”実業家であり政治家でもあった7代目濱口儀兵衛(梧陵)”
初代濱口儀兵衛の後、2代教了、3代教寛、4代安六、5代灌圃、6代保平と続き、創業から約200年後の1853年(嘉永6年)、5代目灌圃の孫にあたる梧陵が、7代濱口儀兵衛を名乗りました。
梧陵は1820年(文政3年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に家督を相続し、幕末の風雲の中で、家業を守りました。
彼はヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、私欲を顧みない社会福祉事業や政治活動に心血を注ぎ、近代日本や郷土和歌山県の発展に大きな足跡を残しています。
”小学校教科書のも載った「稲むらの火」の主人公”
1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った安政の大地震に際し、偶然紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。
梧陵は村民を避難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。
身の危険や財産を顧みないこの行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。
のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、小学国語読本に採用されました。
「稲むらの火」の詳しい内容は下記のアドレスをクリック
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/
昭和10年代の和歌山県広村の防波堤
”津波から守る防波堤の建設”ー現在も残る防波堤ー
梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、1855年(安政2年)から4年間、銀94貫(4665両,現在換算で約3億5千万円)を費やし、この築造工事に従事した延人員数は56,736名に及び大津波で職を失った村人には失業救済で大いに貢献し、村の衰退を防いだ大防波堤の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、国の史跡に指定されています。
初代濱口儀兵衛の後、2代教了、3代教寛、4代安六、5代灌圃、6代保平と続き、創業から約200年後の1853年(嘉永6年)、5代目灌圃の孫にあたる梧陵が、7代濱口儀兵衛を名乗りました。
梧陵は1820年(文政3年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に家督を相続し、幕末の風雲の中で、家業を守りました。
彼はヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、私欲を顧みない社会福祉事業や政治活動に心血を注ぎ、近代日本や郷土和歌山県の発展に大きな足跡を残しています。
”小学校教科書のも載った「稲むらの火」の主人公”
1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った安政の大地震に際し、偶然紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。
梧陵は村民を避難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。
身の危険や財産を顧みないこの行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。
のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、小学国語読本に採用されました。
「稲むらの火」の詳しい内容は下記のアドレスをクリック
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/
昭和10年代の和歌山県広村の防波堤
”津波から守る防波堤の建設”ー現在も残る防波堤ー
梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、1855年(安政2年)から4年間、銀94貫(4665両,現在換算で約3億5千万円)を費やし、この築造工事に従事した延人員数は56,736名に及び大津波で職を失った村人には失業救済で大いに貢献し、村の衰退を防いだ大防波堤の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、国の史跡に指定されています。
”人材の育成・学問の発展に貢献”
幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、「稽古場」を開設しました。
西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所が火災にあい、焼け落ちたときは300両を寄付し再建。
また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)
梧陵は、このように人材育成や学問の発展、社会貢献のため労やお金を惜しまない人物だったのです。
”幕末から明治維新へ。近代日本を建設した偉人の一人”
幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。
商人の身分にありながらその才能を見込まれ藩政改革を託され和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。
また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、梧陵は新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡りましたが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなくなりました。 和歌山県庁内には、梧陵の功績を称え銅像が建立されています。勝海舟はいたく梧陵の死を悼み、のち遺徳を偲ぶ碑に文をささげています。
”梧陵が生きた時代”
梧陵は幕末から明治の激動の時代に活躍しました。ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫った時には、「いまや世界の大勢を見るに、何れも門戸を開放して、対外に交際せざる国なし」と喝破し、その意見を耳にした老中小笠原壱岐守と後日会談したと記録に残っています。また、当時の知識人たちとも親交が厚く、福沢諭吉の直筆文の中で「博識の人なり」と評されています。
◎梧陵の思想・”済世安民(世をうまく治め、民心を安定させる)”
※濱口梧陵のことは和歌山県HP.「紀の国の先人たち」に載せられています。
幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、「稽古場」を開設しました。
西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所が火災にあい、焼け落ちたときは300両を寄付し再建。
また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)
梧陵は、このように人材育成や学問の発展、社会貢献のため労やお金を惜しまない人物だったのです。
”幕末から明治維新へ。近代日本を建設した偉人の一人”
幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。
商人の身分にありながらその才能を見込まれ藩政改革を託され和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。
また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、梧陵は新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡りましたが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなくなりました。 和歌山県庁内には、梧陵の功績を称え銅像が建立されています。勝海舟はいたく梧陵の死を悼み、のち遺徳を偲ぶ碑に文をささげています。
”梧陵が生きた時代”
梧陵は幕末から明治の激動の時代に活躍しました。ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫った時には、「いまや世界の大勢を見るに、何れも門戸を開放して、対外に交際せざる国なし」と喝破し、その意見を耳にした老中小笠原壱岐守と後日会談したと記録に残っています。また、当時の知識人たちとも親交が厚く、福沢諭吉の直筆文の中で「博識の人なり」と評されています。
◎梧陵の思想・”済世安民(世をうまく治め、民心を安定させる)”
※濱口梧陵のことは和歌山県HP.「紀の国の先人たち」に載せられています。
しげやん^^おはようございます^^
返信削除濱口梧陵さん篤姫さんと同じ時代に生きたんですね~
64歳とは昔にしては長生きした方でしょうか?
お金あっても自分の為に出来ても他人の為に中々できない事ですよね^^子孫は今どうされているのでしょうね?
今日は雨ですね
atitiさん
返信削除梧陵と篤姫の没年は同じぐらいですが、梧陵の方が長生き
した分だけ年長です。どちらも勝海舟と親しかったようです
から、海舟を通して篤姫のこともよく知っていたのでは?と
思います。梧陵は福沢諭吉とも親交があったようですよ!
広川町に濱口家の屋敷があり、この地所を県に寄付してその
敷地に「稲むらの火の館」「濱口梧陵記念館」「津波防災
センター」を数年前に県が建設しました(約5000M2)。
濱口家代々儀兵衛を名乗り千葉の銚子に1635年に「ヤマ
サ醤油」を創業していますから、老舗のなかの老舗です。
このヤマサ醤油の社長が第12代目濱口道雄氏ですが住まい
は東京ですが、濱口家の後裔は広川町におられます。