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2010年10月17日日曜日

17日・「稲むらの火祭り」と救世主・濱口梧陵

 秋たけなわの季節、各地で盛んに祭りが行われていますが、昨16日夕方地元広川町で「稲むらの火祭り」が行われました。この祭りは今から百五十数年前の安政元年安政の大震災の地震と津波によって全国的に多数の人命が犠牲となりましたが、地元和歌山の広村にも地震と共に大津波が襲ってきました。
 これに気付いた濱口梧陵は収穫を終えた稲の「稲むら」に火を放ち暗闇のなか村人を高台にある村の鎮守の「広八幡神社」へと村人を誘導し、尊い人名を救助しました。
 
 防災の先駆者とも讃えられる梧陵はこれだけではありません。再び襲ってくるかもしれない津波に備えて家や田畑を流された村人に失業救済を兼ねて強固な堤防を自費を投じて数年を掛けて構築し、「生ける神」としてその偉業が今に讃えられています。
 
 この火祭りは梧陵の遺徳を称えるとともに防災への意識を高揚するため地元広川町を挙げて、毎年行われている行事です。
 今回は「稲むらの火」と地元紀州が生んだ偉人濱口梧陵に人となりについて2回に分けて紹介することにします。では、「稲むらの火祭り」から・・・

 




 


 津波から村人の命を救った浜口梧陵(はまぐち・ごりょう)の功績をたたえ、市民が松明(たいまつ)を持って町内を練り歩く「稲むらの火まつり」が、16日夜、広川町で行わた。 実行委員会の主催で毎年この時期に行われています。
 まつりは、午後4時から広川町役場前の稲むらの火広場での式典で幕を開け、歌や太鼓などが披露されたあと、午後6時からの「火祭り行列」では、市民らが役場から広村堤防を越えて、広八幡神社までのおよそ1.7キロを、燃えさかる松明を手に練り歩き、梧陵が村人たちを高台へ避難させる様子を再現します。


 一方、広八幡神社の境内では、午後6時40分ごろから「平安の舞」の奉納や、炊き出しなどが行われます。実行委員会では「参加する人も見る人も、この祭りを日頃の防災意識を高める機会にして欲しい」と呼びかけています。

 『稲むらの火祭り
かつての小学校の国語教科書(地元小学教員・中井常蔵作)や、ラフカディオ・ハーンの小説「A Living God]でも伝えられなかった本当の「稲むらの火」です。濱口梧陵の偉業「百世の安堵を図れ」はこの実話の中に生きています。
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1 枯れた井戸の水
今から150余年前のある冬の朝、広村に地震*が起こりました。
いつもと違う海に、村人たちは津波を心配して広八幡神社に避難しましたが、被害がなかったことを喜びあいました。
ところが次の日のお昼過ぎ、あわてて梧陵さんの家にかけ込んできた村人が言いました。
「えらいこっちゃ、井戸の水が枯れているぞ!」
*1854年(安政元年)12月23日午前10時に起こった、のちに安政東海地震とよばれた地震です。全国で2000~3000人がなくなりました。
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2 大地震だ!津波だ!
 夕方の4時。きのうの地震とは比べものにならない大きな地震*が起きました。
家が倒れ、かわらが吹き飛びました。ドーッという、大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲がみるみる広がっていきました。
そしてついに大きな津波が押し寄せてきました。「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」
梧陵さんは波にのまれながらも必死で村人たちにそう叫んで、広八幡神社へと避難を呼びかけました。
*この地震はのちに安政南海地震とよばれ、全国で数千人がなくなりました。
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3 命の火、「稲むらの火」
 津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、今度はすごい勢いで海へ引いていきました。
あたりはひどいありさまで、おとなも子どもも家族をさがして叫びまわっています。
梧陵さんは、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからずさまよっている人がいるにちがいないと考えました。
とっさに、「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積み上げられた稲の束に火をつけてまわりました。すると、逃げおくれた村人が次から次へと火を目指して丘にのぼってくるではありませんか。「ああ助かった、この火のおかげや」9人目の村人が避難を終えたそのときです。さらに大きな津波*が押しよせて、稲むらの火も波に消されていきました。
*このときの津波がいちばん大きく、この後も何度も津波が押し寄せては引いていきました。
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4 生きる希望

 


 津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりでした。
村を捨てて出て行こうとする人もいました。梧陵さんは考えました。「このままでは村がほろびてしまう。広村で生きていける方法はないものだろうか…。よし、浜に堤防を築こう。村人に働いてもらってお金を払い、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ。」
地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、梧陵さんは家族や店の人*に村を守りぬくための協力を求めました。
*梧陵さんの家は、広村と千葉県の銚子というところで昔からしょうゆを造っていました。店や工場ではたくさんの人が働いていました。
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5 広村堤防
 広村の人たちは、梧陵さんの決断に心の底から感謝しました。畑の仕事や漁の仕事をしながら、一所けん命に働いて堤防を造っていきました。4年がかりで大きく立派な堤防が完成し、海側には松の木を、土手には、はぜの木を植えました。
長い年月がたちました。広村に大波がおそってきましたが、村は堤防のおかげで守られました。大きい地震*があったときにも、津波は村に入ってきませんでした。
今も広村堤防は広川町の人びとを守り続けてくれています。
*1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が起こり、4mの津波がおそいましたが、堤防に守られた地域は無事でした。
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 つぎは村人を救っただけでなく村人の失業対策を兼ねて村に強固な堤防を築いた紀の国が生んだ偉人・濱口梧陵その人を紹介することにします。

2 件のコメント:

  1. しげやん^^こんにちは~
    そうでしたね稲村の火祭りです
    以前にこの人をUPしたことがありますが昔の人は偉い人が沢山いますね^^自分の事だけで精一杯の時代こんな人がいたとは凄い事ですね!

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  2. atitiさん
    地元和歌山は江戸時代末から明治にかけて世界的にも偉大な
    人物を輩出しています。このことは和歌山県のHPで「紀の国の先人たち」で紹介されています。
    さきに紹介した華岡青洲、陸奥宗光、津田出、濱口梧陵、
    南方熊楠等々です。この時代の政治家や実業家は今とは
    スケールが違います。おのれの利益ばかりでなく天下国家
    を念頭に置いた信念をもってます。
    いまの政治家に天下国家を思う人は残念ながら見当たり
    ません・・・残念!!!

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