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2010年11月26日金曜日

26日・「天野の里」巡り(その1)紀之国一之宮『丹生都比売神社』

 さきに「天野の里」の紹介に当たって白洲正子の『かくれ里』から丹生都比売神社を訪ねる旅の一節を引用したが、彼女が訪ねる目的であった「丹生都比売神社」から、まず始めなくてはいけないだろう。
 
 なんといっても「丹生都比売神社」の創建は高野山よりはるかに古く、そこに祀られている神々は空海が拓いた「高野山」の産土神であり、空海が高野山を創建するに当たって広大な山林を提供するとともに狩人の姿に身を変え白・黒二匹の犬を従えて空海を案内したともいい伝えられ、その神の名は別名「狩場明神」とも称される。
 この丹生都比売神社にまつわる史跡や高野山はかつて女人禁制であったため、高野山に入れず天野の里に庵を結ぶ女人の史跡や歌人・西行庵や西行の妻女の宝筐印塔その他歴史的に知られた人の史跡が、いまに数多く遺されている。

 こういう訳でまずは「丹生都比売神社」から紹介し、高野山へのかつての登山道「町石道」「二つ鳥居」つづいて「西行庵」「西行妻娘の宝筐印塔」「院の墓」滝口入道との悲恋の「横笛の墓」僧・俊寛の家来「有王丸の墓」「貧者の一燈」等、白洲正子の「かくれ里」に記された史跡を順次紹介することにしてゆきます。

丹生都比売神社
 天野社・天野大社とも称される丹生都比売神社〔にうつひめじんじゃ〕はその創建は古く今から1700年ほど前の応神天皇のときとされ、高野山一山の地主神であり、 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する。(クリックで拡大)

 天野の里は四方を山に囲まれた標高約450mの盆地で、かつては高野山の表参道であった。今ものどかな風情を漂わせる山里である。







 




 







 主祭神の「丹生都比売大神〔にうつひめのおおかみ〕」(丹生明神)は、天照大神の妹神である稚日女尊〔わかひるめのみこと〕とされる。また、第二殿には「高野御子大神〔たかのみこのおおかみ〕」(高野明神、別名狩場明神)が配祀されている。(クリックで拡大)
 さらに鎌倉時代、行勝上人によって「大食都比売大神〔おおげつひめのおおかみ〕」(気比明神)、「市杵島比売大神〔いちきしまひめのおおかみ〕」(厳島明神)が第三殿、第四殿に勧請されたところから、四所明神とも呼ばれた。(クリックで拡大)


 





 
 
 。丹砂は朱砂・辰砂ともいい、水銀の原石である硫化水銀のことで、古くから朱色の染料の材料とし丹生とは丹(丹砂)の生ずるところを意味するて用いられた。もともと丹生都比売神は、丹砂の採掘を掌る丹生氏によって祀られていたと考えられる。

『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「天野祝〔あまののはふり〕」の名が見えることから、8世紀には天野祝氏によって奉斎されていたものとみてよいだろう。
 
 「丹生都比売大神」は神代に紀伊国伊都郡奄田に降臨し、御子の「高野大神」とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされる。
 また、『播磨国風土記逸文』によれば神功皇后の新羅平定に際して、丹生都比売神が武器や衣装、船を赤く染めるようにと託宣し、これによって軍の威力が増した。
 その功に対し、紀北地方の広大な土地が神領として定められたという。

 弘法大師の高野山開創に際しては、「高野御子大神」が狩人の姿の「狩場明神」(かりばみょうじん〕として現れ、白・黒二匹の犬に高野山まで案内させたと伝えられる。
そして、丹生都比売大神から高野山を譲り受けた大師は、丹生明神・高野明神を高野山一山の鎮守神として祀ったとされる。弘仁7年(816)には、天野社近くに曼荼羅院を建立し、翌年高野山に移したと伝えられる。

 天暦6年(952)、落雷により高野山奥の院の御廟が消失した際、天野検校と呼ばれた雅真僧都は天野社に住み、高野山の復興に尽力した。
 また、正暦5年(995)の落雷による高野山大火のため、長保3年(1001)から16年間にわたって高野山は人の住めない状況になった。この時、一山の僧侶は天野社に住んで、夏場のみ奥の院御廟の供養を行ったという。
 この時、復興の中心となったのが祈親上人である。神社の近くには、祈親上人の復興にまつわるエピソードとして有名な「貧女の一灯」のお照のものと伝わる墓が残っている。

 以来、丹生都比売神社は高野山と深い関わりをたもちながら繁栄した。皇室・公家の崇敬も大変篤く、貞観元年(859)に従四位下を授けられ、寿永2年(1183)には従一位となる。延喜式においては名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の幣に預かる。

 承元2年(1208)、二位尼(北条政子)が熊野詣での帰りに天野社に参拝。この時、行勝上人の懇請により浄財を喜捨し、気比明神と厳島明神が勧請されたという。また、元寇に際しては託宣があり、祈祷の功によって幕府より神領の寄進があった。

 しかし、明治の神仏分離令で高野山の手を離れてからは厳しい時代を迎えた。大正13年(1924)に官幣大社に昇格。


 楼門と本殿は室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。特に本殿は、一間社春日造りでは日本最大とされる。内部に内宮殿があり、その中にご神体を安置するという珍しい形式である。
 その他にも、国宝・重要文化財を多数所蔵するが、東京・京都・奈良の国立博物館や高野山霊宝館に展示されているものも多い。

 平成14年には境内全体が国の史跡に指定されている。さらに平成16年(2004)7月には、高野山や熊野三山などとともに『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。

 なお、丹生明神・高野明神は、弘法大師によって高野山壇上伽藍内の明神社にも祀られている。
 それにしても、大いに気になるのは「丹生」と「空海」こと弘法大師の関係である。
 高野山創設伝説にある、丹生都比売から広大な土地を借受け、その子高野明神(狩場明神)が狩人に姿をかえ空海を案内したとするのは、何を意味するのであるうか?知れば知るほど、謎は深まるばかりである。

。(クリックで拡大)

(ご祭神・ご神徳)                          
第一殿 丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ・別名(丹生明神) にうみょうじん
    諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神、健康・長寿と農業・機織の守り神

第二殿 高野御子大神 たかのみこののおおかみ・別名(狩場明神) かりばみょうじん
    弘法大師を高野山に導いた人生の幸福への導きの神、
第三殿 大食都比売大神 おおげつひめのおおかみ・別名(気比明神) けひみょうじん
    あらゆる食物に関する守り神 食べ物を司る女神

第四殿 市杵島比売大神 いちきしまひめのおおかみ・別名(厳島明神) いつくしまみょうじん
    財運と芸能の女神、七福神の弁天様としても知られる

若宮  行勝上人 ぎょうしょうしょうにん 
    鎌倉時代、第三殿・第四殿の御祭神を勧請する等、神社の発展に尽力した真言宗の僧侶

境内社 佐波神社 さわじんじゃ 
(合祀) 明治時代に上天野地区の諸社を合せ祀った

(つぎは高野山町石道、西行堂、西行妻女宝筐印塔他古くからの史跡を紹介します)

5 件のコメント:

  1. こんばんは。
    鎌倉時代に、気比明神から大食比売大神、厳島明神から市杵島比売大神が勧請されたそうですが、どういうつながりだったんでしょうね。
    それも気になります♪

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  2. こんばんは~
    丹生都比売神社は世界遺産だけあって立派なつくりをしています!

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  3. 先程からコメントかいていますが消えていますね
    なぜでしょう

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  4. atitiさん
    「丹生都比売神社」はイナカに似合わず本当に立派な神社
    です。かつて紀の国一之宮といわれただけの価値があります
    回りの緑に溶け込んだ朱色は鮮やかです。
    だが、高野山とてあんな山上にあれだけの立派な寺院群が
    あるのですから、われわれ現代人の感覚とは違い、熊野古道
    にしても難行苦行してたどり着くのが修行と考えれば現代人は楽をしすぎでしょう。

    それから、コメントが書けないとのこと今朝から不思議に
    思って調べてみました。たしかにここ3.4日誰からもノー
    コメントでしたので不審に思ってました。
    調べた結果atitiさんを含めて何人かのコメントがスパム・
    メールに引っかかってました。何故そうなったのか、わたし
    のもよく分かりません。失礼しました。

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  5. megさん
    「丹生」系の神社にどうして気比・厳島系の神を勧請した
    のか、調べてみます。しばらくお時間をください。
    お願いします。

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