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2014年7月9日水曜日

城下町の風景Ⅱー紀州藩御用達の菓子所 ⑩駿河屋店


 ニュース和歌山の城下町の風景Ⅱ⑩駿河屋が掲載される直前、同社が民事再生手続きの完遂が不可能となり、従業員は全員解雇、破産手続きに入ることになる事態が発生した。
同社労働組合は事業の継続を願って懸命なる署名活動を展開し、12、000通余りの事業継続を求める署名を集め事業継続を強く願ったが、結局スポンサー候補会社と折り合わず、創業550年余りの歴史の幕を閉じるハメに陥った。
 550年余りに及ぶ同社には、和菓子製造に関する貴重な財産が残されていることと想像できるので、それらが破産により散逸してしまう虞があり、産官民としても何らかの方法で保存して行けるよう対応を強く希求したい。

 それと同時に、「老舗」(ろうほ・しにせ)の意味をもう一度再確認しておき、「老鋪」に求められている規範を考えてみたい。
 同社の場合東京証券取引所および大阪証券取引所に株式を上場していたが、長引く和菓子の需要低迷による業績不振から株価も低迷、ついには上場を維持できる時価総額基準に抵触しつつあったことから、2003年に架空増資に手を染め、詐欺紛いのやり方で創業家出身の社長が逮捕される事件を引き起こしたことで、すでにそのときに老鋪としての信頼をすでに失ってしまったと思っている。
但し、上にも示したように同社がこれまで蓄積してきた「和菓子造りの文化」はまことに貴重な文化遺産であり、何としても将来に向かって保存されるよう強く希求したい。

【老舗】・・・伝統や格式・信用のある由緒ただしい 古い店。
【老舗の語源・由来】・・・動詞「為似す、仕似すに由来し、「似せる」「真似する」などの意味から、江戸時代に家業を絶やさず守り継ぐ意味となり、長年商売をして信用を得る
意味で用いられるようになった。やがて「しにす」の連用形が名詞化され、「しにせ」となった。
漢字「老舗」の「老」は長い経験を積んださまを表し、「舗」は店を意味する当て字として用いられる
ようになった。(言語由来辞典から)

それと、城下町に風景Ⅱー⑧⑨がすでに掲載されているので、時期をみて適宜記載したい。



 
画=西村中和、彩色=芝田浩子

紀州藩御用達の菓子所 ⑩駿河屋店

 駿河屋は、初代岡本善右衛門が寛正2年(1461)、京都伏見で創業した鶴屋にはじまる和菓子屋です。その5代目が徳川頼宣の転封に従って駿府へ移り、元和2年(1616)再び転封によって和歌山へついてきました。その後、貞享2年(1685)、3代藩主綱教が5代将軍綱吉の娘鶴姫を妻に迎えるにあたって、鶴屋と名乗るのをはばかり、屋号を駿河屋に改めました。
 上の絵は、約160年前の城下駿河町にあった駿河屋の店内です。手前には「砂糖蔵」の屋根がみえますが、絵は源氏物語絵巻などの大和絵にみられる、屋根や天井を省いた吹抜(ふきぬき)屋台の室内描写法で画いています。
 左手前ではカマドにかけた大釜をかき混ぜてアンコを作っているようです。左奥では蒸籠(せいろ)に饅頭を並べ、カマドにかけ、蒸しています。おそらく有名な本ノ字饅頭を作っているのでしょう。
 右手前には「砂糖小出場」があり、頭巾とマスクをつけた職人が和菓子を成形しているようです。なかには紅葉をかたどった星形のものも見えます。店内には葵紋や「御用」「西浜御殿」と記された厨子棚がたくさんあります。御殿で催されるお茶会用の菓子類を一時保管する棚のようです。 
 表には「菓子所 駿河屋」の暖簾がかかり、店の間には武士や町人が大勢押し寄せ、お菓子を買い求めています。駿河屋は5月にその暖簾をおろし、長い歴史を閉じました。市民に愛されたお菓子の復活を切に望みます。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)

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 江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は7月23日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年7月9日号掲載

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株式会社駿河屋(するがや)は、かつて和歌山県和歌山市に本店があった老舗和菓子メーカー。羊羹発祥の店といわれる。全国各地に駿河屋の名を持つ菓子店が多く存在するが、駿河屋からの分家暖簾分けによるものは11社である。

室町時代中期の1461年に創業した駿河屋は、江戸時代には代々紀州家御用御菓子司を務めており、和菓子メーカーでは老舗中の老舗」とされ、現代日本の企業としても最も古いものの一つに数えられる。西日本を中心に直営店や百貨店などで羊羹などを販売していた。煉羊羹は駿河屋を代表する商品として有名である。

 ちなみに和歌山市の地名の駿河町は同社が由来でもあり、かつては企業城下町として長らく栄えていた。

老舗和菓子メーカー「駿河屋」波乱まみれの倒産 スポンサー候補浮上も決裂・.07.07



民事再生法に基づく再建の道が閉ざされ、閉店した駿河屋の駿河町本舗=和歌山市
 室町時代中期の寛正(かんしょう)2(1461)年の創業で、江戸時代には紀州徳川家御用達だった和菓子メーカー「駿河屋」(和歌山市)が5月、民事再生法に基づく再建を断念し、事業を停止した。練羊羹発祥の店との説もある老舗で、グリコ・森永事件で脅迫状を送りつけられた企業の一つだった。駿河屋の和菓子は、味わうことのできない記録と記憶だけの歴史になろうとしている。

 「お客様には長らくのご愛顧を賜り、ありがとうございました」。和歌山市駿河町の本店「駿河町本舗」はカーテンが下ろされ、張り紙だけが寂しく残っていた。

 創業550年余りだが企業として設立されたのは1944年。製法を確立したともいわれる練羊羹や焼饅頭などが親しまれ、61年には東証・大証2部に上場した。ピーク時の92年の売上高は60億2500万円に上った。

 ただ、会社設立後の歴史は波瀾万丈だった。85年には、グリコ・森永事件の犯人グループから「グリコや森永のような目に遭いたくなかったら5000万をだせ」と脅迫文を送られたことでも知られる。

 その後、上場基準を維持するための架空増資事件で2004年に当時の社長らが逮捕されると、05年に上場廃止となって信用が失墜。今年1月には民事再生法を申請した。
 それでも再生は可能との見方があった。事業再建のためのスポンサー候補会社として、創業400年近くを誇る老舗「千鳥屋宗家」(兵庫県西宮市)が浮上。事業譲渡の交渉を進めてきたが、決裂。5月29日にすべての事業を停止、全社員が解雇された。

 東京商工リサーチ和歌山支店の田端健二課長は「店舗展開が旧来型で、全国チェーン店などの進出による競争に勝てなかった」と分析。新商品の開発も、製造ラインを入れ替えてまで大胆に進めることはなかったとの見方もあり、「じり貧状態でぎりぎりまで頑張ったのだろうが、もっと早く民事再生の手続きをしていれば、名前は守れたのではないか」と指摘する。

 前身は「鶴屋」として初代、岡本善右衛門が室町時代に開いたと伝わる駿河屋。5代目のころに京都・伏見の桃山城正門前に店を構え、和歌山に移ったのは江戸時代初めの元和5(1619)年。紀州藩の初代藩主の徳川頼宣とともに和歌山入りし「御用菓子屋」として栄華を極めた。

 5代将軍、綱吉の長女、鶴姫が紀州徳川家に嫁ぐ際、姫と同じ名前では畏れ多いとして「駿河屋」となった。江戸が発祥ともいわれる練羊羹は、西日本では駿河屋との説が根強い。

 和歌山地裁は6月25日、経営再建は困難として破産手続き開始を決定。元従業員らでつくる駿河屋労働組合は翌26日、資産を切り売りしないことなどを求めて市民ら1万2294人分の署名を同地裁に提出した。組合代理人の豊田泰史弁護士は、和歌山市内の企業の支援を得て組合で資産を購入する考えも示していたが、断念した。

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