ブログ アーカイブ

2010年9月21日火曜日

21日・紀州と坂本龍馬の関わり・その2「いろは丸」事件

 坂本龍馬と紀州の関わり・その2

 いま世のなかの「龍馬像」は多くは司馬遼太郎の大作「竜馬がゆく」からイメージされ定着しているが、この竜馬像に対し歴史家や小説家のなかには、これとは違った意見を述べたものも多い。
 
 そのなかに地元出身の直木賞作家でもっぱら剣豪小説・歴史物を執筆している津本陽氏は龍馬を大言壮語を弄し狡猾で悪賢い人物として描き(氏の「龍馬」「商人龍馬」「龍馬残像」等)これから述べる「いろは丸」事件でも紀州藩側から龍馬をあくどい金儲けのためあらゆる手段を弄する人物として扱っている。


 そこで、坂本龍馬率いる海援隊が伊予大洲藩から用船した「いろは丸」を瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突・沈没した「いろは丸」事件の概況と近年沈没した「いろは丸」から4回にわたって海底27mから引き上げられた残骸に龍馬が積荷と主張した400丁の最新の銃が一つもなく龍馬が紀州藩相手の交渉にウソ・ハッタリを云ったという新聞報道までもありました。

 これらからすると、世間で云われている「龍馬像」がある意味見直されなくては?
と紀州藩が多額の賠償金の支払いの応じたのか?このしばらくあとの11月に京都「近江屋」でおこった坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件があり、この多額の賠償金が果たして誰の手に渡ったのか、いろんな疑問が残る事件でもあります。

◎いろは丸事件の概要
 坂本龍馬率いる「海援隊」(土佐藩の後援を得、亀山社中を改組)が伊予・大洲藩より15日に付き500両で借り受けている借用船「いろは丸」と、紀州藩船「明光丸」が衝突、「いろは丸」が沈没した事件。
   (海援隊用船「いろは丸」と紀州藩軍艦「明光丸」衝突の図)
          (「いろは丸」)
      ({いろは丸」衝突および沈没の位置図)
 

 慶応3年4月15日、積荷を満載したいろは丸は、長崎を出港し馬関海峡から瀬戸内海を航海中の同月23日午後11時ごろ、同じく瀬戸内海を長崎に向けて航海中の明光丸と、讃岐の箱の岬沖で濃霧のため衝突。
160tのいろは丸は、880tの明光丸の船首を右舷に受けて浸水し、船首から沈みそうな状況に。
明光丸は90mほど後退した後、なぜか再び前進していろは丸の船腹に衝突。
龍馬は、沈没の危機を感じて乗組員を明光丸に乗り移らせる。
龍馬は明光丸船長の高柳楠之助にいろは丸の曳航を依頼するが拒絶され、沈没。
龍馬と高柳の合議のうえで明光丸は備後の鞆に入港し、長岡謙吉とともに今後の交渉に臨むが事件の解決まで出港を見合わせるようにとの依頼を、高柳は藩命を理由に拒絶。

 代案として龍馬はとりあえず1万両の用立てを求めたが、後日の交渉でこれが賠償金の一部であることを知った紀州側が拒否したため、交渉は難航。
 そこで長崎で正式の談判を行い、公論によって決着をつける以外にないということになり、隊士と共に鞆を出立し29日には下関、5月13日に長崎に到着し、長崎での交渉は15日から始められました。交渉には当初は海援隊と紀州藩との談判に終始していたが、途中からどうにも進展しない状況を察知した土佐藩の重役・後藤象二郎が加わり、事は土佐藩対紀州藩の事件に発展した。そして当時の我が国には、こうした事件の判例がなかった為、イギリス海軍の提督に、外国の事例に当てはめて公平に判断して貰おうと、そうした場の設定まで話は進んだ。しかし紀州藩が是を避けて、最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれた。茂田一次郎は土佐藩側に押されて、やがて自藩に勝ち目が無いことを覚り、薩摩藩の五代才助の周旋によって、遂に賠償金の支払いに同意したのである。
 
 この決着のうらには、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。つまり龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった、とする見方が多い。

★龍馬がとったいろは丸事件の交渉術(高知市・坂本龍馬記念館の見解)
●まず、航海日誌をお互いに持ち出すようにした。
●海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟でやるんだ!」と檄をとばし、航海日誌や談判記録の保全を再度命令。
●龍馬が家を借りている人に「家には誰も近づけんように」と見張りを付けた。
●京都の出版元に「万国公法」の印刷を依頼。
●紀州藩の船長らと交渉。(龍馬の言い分がもっともなので、船長は交渉の席に着きたくないので逃げ回っていた)
●土佐藩から後藤象二郎を呼び、交渉にあたった。龍馬も一緒に応戦した。
 さらに、後藤がうるさく責め立てたので紀州藩は薩摩藩の五代友厚に仲介を依頼。紀州藩は賠償を支払うことに同意。
●この間、龍馬は世論を味方につけるため長崎の花街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」という歌を流行らせた。これにより、長崎の人々は海援隊に「紀州をやっつけろ」などと応援に来たという。

※つまりこういう事をやったのです!
 ◎一戦交える臨戦態勢
 ◎世論操作と情報発信
 ◎身内の安全確保
 ◎筋を通した交渉
 ◎強力な応援体制の確保
 ◎交渉の結着点、結着対応を決める
とは、坂本龍馬を産んだ土佐の高知の「坂本龍馬記念館」の龍馬観。
--------------------------------
 これに対して「いろは丸」沈没の海底から都合4回にわたって潜水調査し引き上げられた残骸物の報道記事を併記します。

いろは丸事件、積み荷の銃は龍馬のはったり?(産経新聞・2008.4.12)
 広島県福山市の鞆の浦沖で幕末に、衝突事故により沈没した坂本龍馬率いる海援隊の商船「いろは丸」(160トン)とみられる船体の第4次調査で、海中から引き揚げられた遺物が11日、保存処理作業にあたっていた京都市埋蔵文化財研究所から福山市教委に返還された。

これまでの調査では、積み荷とされた銃の部品などは見つかっておらず「交渉を有利にするための龍馬のはったり」との見方も出ている。

 平成17年に行われた第4次調査では、船体後部から遺物を収集しており、船体前部で収集を行った昭和63~平成元年にかけての3回にわたる調査の結果とあわせて全体の遺物をほぼ網羅したことになる。

 今回、返還されたのは約220点で、ドアノブなどの内装品や船具、積み荷の水銀朱を入れた木箱、刀の柄などに用いられた鮫皮(エイの皮)を保管するための台座などのほか、履き込まれた革靴の靴底などが含まれている。

 紀州藩の軍艦「明光丸」(887トン)と衝突、沈没したいろは丸をめぐっては、龍馬が船体のほか、積み荷の最新式銃などの補償をめぐって紀州藩と交渉。巨額の賠償金の獲得に成功しているが、これまでの調査では銃の部品はまったく見つかっていない。

 このため、調査にあたった水中考古学研究所の吉崎伸理事(水中考古学)は「積み荷に銃があったとしたのは、補償交渉を有利に運ぶための龍馬のはったりだったのでは」と話している。

4 件のコメント:

  1. しげやん^^こんんちは~
    今日は朝から雨や雷でしかも停電もしましたね!
    家の中は寒くはないけど外は寒いです!

    返信削除
  2. しげやんさん
    お久しぶりです。
    ようやく涼しくなってきましたね♪
    食欲は戻ってきましたか?
    いろは丸のことを読ませていただいて、なんだか今の中国とのやりとりみたいだなって思いました。

    返信削除
  3. atitiさん
    ここ3.4日の間に日中の最高気温32-33度から今日なんかは
    22・23度と10度近うも下がりました。8月から10月に急に
    季節が移った感じです。気温の急変にatitiさんも体調管理
    に気をつけて下さい。しげやんも気を付けます。

    返信削除
  4. megさん
    尖閣列島の中国漁船の領海侵犯事件、今日になって急に
    処分保留のまま船長釈放報道に驚きましたが、政府の説明
    には釈然としません。検察の判断する範囲外の政治的な事柄を検察の判断とする政府の見解に大きな疑問を感じます。
    それにしても中国政府のトップを初め国を挙げての尖閣列島
    問題の日本への対抗策に強権的・高圧的な態度に中国の今後の日本への外交に怖ささえ感じます。
    尖閣列島領海侵犯問題は中国の尖閣列島の中国領土問題に
    エスカレートするのが必須と思われます。
    この問題は中国国内の民衆の不満を日本の尖閣列島問題の
    すり替えて日本に向けさすよう誘導したのではと思います。
    今後ますます恐ろしい国家となりそうです。怖いです。

    返信削除