現地にあった本当の墓は、有志の手で福島県会津若松市へ移され、今残るのはレプリカだ。「毎年、お参りに訪れるのは只三郎直系の親族ぐらいでしょうか」と稲塚住職。
 龍馬と異なる立場ながら、動乱を懸命に生きた只三郎。「龍馬ブーム」の世の中、歴史の敗者の墓周辺は木漏れ日の中、ひっそりとしていた。

2 件のコメント:

  1. atiti2010年11月16日 8:45

    しげやん^^おはようございます^^
    以前高知に行った時に竜馬展開催していました
    NHKドラマで放送しているのでいまやブームですね^^
    今日は朝からいい天気ですね~

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  2. atitiさん
    お互いネタ探しに苦労しますね!
    ネタを泥棒ネコみたいに他所から引いてきて如何に編集する
    のも一苦労です。頭の体操も疲れますね!お互いさま!

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