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2010年9月27日月曜日

27日・紀州と坂本龍馬の関わり・その3「龍馬暗殺」

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は昨夜から最終章に入り、いよいよクライマックスを迎えます。このなかで「いろは丸事件」は10月17日に放送予定で、ドラマではどういう風に描かれるのか興味あるところです。
 このドラマは「龍馬暗殺」で幕を閉じますが、この坂本龍馬・中岡慎太郎(土佐出身・陸援隊)暗殺事件は「近江屋事件」と呼ばれ、暗殺の犯人には諸説が入り乱れ、
 その一つに「いろは丸」沈没事件で多額の賠償金をとられた紀州藩の報復説まであります

 それは竜馬暗殺を紀州藩の仕業と思い込んだ元紀州藩士で海援隊士の陸奥陽之助ら海援隊士が紀州藩の三浦休太郎を襲った「天満屋事件」をおこしたが失敗に帰しています(慶応3・12・7)し、紀州藩犯人説は根拠が薄いと云われています。

 それでは、「坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件」=「近江屋事件」をウィキペディアから引用します。

「近江屋事件」
 近江屋跡近江屋事件(おうみやじけん)は、幕末の慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組実行犯説が定説となっています。

(経緯)
 龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。

 11月15日、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士で龍馬の従僕の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を知られてしまう。

 刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。
 





(左・坂本龍馬      右・中岡慎太郎)

 


 暗殺直後に真っ先に現場に着いたのは土佐藩の田中光顕、谷干城、毛利恭介、薩摩藩の吉井幸輔、海援隊隊士の白峰駿馬らである。
なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。


(右・近江屋二階暗殺現場再現図)






「 実行者は誰か ?」
 当初、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた。事実、大石は龍馬暗殺の罪で殺されている。また、明治になるまで新選組の仕業とされていたことや、池田屋事件などもあり、戊辰戦争においては新選組に対して徹底した粛清が行われている。特に谷干城は新選組犯行説を強力に信じており、近藤勇への厳罰を強く主張した。

 この事件に関しては見廻組実行説が学説として最も有力であるが、薩摩藩陰謀説をはじめとする数々の陰謀説が唱えられたり、小説などでの創作もさかんに行われている。 

「 京都見廻組実行説」
 幕府の命を受け京都市中を取り締まる見廻組の佐々木只三郎らが実行犯とする説。通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。
 1870(明治3)年、見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し取調べを受けた際に、龍馬暗殺について自供を行っている。今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が証言を行っている。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるほか、誰が佐々木に命令したのかについては解明されていない。

「 新選組犯行説」
 龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある(ただし、実際に斎藤が後世の創作のように左利きであったかどうかの問題もある)。

事件後、11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定した。現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。

「 紀州藩報復説」
 海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光・紀州脱藩藩士)は、いろは丸事件をめぐる紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)が海援隊隊士らに襲撃される天満屋事件が発生したが、失敗に終わった。その説の信用性は薄い。

「 薩摩藩陰謀説」
 西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側による陰謀だとする説。

松平春嶽や勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じた。西郷、大久保らは新政府のあり方について意見の異なる龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らすなど暗殺に関与したとする説。

 明治新政府の時代になってから、薩摩出身者によって新政府で役職を得た京都見廻組の剣客が数人おり、この例外の根拠として薩摩藩と一部の京都見廻組とのつながりが指摘される。

 この武力倒幕派による大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。しかし、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるとする指摘もある。

 テレビ・小説などではこの説を採用することが多く、これまで歴史学会多数派の主張とは異なり、一般では近年この説を支持する人が多い傾向にある。

「 イギリス陰謀説」
 武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体・ジャーディン・マセソン系のイギリス人・グラバー、外交官・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。加治将一らが主張しており、いわゆる「フリーメイソン陰謀論」に属する。





(京都・霊山護国神社の祀られている坂本龍馬(左)中岡慎太郎(右)の墓)

2 件のコメント:

  1. おはようございます♪
    京都東山の「霊山(りょうぜん)神社」は、明治維新の志士たちを葬ったところで、歴史的に「池田屋事件」としてしか知られていない事件も、ここに来ると一柱一柱墓石があり、その生きた証として犠牲者を葬った京都人の意気が感じられ、厳粛な思いになります。
    一番人気はなんと言っても坂本龍馬で、その墓前に手向けられるお供物は後をたちません。
    附属する「霊山歴史館」は、松下幸之助翁の肝煎りで作られ、維新の志士たちのいさおしを偲ぶ絶好の資料館となっています。
    知られざる京都の名所、まだの方は、ぜひ訪れてください。

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  2. EYASUKOさん
    北政所ゆかりの高台寺の奥にある勤王の志士や戦没者を
    祀る護国神社ですね。わたしは訪ねたことはないのですが、
    家に幕末の勤皇の志士で漢詩人の梁川星巌の漢詩の書があり
    かつて星厳のことを調べたときに、この神社の存在を知り
    ました。境内に「星厳梁川先生之碑」が建立されています。
    幕末の勤皇の志士としての位置づけからでしょうか。
    参考までに星厳のことを書いておきます。

    梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年
    7月10日) - 安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。のちに、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。

    人物
    美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに
    全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

    梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。
    妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。

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