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2010年9月17日金曜日

17日・紀州(和歌山)と坂本龍馬の関わりについて(その1)

 このブログは『温故創新』のキーワードを通して地元の話題を採り上げてきました。
9月に入り、少々お休みを頂いくのが半月にもなり、大変失礼しました。

 その間、政権与党である民主党の代表戦で菅総理と小沢前幹事長氏と党内実力者同士のガチンコ勝負の結果、国民の民意を背景にした菅総理の勝利となり、今夕にも菅改造内閣が発足する予定ですが、日本の国の内外とも幾多の難問を抱えつつ、いままでにも増してわが国「日本丸」を嵐のなか如何に乗り切るのか、待ったなしでその信念・リーダーシップが問われることかと思われます。

 話が替りますが、百四十数年まえわが国の幕末の状況はまさにいまの日本の国の置かれた状態よりも更に難しい状況下にありました。
 
 このなか一大ブームを巻き起こしている「龍馬ブーム」の主人公坂本龍馬達の”日本の国を根本から変えゆかねば!”という決死の想いがNHK大河ドラマ「龍馬伝」からも、ひしひしと伝わって来ます。ドラマは第3部の山場「寺田屋騒動」「龍馬の妻」を経て龍馬・お龍の薩摩への新婚旅行のあと、いよいよ第4部へと向います。

 このドラマは坂本龍馬、岩崎弥太郎の視点から幕末を描いたものですが、意外にも紀州と坂本龍馬の関係が深いのです。
 
08年のNHK大河ドラマ「篤姫」でも登場した人物にもある意味重なっています。篤姫が輿入れした第13代将軍徳川家定の後継者に紀州徳川藩主であった徳川慶福が一橋派(慶喜)・紀州派の派閥争いの末、家定の遺言、井伊大老の推挙の結果、名を慶福から家茂と改め若年ながら第14代将軍に就任、幕府の第一次・第二次長州征伐の時の将軍であり、第二次長州征伐の途中大阪城で逝去、そのため戦が終息しました。(この第14代将軍選びのとき篤姫の父島津斉彬は一橋派すなわち慶喜を推し立てるべく意を含めて篤姫を輿入れさせたと云われていますが、家茂就任後篤姫は家茂の英明さを理解したと云われています。)

 その後龍馬は長崎で亀山社中を「海援隊」に組織替えし、借りた「いろは丸」を運行中瀬戸内・鞆の浦沖で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突、紀州藩と談判の結果勝利し莫大な賠償金を勝ち取った史実も残されています。
 
 またドラマにも登場する紀州藩士陸奥陽之助(宗光)とは勝海舟が開設した神戸海軍操練所以来の同輩で長崎の亀山社中、海援隊の会計担当者として龍馬の信頼厚くその片腕として手腕を発揮、のちに明治政府に仕え「カミソリ外相」として紀州が産んだ偉人100人の一人としてその偉業がいまに伝えられています。

 ここでは紀州(和歌山)と龍馬の関わりから、神戸海軍操練所時代・勝海舟を訪ねて和歌山入りした龍馬、「いろは丸」事件の紀州藩と龍馬の談判、龍馬の同輩の一人で龍馬の片腕として活躍し、地元和歌山が産んだ偉人の一人に数えられる陸奥陽之助(宗光)を採り上げたいと思います。

 では、まず最初は紀州入りした勝海舟を訪ねて紀州和歌山入りした龍馬のエピソードの紹介から!

坂本龍馬、 和歌山参上!
「龍馬ブーム」のなかNHK大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入り、ますます関心が高まる坂本龍馬。わずか33年の短い生涯であったが、その活躍ぶりは周知の通りで、幕末に現れた巨星といえよう。
そんな龍馬と和歌山の関わりを追ってみました。

 勝海舟とともに4日間和歌山に滞在した坂本龍馬!


 黒船が襲来したのは、1853年(嘉永6年)のこと。それ以降、紀州藩でも幕府の命に従って、海岸に台場(砲台)の建設を進めていた。その10年後、幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、防備の状況把握のために家臣とともに和歌山に入った。1863年(文久3年)4月3日のことである。

 勝海舟が紀州藩家老・久野丹波守と友ヶ島砲台や海軍について話し合いを行った4月10日に、勝の塾生であった坂本龍馬が和歌山にやってきた。その後、勝の供をして和歌山の台場各地を視察する。

 勝たちの宿所になった橋丁両替商清水平右衛門は、明治末期に龍馬たちの様子について述懐している。
以下、『木国史談会雑誌』の「勝海舟先生と坂本龍馬の事ども」と題した清水平右衛門の一文より抜粋し、解釈。

・・・「私はまだ少年でしたが、海舟先生はまるで自分の子か甥っ子のように可愛がり、昔話や浮世話を聞かせてくれました。随従の士は、坂本龍馬、近藤長次郎、千谷(屋)寅之助、黒木何某、高松何某。

 坂本さんは丈も高く筋骨も逞しく、先生の供をして海岸へ行くときは近藤さんと交代で先生の刀持ちをして馬廻りを離れずに歩き、駆け、帰ってからは畳の上に大の字になって吐息を『うっ』と吐かれるのをたびたび見ました。

 ある日、先生の供をして和歌浦から帰ってきた坂本さんは、疲労のあまり無言で座敷に倒れていましたが、先生が湯殿から出るのを見るやいなや、裸になって風呂に入ったところ、『ピチピチバチン、ドスン、ザザー』という凄まじい音が響いたと同時に、『あっ、しまった!』と声がしました。
 皆で見に行くと、風呂桶の輪がはじけ、底が抜け、湯が流れ出るという大騒動。坂本さん当人は濡れ仏のように板の間に突っ立っているという体たらくに、皆は抱腹絶倒。この出来事を「坂本さんの湯殿の滑稽演劇」と名付けて言い伝え、来訪の客人に話しております」・・・












宿の跡には「勝海舟寓居地」の碑が建てられている(和歌山市舟大工町。なお清水家の正確な位置は、これより約50m西)。
 つづく・・・

4 件のコメント:

  1. しげやん^^ご無沙汰です
    勝海舟寓居地の碑が建てられているのは知りませんでした^^
    船大工町ってどこら辺でしょう??ふふ
    和歌山にかかわりがあったんですね^^
    篤姫の時は毎回TV見ていましたが竜馬伝はあまり見ていないなぁ~^-^

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  2. こんばんは♪お帰りなさいませ。「もう、夏休みもおわりでしょ?出てらして!」と催促に伺ったら、一足お先にアップされてましたね、残念。(笑)
    「いろは丸」事件は、万国公法による日本初の海難審判事件といわれていますね。紀州藩の旗色は悪く、後々まで遺恨が残ったとのことで、龍馬暗殺の犯人としてその名が挙がったこともあったそうです。
    でも、このお話伺ったら、そうは思えませんね。司馬遼太郎さんの取材ミスかしら?

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  3. atitiさん
    南海和歌山市駅から南東に商店街を通り中央大通りに合流
    する途を250m程進んだ右側に質屋の「クイノセ」店が
    ありますが、そこの角にこの碑が建っています。
    「龍馬伝」は日本の国の幕末を描いた様子がよく分かります
    だが、ドラマですのでどこまで史実でどこまでが創作なのか
    そこまではわたしにもよく分かりませんが・・・
    幕末の様子を知るのに興味をもって観ています。

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  4. EYASUKOさん
    坂本龍馬を描いた小説は司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を始め
    数多く出版されていますが、このなかに地元の直木賞作家
    津本陽「龍馬」「商人龍馬」があります。これらには龍馬は
    よく描かれていません。むしろ世界の商人たらんとしたのではと、また鞆の浦沖で沈没した「いろは丸」の潜水調査が
    4回にわたり行われたそうですが、龍馬が積荷としていた
    鉄砲500丁は全く見当たらずその影もなかったと云われています。つまり虚言・大言を弄して世論を煽りそれを味方にして紀州藩を欺き大金をせしめたとする説が有力です。
    この辺、ハッタリ、交渉術上手等龍馬の裏表が見えてくる
    ように思われます。
    人物の描き方も作家によっていろいろですね!
    司馬遼太郎、津本陽両氏は資料を集めて読んだ上で執筆する
    作家ですが・・・

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