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2012年4月3日火曜日

近場の桜情報・紀三井寺緑道・琴ノ浦温山荘園

 先月30日にやっと紀三井寺の標本木の開花宣言がでたが、翌31日は全国的に風雨が吹き荒れた悪天候、昨2日に近場の桜の開花状況を偵察に出掛けた。この時期「桜」の開花状況を見回るのに忙しい。いまが2・3分咲といったところ。平日の月曜日というのに桜の下でバべキューしている"花より団子組、いや花と団子組”が2グループがおった。
 近場で「桜」が有名なのは何と言っても「紀三井寺」、江戸時代には松尾芭蕉が桜をおって紀三井寺まで途を急いだが(高野山~和歌浦~紀三井寺)、紀三井寺に着いたときには、桜はすでに散り果てていた。そこで        ”見上ぐれば さくらしもうて 紀三井寺” という句を詠んだ
  お目当てのさくらはすでに散ってしまっているのに、「さくら」の句を詠むとは流石に俳人の見事さ!この句碑は紀三井寺にある。さくらの開花期間中には一度は紀三井寺のさくらを愛でたいものじゃ!  わたしなら、”酒無うて なんの己が さくらかな”とのたまうところだが

きょうは先に紹介した近場の桜便りをお届けしよう!
             (琴ノ浦温山荘園)
今を盛りと咲く「紅木蓮」
花と団子組
(紀三井寺緑道=琴ノ浦~紀三井寺3km)琴ノ浦側入り口付近
  古来「花」と云えば「梅」、万葉集には「桜」を詠んだ歌があるが、「梅」が圧倒的に多い。
ところが遣唐使の廃止や平安時代に入り、国風文化が栄えてくると、梅が桜に置き換わる。
花の散り際の潔さが桜の生命、これが潔さ=武士道として受け継がれてきたモノだろう。

「桜」を詠んだ俳句や和歌は数知れないが、地元の紀州と深い関係にあり、わたしが好きな和歌二首を挙げてみたい。その一首は西行の「願わくば はなの下にて われ死なむ ころは如月
望月のころ」
もう一首は本居宣長の「敷島の 大和心を ひと問わば 朝日に匂う 山桜花」である。
この二人は紀州とは切っても切れない深い関係で結ばれている。

西行は佐藤義清(1118(元永元)年~1190(文治6)年といい、藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫、宮廷を警護する「北面の武士」。今年放送のNHK大河ドラマ『平清盛』にも登場し、平清盛は同僚で友人だったが、義清はやんごとない女性(出家の原因には諸説あり不明であるが、ドラマでは待賢門院獐子)との恋に破れて出家、「西行」と称したが出自は紀州那賀郡田仲庄(現在・紀ノ川市打田町)を所領した裕福な武家の出身。美男子のうえ、文武両道に秀で将来を嘱望されていたが、若くして妻子を捨てて出家、各地を放浪し和歌を詠んだが、彼の歌は高く評価され 彼の死後、1205年(元久2年)に成立した《新古今和歌集》には、94首もの歌が選ばれ、西行が詠んだ和歌集である『山家集』には約1500首もの和歌が載せられている。                             
 願わくば はなの下にて われ死なむ ころは如月
望月のころ     西行

 もう一人の本居宣長(1730(享保15)年~1801(享和元)年)は、伊勢松坂の出身、江戸時代の国学者として宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記』註釈の集大成『古事記伝』と『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』などがある。日本固有の情緒「もののあわれ」が文学の本質であると提唱した。
町医師の身分だったが、後年紀伊藩(紀州+勢州=55万5千石)に召し抱えられ、藩で国学を教え、その子太平は紀州に移り住んで歴代、藩で国学を教えた。門下生は相当な数に上るが、わたしのブログの名前にもある通り、「地元の『温故創新』を訪ね歩る記」とある通り、項を改めて紹介したい。
(つづく)

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