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2010年9月30日木曜日

30日・紀州と坂本龍馬の関わり・その4.陸奥陽之助(宗光)

 今まで紀州と坂本龍馬の関わりについて述べてきましたが、勝海舟が開設した幕府の神戸海軍操練所以来坂本龍馬の長崎「亀山社中」「海援隊」で龍馬の片腕として行動を共にしてきた元紀州藩士陸奥陽之助(宗光)の事績に触れて「紀州と坂本龍馬の関わり」を終わることにしたい。
 
 地元和歌山県が選んだ「紀の国の先人たち」には陸奥宗光について以下のように顕彰しています。
 彼は坂本龍馬暗殺以後、明治新政府に出仕し、後年わが国の外交問題で輝かしい成果を挙げ「カミソリ大臣」と称された郷土が産んだ偉人の一人なのです。坂本龍馬との関係についてはウイキぺィディアから補足して書きます。

陸奥 宗光(むつ むねみつ)・弘化元年(1844)~明治30年(1897)・和歌山市生まれ・日本外交史に輝かしい功績を残した「カミソリ大臣」


 弘化元年(1844)、藩の勘定奉行、寺社奉行を務めた伊達宗広の六子として現在の和歌山市に生まれる。のちに姓を伊達から陸奥に改め、源二郎、陽之助、宗光と名乗った。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 安政5年(1858)、江戸に出て幕府の学問所で安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
 
 文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(18677年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

 明治維新後は、津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させ、兵庫県知事や地租改正局長などを務めたが、薩長藩閥政府のあり方に不満を持ち辞職の後、元老院議官となる。明治11年(1878)、西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与したとされ、禁獄5年の刑に処せられるが、山形監獄に収容された陸奥は獄中にも関わらず猛勉強し自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。この薩長藩閥政府に批判的な陸奥の思想は自らが紀州藩出身のほか、坂本龍馬からより広く大きな立場でモノをみる考え方を陸奥自身が身につけたものと思われる。明治16年(1883)赦免により出獄、2年余りのヨーロッパ留学を経て外務省に入省する。

 江戸幕府が諸外国と締結した条約は、種々の不平等な条件を強いられており、これらの改正は、近代国家としての地位を確立するための重要な外交課題であった。明治21年(1888)、駐米公使としてアメリカに赴任した陸奥は、同年11月メキシコとの間に、わが国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結。また、明治25年(1892)には第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、明治27年(1894)、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結に成功。これによって各国は英国にならい、次々と日本と改正条約を結ぶことになる。同年、日清戦争が勃発、翌28年に陸奥は伊藤首相とともに、下関で行われる清国との講和会議に出席し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させる日清講和条約の調印を成功させた。














   (左・外務省構内に建つ陸奥宗光像・右・和歌山城近くの岡公園に建つ陸奥宗光像)
 日本の近代化に辣腕を振るい、機略に富んだ資質から 「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光は、明治29年(1896)に病気療養のため大臣の職を辞し、その翌年53歳で亡くなった。
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陸奥宗光がわが国の紹介したベンサムの「功利主義」・・・「最大多数の最大幸福」について追記しておきます。
 ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。
 ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)をもたらすものであると論じた。

 「最大多数の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。

功利主義よりも公正重視
 菅総理が「最小不幸の社会を作る」と語ったことは、経済思想の点でみればベンサムの考え方と対置される。「大きな幸福を求めること」とは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を指し、そうした考え方を功利主義という。
 しかし、最大幸福の原則では、分配や公正の尺度が欠落しており、下手をすると特定集団の幸福を高めることを優先して、少数者の幸福が犠牲になることに配慮を欠く。20世紀アメリカを代表する政治哲学者ジョン・ロールズは功利主義とは別に、「最も不遇な人々の利益の最大化する」ことを“公正としての正義”とした。
 菅総理の「最小不幸の社会を作る」という見解は、このロールズ流の経済思想に重ねたものであろうが、国民に対する社会保障と消費税増税のあり方については正しい将来展望のもと慎重のうえにも慎重を期して取り組まれるよう切望する次第である

2 件のコメント:

  1. しげやん^^こんばんは~
    先日四国に出かけてきましたが高知ではさすが竜馬伝盛んでしたよ~^^
    今日は一日雨ですね^^

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  2. atitiさん
    9月は月初めの気温が33度位から月末には22度と10度
    も下がりウッスラ寒くなりました。
    土佐の高知まで足を伸ばされましたか。高知も太平洋に面して魚が豊富なところですから土佐の名物料理は食べられまし
    たか?サハチ料理・ドロメや酒盗、鯨の刺身など・・・
    いまは全国的に「龍馬ブーム」龍馬の生まれ故郷はさぞ人気
    化で大勢の観光客でしたでしょうね!

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