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2010年10月13日水曜日

13日「ピンクリボン」と地元が生んだ医聖・華岡青洲

 地元の「温故創新」を発信するブログです!

ピンクリボン(Pink Ribbon)」とは、乳がんの正しい知識を広め、乳がん検診の早期受診を推進すること、などを目的としてに行われる世界規模の啓発キャンペーン、もしくはそのシンボル。
日本人女性のうち、乳がんを発症する割合は約20人に1人と言われており、また、乳がんで死亡する女性の数は年間約1万人弱とされ、そのキャンペーンは年を増すごとに拡大しています。

 
 いまから206年前、全世界で初めて全身麻酔による「乳がん手術」を成功させた世界的に医聖と称される医師が地元にいた。
奇しくもきょうが世界で初めて「通仙散」の全身麻酔でみごと乳がんの手術に成功した記念すべき日、その10日後が彼の生誕250年に当たる。有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」でその名を全国に知られた華岡青洲その人である。 
 彼の生誕の地である地元紀の川市を中心に記念行事が展開されている。

 今回は「華岡青洲の生涯とその偉業」と「生誕250年記念」して少数発売された記念切手フレームを紹介しよう。

華岡 青洲(はなおか せいしゅう)宝暦10年(1760)~天保6年(1835)ー世界で初めて全身麻酔手術に成功した医聖ー


 華岡青洲は、宝暦10年に紀ノ川中流域の紀の川市那賀町に生まれる。代々医者の家系であったため、父のもとで医学を学んだ。
 天明2年(1782)から3年間京都に遊学し、寝食を忘れて古医方、オランダ医学系統の外科学や儒学を学ぶ。この遊学時代に麻酔剤「麻沸散」を使って開腹手術をした古代中国、三国時代の医師、華佗の存在を知り、青洲は日本の華佗になることを決意する。
 当時切除により初期乳癌が治癒するという考え方は専門家の間にあったが、患部の切除手術には患者を無意識、無痛の状態にする必要があった。京都から帰郷した青洲は診療のかたわら麻酔剤の研究に努める。
 長年にわたる研究過程で、この当時としては新しい「実験」という手法を繰り返し、動物実験の成功後、自らの大切な妻と母を被験者として実験をおこない、曼陀羅華(まんだらげ・通称チョウセンアサガオ)を主成分とする麻酔薬「通仙散」を完成させる。
※「通仙散」の成分配合
・蔓陀羅華(マンダラゲ・別称チョウセンアサガオ) 八分/・烏頭(トリカブト) 二分/・ビャクシ 二分/・当帰 二分 /・センキュウ 二分/南星炒 一分
     (左・トリカブト 右・マンダラゲ)
 なお、このエピソードについては、有吉佐和子により『華岡青洲の妻』として小説化、劇化され、よく知られているところである。
 
 青洲は帰郷19年後の文化元年(1804)10月13日に、老婦人の全身麻酔による乳癌手術に成功する。アメリカ人医師モートンによるエーテル麻酔の成功に先立つこと40年余の快挙であった。このニュースは華岡流医学として全国に伝わり、1800人を超える医師達が青洲の門を叩いたといわれる。 
文化10年(1813年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用される。ただし青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。文政2年(1819年)、「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった。

 現在、米シカゴ市にある国際外科学会の栄誉会館の日本室には青洲が、そして中国室には華佗が顕彰されている。また地元では青洲の生家であり、病院・医塾であった「春林軒」が移築・復元されるとともに、「青洲の里」として整備され、数多くの遺品を展示し、彼の業績を紹介している。









 下は青洲の医療に対する考え方を示した言葉です
” 内外合一(ないがいごういつ)
活物窮理(かつぶつきゅうり)”
 内外合一とは、「外科を行うには、内科、すなわち患者さんの全身状態を詳しく診察して、十分に把握した上で治療すべきである」という意味です。活物窮理とは、「治療の対象は生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っている。そのため、人を治療するのであれば、人体についての基本理論を熟知した上で、深く観察して患者自身やその病の特質を究めなければならない」という教えです。内外合一、活物窮理はわずか八文字の言葉であるが青洲の医療理念であり、人生哲学でもありました。

      (左・「春林軒」主家 右・「春林軒」全景)

 「青洲の里」アドレス・ http://seishu.sakura.ne.jp/
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華岡青洲生誕250年の記念切手販売 地元紀の川・岩出市で! 10月8日

「華岡青洲生誕250年」を記念する切手

 今月23日は、世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した紀の川市出身の医師、華岡青洲の生誕250年の記念日。これにちなんで、青洲を題材にしたオリジナルフレーム切手が、紀の川市と隣の岩出市の郵便局で販売されている。

 紀の川市と郵便局株式会社が制作。図柄は青洲の住居兼病院、医学校「春林軒」や青洲の肖像画、青洲が考案した手術器具「コロンメス・バヨネット型剪刀」「曼陀羅華」など10枚で、価格は1200円(税込み)。1200部が作成された。同市西野山の「青洲の里」でも販売されている。中村慎司市長は「切手発売をきっかけに多くの人に青洲の偉業を知ってもらいたい」と話している。

 この他生誕250年記念行事として2日~31日まで「青洲の里」で特別展、23日の誕生日には記念シンポジューム、24日には「青洲まつり」が予定されている。 

2010年10月10日日曜日

10日・双子のパンダの赤ちゃんの命名とお披露目です(和歌山・白浜)

 地元の「温故創新」に関わる話題を紹介する「ブログ」です。
 今回はほほえましくてまことにおめでたいおハナシです。
そう地元白浜で双子のパンダが誕生しその命名式とお披露目がありました。


 わたしたち「海浜」と「陽浜」です 双子パンダ命名10月9日



 




 
 

 オスの海浜(左)とメスの陽浜=8日、和歌山県白浜町のアドベンチャーワールド


 和歌山県白浜町の観光施設「アドベンチャーワールド」で、2ヶ月前の8月11日に生まれた「双子のパンダ」の名前が決まり、8日、命名式があった。
 オスは「海浜(カイヒン)」、メスは「陽浜(ヨウヒン)」。
公募で寄せられた約1万5千通の中から選ばれた。

 海浜は「おおらかな海のように人々にやすらぎと希望を」、陽浜は「明るい陽光のように人々に笑顔と幸せを」との願いを込めた。命名式には、名づけ親となった同県田辺市の市職員壺井愛さん(30)ら大勢の人が詰めかけた。
 
 この日の体重測定では海浜が2515グラム、陽浜が2445グラム。生まれて約2カ月で20倍近くに成長した。双子の公開は屋内運動場で午前9時45分と午後3時から各20分ずつ。同施設ではこの双子を含め8頭のパンダが飼育されている。

「双子のパンダ誕生」 和歌山のアドベンチャーワールド・8月12日









(左) 生まれた双子の赤ちゃん=アドベンチャーワールド提供
(右) 赤ちゃんを抱く良浜=アドベンチャーワールド提供
 
 国内最多の6頭のジャイアントパンダを飼育する和歌山県白浜町の観光施設「アドベンチャーワールド」は12日、双子のパンダが生まれたと発表した。
 メスの良浜(ラウヒン、9歳)が11日午前7時44分から午前8時3分にかけて出産。1頭目がオスで158グラム、2頭目がメスで123グラム。いずれも元気だという。
 アドベンチャーワールドによると、3月下旬にオスの永明(エイメイ、17歳)と自然交配した。同施設では2003年以降5回あったパンダの出産がいずれも双子。担当者によると、世界的にも珍しいという。
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パンダの育成には世界的に定評がある{アドベンチュァーワールド」(和歌山・白浜町)の育成実績について下記に書いておきます。

中国との協力で進められているジャイアントパンダの繁殖研究事業では、現在までに12頭の繁殖実績があり、うち9頭が無事に成長している。これは、出産頭数、成長した子供の数、ともに中国本土を除けば世界最多である。また、アドベンチャーワールドは中国以外で双子のパンダを両方とも育てることに成功した唯一の施設である。
日本では、10年9月10日現在、王子動物園とアドベンチャーワールドを合わせて9頭のジャイアントパンダが飼育されているが、そのうち、実に8頭がアドベンチャーワールド内で飼育されている。
 中国本土以外の動物園で8頭も飼育されているのはここだけであり、世界一の規模である。
 
 地元白浜町では、このジャイアントパンダを最大の集客材料と位置づけており、白浜町役場には「パンダの町白浜」の掲示が行われている。
飼育されているパンダ
    「(愛浜(アイヒン)と明浜(メイヒン)」
• 永明(エイメイ)雄・1992年9月14日北京動物園(中国)にて誕生
• 良浜(ラウヒン)雌・2000年9月6日アドベンチャーワールドにて誕生
• 愛浜(アイヒン)雌・2006年12月23日アドベンチャーワールドにて誕生
• 明浜(メイヒン)雄・2006年12月23日アドベンチャーワールドにて誕生(愛浜と双子)
• 梅浜(メイヒン)雌・2008年9月13日アドベンチャーワールドにて誕生
• 永浜(エイヒン)雄・2008年9月13日アドベンチャーワールドにて誕生(梅浜と双子)
• 海浜(カイヒン)雄・2010年8月11日アドベンチャーワールドにて誕生(父:永明,母:良浜)
• 陽浜(ヨウヒン)雌・2010年8月11日アドベンチャーワールドにて誕生(父:永明,母:良浜)
※補足: アドベンチャーワールドで生まれたパンダの名前は、白浜町に美しい砂浜をもつ白良浜などの海岸があることから、2文字目は「浜」に統一されている。

2010年10月6日水曜日

6日・「たま電車」内で幼稚園児に楽しい絵本の読み聞かせ

 絵本がいっぱい「たま電車」「わかやまNPOセンター」が絵本175冊貸与!

                  絵本に見入る園児たち=和歌山市 
               たま電車車内
 和歌山電鉄(和歌山市)の猫の駅長たまのキャラクターがデザインされた「たま電車」内に、車内で自由に読める絵本や児童書175冊が新たに配備された。

 たま電車には以前から約240冊の絵本が置かれ、移動中の親子連れらに利用されてきたが、和歌山市美園町5丁目で絵本図書室を開いている「わかやまNPOセンター」が今回、絵本などを新たに無償貸与した。絵本図書室の分店「絵本ぐるぐるinたま電車」と名前を付け、今後、半年ごとに本を入れ替えるなど、センターが運営に携わる。

 去る9月30日、市立和佐幼稚園の園児約45人を招いて読み聞かせの会が開かれた。園児たちは「わーすごい」「きれい」などと歓声を上げて、大きな絵本に見入っていた。中嶋文也君(5)は「何冊も読んでくれてうれしかった。電車も窓とかイスにたまの絵がいっぱいでかわいい」と話していた。

 活字離れや本を読む慣習がうすれて来たこんにち、このように園児たちの大好きな「たま電車」内で大型絵本による楽しい絵本の読み聞か会はきっと子供たちに絵本に親しむ良い機会を与えたに違いない。これからもドシドシこんな機会を作ってあげて欲しいものだ。

 10月1日・模様替えした「たまステーション」と駅舎内の「たまパーツ」






2010年10月2日土曜日

2日・熊野本宮大社・桧皮葺屋根葺き替え工事始まる!

世界遺産「熊野本宮大社」 屋根の葺き替え工事42年ぶりに始まる!

 「桧皮葺」の屋根をもつ建物としては、8月4日に完成披露した和歌山電鐵貴志駅改装「たまミュージアム貴志駅」があるが、世界遺産に登録されている和歌山県の熊野本宮大社で、社殿の屋根を42年ぶりりに葺き替える作業が始まった。

 和歌山県田辺市にある熊野本宮大社の社殿は、ひのきの皮を1枚1枚重ね合わせた「ひわだぶき」の屋根が特徴で、国の「重要文化財」に指定されています。屋根のふき替えは、老朽化のため4つの社殿で行われ、9月27日は、このうち古くなった第3殿の屋根をはがす作業が始まった。

 作業員3名は社殿の屋根に登り、ひのきの皮を工具を使って慎重にはがしていました。屋根のふき替えは昭和43年以来およそ42年ぶりで、神門などの修復とあわせた総工事費は3億5000万円余りに上るということです。

 熊野本宮大社では今後、4つの社殿で順次、屋根のふき替えが行われ、作業は2年後の平成24年9月までに終える予定です。


       (第1殿・第2殿は相殿で社殿の数は3殿です)










(40年以上風雨に耐えた檜皮(ひわだ)ぶきの屋根を、職人が手作業で取り除いている)

 
 社殿の屋根は、ヒノキの皮を重ねた檜皮ぶき。同大社では30~50年に1回ふき替えており、本格的なふき替えは1968年以来となる。

 社殿計3棟のうち、事前に祭神を仮殿に移していた第3殿(約150平方メートル)から着工した。6.5トンの檜皮を新たに葺く。職人が屋根に上り、竹製のくぎで固定されたヒノキの皮を取り除いた。

 はぎ取り作業後、新たなヒノキの皮をふく。完成次第、第4殿、第1・2殿に取り掛かる。檜皮は敷地内の山林から採取するほか、大阪、奈良などからも取り寄せるという。

 同大社ではこのほか、神門、鈴門・瑞垣(みずがき)の屋根のふき替えも実施し、13年春の遷座120年大祭に備える。

2010年9月30日木曜日

30日・紀州と坂本龍馬の関わり・その4.陸奥陽之助(宗光)

 今まで紀州と坂本龍馬の関わりについて述べてきましたが、勝海舟が開設した幕府の神戸海軍操練所以来坂本龍馬の長崎「亀山社中」「海援隊」で龍馬の片腕として行動を共にしてきた元紀州藩士陸奥陽之助(宗光)の事績に触れて「紀州と坂本龍馬の関わり」を終わることにしたい。
 
 地元和歌山県が選んだ「紀の国の先人たち」には陸奥宗光について以下のように顕彰しています。
 彼は坂本龍馬暗殺以後、明治新政府に出仕し、後年わが国の外交問題で輝かしい成果を挙げ「カミソリ大臣」と称された郷土が産んだ偉人の一人なのです。坂本龍馬との関係についてはウイキぺィディアから補足して書きます。

陸奥 宗光(むつ むねみつ)・弘化元年(1844)~明治30年(1897)・和歌山市生まれ・日本外交史に輝かしい功績を残した「カミソリ大臣」


 弘化元年(1844)、藩の勘定奉行、寺社奉行を務めた伊達宗広の六子として現在の和歌山市に生まれる。のちに姓を伊達から陸奥に改め、源二郎、陽之助、宗光と名乗った。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 安政5年(1858)、江戸に出て幕府の学問所で安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
 
 文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(18677年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

 明治維新後は、津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させ、兵庫県知事や地租改正局長などを務めたが、薩長藩閥政府のあり方に不満を持ち辞職の後、元老院議官となる。明治11年(1878)、西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与したとされ、禁獄5年の刑に処せられるが、山形監獄に収容された陸奥は獄中にも関わらず猛勉強し自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。この薩長藩閥政府に批判的な陸奥の思想は自らが紀州藩出身のほか、坂本龍馬からより広く大きな立場でモノをみる考え方を陸奥自身が身につけたものと思われる。明治16年(1883)赦免により出獄、2年余りのヨーロッパ留学を経て外務省に入省する。

 江戸幕府が諸外国と締結した条約は、種々の不平等な条件を強いられており、これらの改正は、近代国家としての地位を確立するための重要な外交課題であった。明治21年(1888)、駐米公使としてアメリカに赴任した陸奥は、同年11月メキシコとの間に、わが国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結。また、明治25年(1892)には第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、明治27年(1894)、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結に成功。これによって各国は英国にならい、次々と日本と改正条約を結ぶことになる。同年、日清戦争が勃発、翌28年に陸奥は伊藤首相とともに、下関で行われる清国との講和会議に出席し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させる日清講和条約の調印を成功させた。














   (左・外務省構内に建つ陸奥宗光像・右・和歌山城近くの岡公園に建つ陸奥宗光像)
 日本の近代化に辣腕を振るい、機略に富んだ資質から 「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光は、明治29年(1896)に病気療養のため大臣の職を辞し、その翌年53歳で亡くなった。
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陸奥宗光がわが国の紹介したベンサムの「功利主義」・・・「最大多数の最大幸福」について追記しておきます。
 ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。
 ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)をもたらすものであると論じた。

 「最大多数の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。

功利主義よりも公正重視
 菅総理が「最小不幸の社会を作る」と語ったことは、経済思想の点でみればベンサムの考え方と対置される。「大きな幸福を求めること」とは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を指し、そうした考え方を功利主義という。
 しかし、最大幸福の原則では、分配や公正の尺度が欠落しており、下手をすると特定集団の幸福を高めることを優先して、少数者の幸福が犠牲になることに配慮を欠く。20世紀アメリカを代表する政治哲学者ジョン・ロールズは功利主義とは別に、「最も不遇な人々の利益の最大化する」ことを“公正としての正義”とした。
 菅総理の「最小不幸の社会を作る」という見解は、このロールズ流の経済思想に重ねたものであろうが、国民に対する社会保障と消費税増税のあり方については正しい将来展望のもと慎重のうえにも慎重を期して取り組まれるよう切望する次第である