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2014年3月13日木曜日

城下町の風景Ⅱ ④原見坂の眺望

現位置は和歌山城の南東約600mの小松原通り4丁目を「寺町通り」と呼ばれる道路を東へ入った辺りです。いまはこの辺りをひろく「吹上」という地名で呼ばれていますが、かつては「寺町」とよばれて、多くの寺院が建ち並んでいました。

紀州徳川藩は和歌山城の南の防御をこの寺院群に任せたのでしょうか?いまでも「寺町通り」の名にふさわしい徳川時代に建立の多くの寺院が建ち並んでいます。


          

原見坂の眺望 
④感応寺、原見坂、禅林寺、車坂、
本久寺、四方嵐、菊本橋、葛輪里

 上の絵は、城下町南東部の約200年前の風景です。絵図左側の小山は和歌山城から続く吹上砂丘で、その標高は高いところで20メートルあります。絵図は、その砂丘東側の寺院と和歌川付近を画いています。
 右上の「吹上」の武家屋敷地から砂丘を切り下げた「車坂」を越えると、「禅林寺」の門前に出て視界が開けます。禅林寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寛永8(1631)年に浅野氏の菩提寺、大泉寺の跡地へ建立されました。その付近は「原見坂」といって、和歌川対岸の岩橋山地などが一望できる眺めのよいところです。
 原見坂から道なりに南下すると、「感応寺(かんのうじ)」の山門に至ります。感応寺は日蓮宗の寺院で、駿河の富士山麓にありましたが、初代藩主徳川頼宣とともに紀州へ移り、元和6(1620)年に当地に建てられました。その下の集落には同寺に属する「本久寺」が画かれています。そこから北へ行く田園の道には「菊本橋」、三軒屋の葛輪の里がみえます。
 「もくづ川」(和歌川)はかつて紀ノ川の本流でしたが、11世紀末の洪水で流れが変わり、本流は水軒川のコースを流れ、大浦が河口になりました。江戸時代の和歌川は、三葛塩の運搬など舟運に利用されました。「大宅村」(和歌山市手平)付近には「相引渡(あいびきのわたし)」が画かれています。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)
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江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は3月16日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年3月12日号掲載
 

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