ブログ アーカイブ

2010年11月4日木曜日

4日・にぎやかな秋の「熊野古道」

 いらっしゃいませ! 地元の「温故創新」の話題を発信するブログです

きのう3日は「文化の日」久しぶりの好天のもと、全国的に多彩な秋のお祭りや催し物で賑わうなか、地元和歌山でも世界遺産に登録されている「熊野古道」中辺路で地元住民や観光客で秋を楽しむ賑わいで盛り上がった。
 その一つは約千年前の平安衣装に身を包んで歩むイベント行列、もう一つは県の無形文化財に指定されている約700年の伝統をもつ「野中の獅子舞」である。
 
 いずれも古式にのっとり往時をほうふつとさせる時代絵巻や祭りばやしが、秋深まる山里をにぎわせた。
好天に恵まれ、古道歩きを楽しむ観光客の姿も多く見られた。
「平安行列」は静々と「野中の獅子舞」は勇壮にと、まさに「幽玄なる静と躍動する動」の対比であった。 

平安衣装で絵巻行列

 かつて熊野古道の宿場町として栄えた田辺市中辺路町高原では、「熊野古道絵巻行列」(町観光協会主催)があった。鮮やかな平安衣装などで着飾った男女50人が古道を練り歩き、いにしえの熊野詣でを再現した。
 秋晴れの中、法皇や衛士、女房などに扮(ふん)した男女が栖雲寺を出発。山並みを眺めながら高原熊野神社を通って広場まで約2キロをゆっくりと歩いた。









【平安衣装を着てゆっくりと歩く参加者(3日、田辺市中辺路町高原で)】
 沿道には地元住民や観光客らが並び、華やかな時代絵巻に見入った。
 見晴らしの良い広場では高原区まつり実行委員会主催の「高原もみじまつり」があった。地元産品や郷土料理が並んだほか、地元の「なかへち清姫太鼓」が迫力ある演奏を披露し、会場を盛り上げた。

野中の獅子舞」 勇壮に!
 
田辺市中辺路町の近野地域では、近野獅子舞団による県無形文化財「野中の獅子舞」が近露王子や近野神社、継桜王子で勇壮に奉納された。
 近露王子では午前9時半から奉納があった。この日は熊野古道沿いで地元住民らが主催するイベント「熊野古道癒やしの里~近露まるかじり体験」が催されており、観光客らも多く見物に集まった。






 

 
 太鼓や笛の音に合わせ、乱獅子や剣の舞などの演目を披露。力強くも巧みに舞う獅子舞に、見物人から大きな拍手が上がった。







 
 

和歌山市からきた主婦は「午前6時半に家を出て見に来た。写真が趣味で、特に獅子舞は追い掛けている。木漏れ日の中で舞う獅子舞はとても素晴らしかった」と話した。
※「野中の獅子舞」
 700年の歴史を持ち、連綿と受け継がれてきた獅子舞、和歌山県指定無形文化財。
 緑と清流に恵まれた歴史の里・中辺路。山の尾根づたいに世界遺産・熊野古道が通り、遙か昔から続く文化が生き続けている。近野神社に奉納される「野中の獅子舞」は、南北朝時代の初期、近野郷士である野長瀬一族が護良親王の御軍に出陣する際、はなむけに舞ったのが始まりとか今に伝えられている。
 幣や鈴を持ち、また剣を使って舞う姿は迫力満点で、荒々しい中にも繊細な動きが入り交じり、まさに勇壮華麗。連綿と受け継がれ、磨き上げられた伝統の舞。


 この日、同市中辺路町の滝尻王子近くにある観光案内施設「熊野古道館」には、朝から個人や団体客が訪れた。熊野本宮観光協会によると、同市本宮町の熊野古道にも週末ほどではないが、平日より多いハイカーが訪れたという。


2010年11月3日水曜日

3日・「文化の日」に想う!


「文化の日」に想う! ―「明治節」からどうして「文化の日」になったのか?
   1948年の初めての「文化の日」。各地で多彩な行事が開かれた=東京・日本橋風景
 今日11月3日は文化の日。 文化の日は、1948年の「祝日法」制定時から続く祝日。 11月3日は明治天皇の誕生日で、戦前は「明治節」だった。いまでは「明治節」を知る人はわたしの世代以上で国民の15%ぐらいになってしまっていると憶測するが、それがどんないきさつで「文化の日」に生まれ変わったのか?その当時に遡って泥縄式ではあるが制定された経緯を調べてみた。
 

 その当時衆参両院では、その名も「文化委員会」で法制定の議論がなされたという。この休日を、46年11月3日に公布された新憲法で祝うべきか、もともとの明治天皇や明治時代で記念すべきか、議員の意見も両方に分かれた。
 

 参院側は11月3日は「憲法記念日」とする考えだったが、衆院側が「憲法記念日は施行の5月3日」と主張。結局、参院側も同調し、「文化の日」とする方向で決した。
 当時の山本勇造(作家の山本有三)参院文化委員長は当時、11月3日をこう理由づけた。戦争放棄を盛り込んだ新憲法公布の日で忘れがたく、「『自由と平和を愛し、文化をすすめる』、そういう『文化の日』ということに我々は決めた」。やや我田引水的な感じもしないでもないが、自由や平和の日でもよかったのに。でも、この理由が今も国の説明に引き継がれている。
(「文化の日」誕生のいきさつ)
•文化の日の11月3日は、1946年(昭和21年)のこの日に日本国憲法が公布されたことを記念して定められた。1948年(昭和23年)までは「明治節」といい、明治天皇の誕生日を祝った祝日であった。
•それが、第二次世界大戦の終戦後、1946(昭和21)年のこの日に現在施行されている日本国憲法?が公布されたので、「憲法記念日」にしようという案が出された。
「明治節」を別の名称で祝うというのは軍国主義の復活につながるのではないか、と連合国側から反対され、「憲法記念日」は新憲法の施行日の5月3日に制定された。
•しかし、この意見に反論をした議員もいた。この時に反論をした議員とは、山本勇造(「路傍の石」などの作品でも有名な作家の山本有三)であった。「アメリカは独立宣言をした日を独立記念日としているではないか」と言い出した。その結果、11月3日を「文化の日」と言う名前で、1948年から記念日にすることになった。
    ◇
 「文化の日」は、全国で様々な文化関連の催しが開かれる。皇居では、文化勲章の親授式。

 受章者は、主に文化功労者の中の「文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者」(文化勲章令)のおおむね5人。識者10人からなる文化功労者選考分科会の意見を文部科学相が聞き、首相に推薦する。
今年の受賞者の名前と功績をみると、文化人の他に科学者も数多く見られる。
 •有馬朗人(文部大臣、東京大学長、原子核物理学・学術振興)
 ●安藤忠雄(東京大学特別栄誉教授、建築) 
 •鈴木章(北海道大学名誉教授、ノーベル化学賞受賞者、有機合成化学) 
 •蜷川幸雄(演出家、演劇)
 •根岸英一(パデュー大学特別教授、ノーベル化学賞受賞者、有機合成化学) 
 •三宅一生(ファッションデザイナー、服飾デザイン) 
 •脇田晴子(滋賀県立大学名誉教授、日本中世史) 

 ギリシャ、ローマの昔から、西洋で優れた「文化人」は優れた「科学者」でもあった。
武蔵野美術大学の柏木博教授(近代デザイン史)は、レオナルド・ダビンチなどの名前を挙げ、「欧州で科学と芸術は融合していた。彼らにとってはすべてアートでした」。確かに、英語の「Art」には芸術・美術、技術の意味が含まれる。
     ◇
 実は文化の日は、関西にはもう一つある。「関西文化の日」。毎年11月の第3土曜と日曜が基本だが、今年は13、14日。両日を中心に、関西2府8県内の美術館や博物館など入館料が、主に常設展で無料になる。
◎「関西文化の日」の趣旨
 関西が誇る長い歴史に培われた豊かな文化資源に気軽に接する機会を提供することにより、美術・学術愛好者の増大を図るとともに、関西圏域外に向けても、文化が息づく関西を広く、かつ強くアピールし、関西への集客を図ります。
 03年、当時の河合隼雄文化庁長官が呼びかけた「関西元気文化圏構想」の一環としてスタート。4年前の参加234施設、来館者計22万6千人から、昨年は404施設、計35万4千人に増加。もうひとつの「文化の日」もがんばっている

 
 昨年、政権交代で日本の文化政策も転換期を迎えた。民主党前鳩山政権は前自民党政権が決めた「国立メディア芸術総合センター(仮称)」は「国営マンガ喫茶」で税金の無駄遣いの象徴だとして、建設中止を決定。首相の所信表明で文化政策への具体的言及はほとんどなかったといっていい。
 東京大学の小林真理准教授(文化政策)は「民主党の文化政策は、まだ分からない。伝統文化の保存や振興も大切だが、メディア芸術のような新しい試みをする人たちを支援することも、同じように重要だ」と指摘する。
 
 衆院側の戦後長く文化委員会委員をつとめた受田新吉(1910~1979)は、著書『国民の祝日と余暇』(75年)に「文化の日一日をすごすだけで文化が進むわけではない。一年中のあらゆる日が文化を進める一日であり、その結晶点ともなるべきものが、文化の日である」と記した。

『日本文化論の系譜』の著者、大久保喬樹・東京女子大教授(比較文化)は「日本人くらい文化についてあれこれ考えるのが好きな国民はない」と言う。
 
 このようにして選ばれた「文化の日」,今日一日ぐらいは「文化のあり方」について触れるのも意義ある日になるまいか、と静かに想いを馳せる今日の日の雑感である。

2010年10月24日日曜日

24日・お知らせとお願い!

 秋の深まりとともに秋の夜長を楽しめる候となりました。
このブログも”気侭に、気の向くままに”綴って早や10ヶ月、この間、お越し頂いているみなさんにはまことにありがたく厚く御礼申し上げます。

 最近では郷土の誇る「温故創新」をテーマに編集主体に記事を綴っておりますが、創作性はなく”独断と偏見に満ちた独りよがりの自己満足”になっているのでは?
といささか危惧しており、これから先の継続にはわたし自身疑問をもっております。
 
 ところで、わたしの「ブログ」には残念ながらカウンターが備わっていません。
 したがって、果たしてどのくらいの方がお訪ね頂いているのやら、皆目見当がつきません。
 「コメント」を熱心に書き込んでいただけるお方は極ごく限られ、みなさんは「楽天プラザ」の会員さんで電車の相互乗り入れのようにブログの「お気に入り登録」がうまくできないのではと案じています。

 ついては、この月末まで小休止いたし、その間みなさんから率直な忌憚の無いご意見をお伺いしたうえで、これからの方向付けをいたしたく存じます。
どうぞ、ご意見をお聞かせ頂けるようコメントをお寄せください。

 では、秋の夜長の徒然に、「たまステーション」の「たまカフェ」でごゆるりとお寛ぎ下さい!!!

その前に「世にも珍しい!おそらくはじめてのネコ前結婚式が「たまステーション」で挙行されました!!!そのスナップをご紹介しておきましょう。


”末永くお幸せに!「たま前挙式」”
24日午後12時30分から、和歌山電鐵貴志駅舎前で、「にゃん前挙式」が挙行されました。両家の親族のほか、乗客のみなさんもお二人の晴れ姿をしっかりと見届け、たま駅長は、新郎新婦の「永久の誓い」の証人となりました。末永くお幸せに!!!

(左・「たま駅長」右・「たま駅長代理」の「ぬいぐるみ」(日曜日・夜間勤務))











2010年10月20日水曜日

20日・「稲むらの火」に見られる濱口梧陵の偉業とその精神

”実業家であり政治家でもあった7代目濱口儀兵衛(梧陵)”
 
 初代濱口儀兵衛の後、2代教了、3代教寛、4代安六、5代灌圃、6代保平と続き、創業から約200年後の1853年(嘉永6年)、5代目灌圃の孫にあたる梧陵が、7代濱口儀兵衛を名乗りました。
 梧陵は1820年(文政3年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に家督を相続し、幕末の風雲の中で、家業を守りました。
 彼はヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、私欲を顧みない社会福祉事業や政治活動に心血を注ぎ、近代日本や郷土和歌山県の発展に大きな足跡を残しています。


”小学校教科書のも載った「稲むらの火」の主人公”


 

 1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った安政の大地震に際し、偶然紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。
 梧陵は村民を避難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。

 身の危険や財産を顧みないこの行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。
 のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、小学国語読本に採用されました。

「稲むらの火」の詳しい内容は下記のアドレスをクリック


      http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/

 


  

     昭和10年代の和歌山県広村の防波堤

”津波から守る防波堤の建設”ー現在も残る防波堤ー

 梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、1855年(安政2年)から4年間、銀94貫(4665両,現在換算で約3億5千万円)を費やし、この築造工事に従事した延人員数は56,736名に及び大津波で職を失った村人には失業救済で大いに貢献し、村の衰退を防いだ大防波堤の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、国の史跡に指定されています。













”人材の育成・学問の発展に貢献”
 
 幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、「稽古場」を開設しました。
 西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
 また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所が火災にあい、焼け落ちたときは300両を寄付し再建。
 また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)
 梧陵は、このように人材育成や学問の発展、社会貢献のため労やお金を惜しまない人物だったのです。

”幕末から明治維新へ。近代日本を建設した偉人の一人”

 幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。
 商人の身分にありながらその才能を見込まれ藩政改革を託され和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。
 また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、梧陵は新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡りましたが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなくなりました。 和歌山県庁内には、梧陵の功績を称え銅像が建立されています。勝海舟はいたく梧陵の死を悼み、のち遺徳を偲ぶ碑に文をささげています。

”梧陵が生きた時代”

 梧陵は幕末から明治の激動の時代に活躍しました。ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫った時には、「いまや世界の大勢を見るに、何れも門戸を開放して、対外に交際せざる国なし」と喝破し、その意見を耳にした老中小笠原壱岐守と後日会談したと記録に残っています。また、当時の知識人たちとも親交が厚く、福沢諭吉の直筆文の中で「博識の人なり」と評されています。

◎梧陵の思想・”済世安民(世をうまく治め、民心を安定させる)”
※濱口梧陵のことは和歌山県HP.「紀の国の先人たち」に載せられています

2010年10月17日日曜日

17日・「稲むらの火祭り」と救世主・濱口梧陵

 秋たけなわの季節、各地で盛んに祭りが行われていますが、昨16日夕方地元広川町で「稲むらの火祭り」が行われました。この祭りは今から百五十数年前の安政元年安政の大震災の地震と津波によって全国的に多数の人命が犠牲となりましたが、地元和歌山の広村にも地震と共に大津波が襲ってきました。
 これに気付いた濱口梧陵は収穫を終えた稲の「稲むら」に火を放ち暗闇のなか村人を高台にある村の鎮守の「広八幡神社」へと村人を誘導し、尊い人名を救助しました。
 
 防災の先駆者とも讃えられる梧陵はこれだけではありません。再び襲ってくるかもしれない津波に備えて家や田畑を流された村人に失業救済を兼ねて強固な堤防を自費を投じて数年を掛けて構築し、「生ける神」としてその偉業が今に讃えられています。
 
 この火祭りは梧陵の遺徳を称えるとともに防災への意識を高揚するため地元広川町を挙げて、毎年行われている行事です。
 今回は「稲むらの火」と地元紀州が生んだ偉人濱口梧陵に人となりについて2回に分けて紹介することにします。では、「稲むらの火祭り」から・・・

 




 


 津波から村人の命を救った浜口梧陵(はまぐち・ごりょう)の功績をたたえ、市民が松明(たいまつ)を持って町内を練り歩く「稲むらの火まつり」が、16日夜、広川町で行わた。 実行委員会の主催で毎年この時期に行われています。
 まつりは、午後4時から広川町役場前の稲むらの火広場での式典で幕を開け、歌や太鼓などが披露されたあと、午後6時からの「火祭り行列」では、市民らが役場から広村堤防を越えて、広八幡神社までのおよそ1.7キロを、燃えさかる松明を手に練り歩き、梧陵が村人たちを高台へ避難させる様子を再現します。


 一方、広八幡神社の境内では、午後6時40分ごろから「平安の舞」の奉納や、炊き出しなどが行われます。実行委員会では「参加する人も見る人も、この祭りを日頃の防災意識を高める機会にして欲しい」と呼びかけています。

 『稲むらの火祭り
かつての小学校の国語教科書(地元小学教員・中井常蔵作)や、ラフカディオ・ハーンの小説「A Living God]でも伝えられなかった本当の「稲むらの火」です。濱口梧陵の偉業「百世の安堵を図れ」はこの実話の中に生きています。
-------------------------------------------------------------
1 枯れた井戸の水
今から150余年前のある冬の朝、広村に地震*が起こりました。
いつもと違う海に、村人たちは津波を心配して広八幡神社に避難しましたが、被害がなかったことを喜びあいました。
ところが次の日のお昼過ぎ、あわてて梧陵さんの家にかけ込んできた村人が言いました。
「えらいこっちゃ、井戸の水が枯れているぞ!」
*1854年(安政元年)12月23日午前10時に起こった、のちに安政東海地震とよばれた地震です。全国で2000~3000人がなくなりました。
------------------------------------------------------------
2 大地震だ!津波だ!
 夕方の4時。きのうの地震とは比べものにならない大きな地震*が起きました。
家が倒れ、かわらが吹き飛びました。ドーッという、大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲がみるみる広がっていきました。
そしてついに大きな津波が押し寄せてきました。「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」
梧陵さんは波にのまれながらも必死で村人たちにそう叫んで、広八幡神社へと避難を呼びかけました。
*この地震はのちに安政南海地震とよばれ、全国で数千人がなくなりました。
---------------------------------------------------
3 命の火、「稲むらの火」
 津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、今度はすごい勢いで海へ引いていきました。
あたりはひどいありさまで、おとなも子どもも家族をさがして叫びまわっています。
梧陵さんは、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからずさまよっている人がいるにちがいないと考えました。
とっさに、「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積み上げられた稲の束に火をつけてまわりました。すると、逃げおくれた村人が次から次へと火を目指して丘にのぼってくるではありませんか。「ああ助かった、この火のおかげや」9人目の村人が避難を終えたそのときです。さらに大きな津波*が押しよせて、稲むらの火も波に消されていきました。
*このときの津波がいちばん大きく、この後も何度も津波が押し寄せては引いていきました。
-------------------------------------------------------
4 生きる希望

 


 津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりでした。
村を捨てて出て行こうとする人もいました。梧陵さんは考えました。「このままでは村がほろびてしまう。広村で生きていける方法はないものだろうか…。よし、浜に堤防を築こう。村人に働いてもらってお金を払い、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ。」
地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、梧陵さんは家族や店の人*に村を守りぬくための協力を求めました。
*梧陵さんの家は、広村と千葉県の銚子というところで昔からしょうゆを造っていました。店や工場ではたくさんの人が働いていました。
------------------------------------------------------
5 広村堤防
 広村の人たちは、梧陵さんの決断に心の底から感謝しました。畑の仕事や漁の仕事をしながら、一所けん命に働いて堤防を造っていきました。4年がかりで大きく立派な堤防が完成し、海側には松の木を、土手には、はぜの木を植えました。
長い年月がたちました。広村に大波がおそってきましたが、村は堤防のおかげで守られました。大きい地震*があったときにも、津波は村に入ってきませんでした。
今も広村堤防は広川町の人びとを守り続けてくれています。
*1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が起こり、4mの津波がおそいましたが、堤防に守られた地域は無事でした。
---------------------------------------------------------
 つぎは村人を救っただけでなく村人の失業対策を兼ねて村に強固な堤防を築いた紀の国が生んだ偉人・濱口梧陵その人を紹介することにします。