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2014年4月9日水曜日

城下町の風景Ⅱ-⑥ 東部の風景・湊・広瀬河岸

和歌山城 わかやまじょう

和歌山城と聞くと徳川御三家の紀州徳川藩の居城と思われ
がちだが、それを遡っての歴史があります。徳川とは反対の豊臣方の居城として築かれた因縁があるのです。
天正13(1585)年根来寺を焼き討ちにし、太田城を水攻めにするなど、紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に命じて築城させたのが最初で、自ら入城すろことなく城代の桑山氏、つづいて関ヶ原で戦功を挙げた浅野氏が二代で、元和5年(1619)浅野氏を安芸ノ国に移封、徳川家康の第10男・頼宣が入国、以来長く威風を誇ってきましたので、徳川氏のお城としておおくは受け止められていますが、徳川氏の先立つ歴史があったのです。
専門家のよると、石垣の積み方にもそれぞれの時代が反映されているそうで、歴史的遺産と云えましょう。


和歌山城

和歌山中心部にそびえる天守閣/財団法人日本城郭協会より「日本名城100選」の1つに選定されています。

 こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。
 そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に来たことを実感させてくれます。
 
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和歌山城の岡口門から東南へ約500m行った辺りです。
 

東部の湊、広瀬河岸⑥念誓寺、上願寺、光秀寺、宮の檀、大橋、時鳥松、大立寺

 上の絵は、和歌川に架かる大橋付近の約200年前の風景です。広瀬通りは桑山時代の大手道で、旧城下の入口にあたる大橋西詰には大橋御門がありました。御門の手前には梯子の上に半鐘をかけた火の見櫓がみえます。その付近は「宮段」(みやのだん)といって、神亀元年(724年)、聖武天皇の和歌浦行幸の際に御所となった岡東(おかひがし)離宮跡とされています。
 和歌川西岸の「デコやくし」(広瀬にあった小堂)から北を広瀬河岸(がし)といいました。そこには荷揚げされた木材や葦などが山積みにされています。川面には屋形船や荷を積んだ舟が行き来し、岸には多くの舟が繋がれています。絵からは江戸時代に河川交通が盛んだったことがわかります。
 和歌川の大橋を渡って、まっすぐ東に進むと龍神街道、大立寺前を右へ曲がると紀三井寺道(近世熊野街道)です。龍神街道は、初代藩主頼宣が湯治場として保護した龍神温泉に至る道です。
 大橋の上流には紺屋橋が架かっています。両橋の間には、屋根に木材を立てかけた材木屋の建物が並んでいます。そこは同じ職種の職人たちが住んだ町人町、南材木町です。町名はかつて御材木町といった休賀町(きゅうかまち)の南側だったことに由来します。
 絵図の中央、大橋東詰の北側には枝ぶりのよい「時鳥(ほととぎす)松」がみえます。その謂われについては、次回に述べることにしたいと思います。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)

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 江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は5月28日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年4月9日号掲載
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