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2011年1月15日土曜日

15日・紀州古代墨「藤代墨」復元へ(海南市)(その2)!

「青墨夢幻 松煙墨作り 古代墨復元への取組み」    続き)(和歌山県)

 堀池さんと同じ頃、和歌山県海南市の郷土史研究家、平岡繁一さん(78)は古代の製法による墨作りに挑んだ。
 海南地方(昔の大野郷に「墨屋谷という地名があり、また墨ノ免という字句が見え墨作りが免税の対象になっていたことが伺える)で栄えた松煙墨の一種「藤代墨(ふじしろずみ)」。
 鎌倉時代の「古今著聞集」には、熊野詣でをする後白河上皇に、この地方の国司が献上したとあることは前回の述べたが、平岡さんは若いころから藤代墨に興味を抱き、30年も資料を集めていた。

※「後白河上皇・「梁塵秘抄」の編者として知られ、自らも今様の名手として後世にその名を知られる。


 蛇足になるがここで上皇が口ずさんだ地元を織り込んだ今様を一つご紹介しておこう。

”熊野の権現は 名草の浜にこそ降りたまへ 若の浦にしましませば 年はゆけども若王子”
(上・後白河上皇・右・古代藤代墨)
古くから墨作りが盛んに行われていたことは、つぎの和歌からもうかがい知れよう。
   する墨の その藤代の 秋かけて たへぬ七日の 梶の玉づき

   あふことを 松にかけたる 藤代の    墨の名しるき 梶の玉章
                                       冷泉 為重     

(冷泉為重・南北朝の公卿・歌人。従二位権中納言。藤原定家の子孫、為冬の子。後円融院の勅により、『新後拾遺集』の選者となり技巧の優れた歌を遺す)



 平岡さんは堀池さんの協力を得て、竹の骨組みにむしろを巻き、登り窯のような形のスス取り装置を造った。ススを固めるニカワは、地元で捕らえた鹿の皮を12時間煮詰めて作った。練り、成型、乾燥は、奈良の墨職人の協力を得て15本の墨ができた。
 今もJR海南駅近くで営む『かいなん夢工房』で墨作りを続ける。
赤松のススとニカワは業者から仕入れるが、珍しい松煙墨に著名な書家からも注文が来る。


 地元の小学生を対象にした「墨作り体験教室」も10年が過ぎた。「故郷の歴史だから残していきたいな~!」
   ◇         ◇
 わたしは平岡さんとも親しくさせて頂いている顔見知りの仲である。同じく郷土史が好きで、平岡さんは独りでコツコツ古文書を捜したり、現場を掘り起こすなど郷土の昔を発掘し、後世に伝えることにおいては人一倍熱心であり、情熱的である。地元には平岡さんによって復元されたものが沢山ある。

【平岡繁一氏談】 『海南は「文房四宝」の町』 「文房四宝」てなんかな、とも云える言葉であり、死語ともなっているんや、そやけど、書画を娯しみにしている方々にとっては、すぐわかるんや!つまり文房具とか書斎の中の四つの宝物ということなんや、それは「墨・筆・硯・紙」のことで昔は宝といえる貴重なものであったんや!
正倉院の書類の中に、ある役人に対して年間に使用できる墨は、「一本と半分」とかに決められていたんやよ。墨はいかに大切であったか解るんや
そんな四宝が藤白界隈にあるんやから不思議と思わんか?
 先ず「墨」やけど、一〇〇〇年も前に藤白で作られていたことは、よう知ってらな。
 次に「筆」やけど。藤白坂を登ってゆくと、筆捨松があんのは皆んな知ってるし、有名な物語りは紙面の都合で割愛するとして、この物語を聞いた紀州の殿さんであった頼宜公が、筆捨松を記念するため、松の下に「硯」の形を彫った大きい石碑を建てたんや、さらに不思議なことに、この場所は冷水の「白紙」という場所なんよう。 墨の外はそのものズバリではないのやが、四つが揃っているのは日本国中でもここだけや。こんな不思議な海南やから、これを海南の起爆剤にしたらどうならよう!

●平岡繁一プロフィール郷土史研究家、古代墨(松煙墨)の復元、地球温暖化防止のための意識改革を推進する目的で活動している「和歌山ケナフの会」を創設などの様々な顔を持ち、多数の講習などもこなしている。海南駅前一番街に委託販売所『かいなん夢工房』をかまえる。地元の古い文化を発掘、町おこしに貢献を目指す情熱家。


 また、次に述べる地元海南市「春日神社」が催す「大野十番頭まつり」の催しのなかの海南の中世歴史講座には、2回平岡さんに講座をお願いした。
 その一つは紀州古代墨「藤代墨」の話で、昨年は紀州徳川藩初代藩主徳川頼宣が藩の儒学者李梅渓に命じて作らせた「父母状」の講義をして頂いた。





(左・熊野のご神木「ナギの葉」の寫眞をかざす平岡さん、下・「梛(なぎ)の葉)
 






海南郷土史講座に「松煙墨」について講演された平岡繁一氏。
「松代王子社」のご神体は「なぎの葉型の松煙墨」
(左・徳川頼宣公の「父母状」)
 
 実に熱心に諸文献を当たり、分かりやすく解説して呉れたのは、日頃子供さん相手にいろんな体験教室を開催されていることにもよるのだろう。
     ◇                     ◇ 
父母状 「父母に孝行に 法度を守り へりくたり 奢らすして 面々家識を勤 正直を本とすること 誰も存たる事なれと、弥能相心得候様に常々可申聞者也」。意味は「孝行して法を守り、質素にして家業に勤め、正直に暮らすことは誰でも知っているが、常々このことを教え諭さなくてはいけない」。李梅渓の直筆の書は多数残されている。
       ◇                   ◇
  また、平岡さんは同じ紀州藩初代徳川頼宣公が熊野古道の藤代峠に登る途中に見晴らしが良い「筆捨松」と呼ばれる故事に知られる処があり、この辺に「硯石」という名所を造ったが、 これがいつの間にか土砂に埋もれ所在が分からなくなっていたのを、熱心にこの辺りを発掘し見付け出した。 

 いまでは藤代峠に向かう熊野古道の途中でこの硯石に出会うことができる。
市が名所案内板を建て藤代坂の名所になっている。
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 この「硯石」を発掘した平岡さんの横顔をチョット覗いてみよう!
かつて、ニュース和歌山で紹介された記事から引用させて頂く。

「熊野聖域への入り口」とされる海南市の藤白坂。峠に近い熊野古道沿いに、一際大きな存在感をしめす巨大な石がある。17世紀、紀州藩初代藩主の徳川頼宣がつくらせたと伝えられるこの硯(すずり)形の大石は、1983年の大雨による土砂崩れで一時行方不明となったが、95年に地元の郷土史家、平岡繁一さんが探し出し、2003年に掘り起こされた。
 「文化財指定は受けていないが、地元の大事な文化遺産に変わりない。あと何年か放置されていたら、忘れ去られていたかもしれません」。古道沿いに横たわる硯石を見ながら、平岡さんは目を細める。
 熊野古道の雰囲気が気軽に楽しめると人気の藤白坂。藤白神社から南へ歩くこと約35分、筆捨松と呼ばれる松が見えてくる。

 9世紀、熊野をめざす絵師の巨勢金岡が藤白坂で童子と絵比べをすることに。金岡はウグイス、童子はカラスを描いたが、甲乙つけがたい。
 2人が手をたたくと、2羽とも絵から飛び出した。次に2人が呼んだところ、童子のカラスだけが絵に収まった。金岡は「無念」と筆を松に投げ捨てた。童子は熊野権現の化身だったと言われている。
「硯石」 縦3メートル、幅1.5メートル、厚さ0.9メートルで、重さ約10トン。現在は筆捨松の隣に横たわっているが、かつては今より10メートル以上山側に建てられていたと考えられる。(熊野古道藤白坂顕彰会)

  そんな伝説の残る筆捨松の横に硯石が置かれたのは、頼宣が藩主をつとめた17世紀。17422年ごろに書かれた『名高浦四囲廻見』に「松のもとに硯のかたちをなしたる岩あり、此硯は前亜相頼宣公の命によりて後に出来たる事なり」との記述がある。
「熊野に向かう頼宣公がここで案内者から筆捨松のいわれを聞き、『そんな伝承があるなら』と硯石を建てるよう命じたのでしょう」と思いをはせる平岡さん。
19世紀に編纂された『紀伊国名所図会』にも筆捨松の側に建つ硯石が描かれている。





 



(写真上=硯石と横にある筆捨松の案内板、硯石を見つめる平岡さん) (右下・「筆捨松・硯石の近くに建つ案内)  

 しかし、1983年7月の集中豪雨で硯石は土砂と共に流され行方不明になった。埋もれたまま10年以上が経過し「このままでは地元の文化財が忘れ去られる」と危機感を抱いた平岡さんは95年、探索を開始。それらしき大石を見つけ、周囲の土を掘り、下側になっていたくぼみ部分を確認した。費用のめどが立った2003年、地元有志でつくる熊野古道藤白坂顕彰会によって掘り起こされ、筆捨松のすぐ隣へ置かれた。
 硯石と筆捨松が並ぶ一帯は、同市が秋に開くわくわくハイク、市青少年育成市民会議主催の新春親子ハイキングでも人気だ。

 参加者はベンチで休憩しながら案内板を読んだり、見どころを記した小冊子を読みながら巨大な石に見入ったり。同市は硯石周辺を含む藤白坂の国指定史跡登録をめざしており、市生涯学習課は「県内外の多くの人に歴史的な価値を知って歩いてもらいたい」と期待する。

 約10年前から毎年8月に周辺を清掃している地元の内海ハイキングクラブは、硯石が掘り出された後、有志が週1回付近を歩く際にくぼみにたまった雨水をくみ出すなど掃除を行っている。同クラブの山◯◯治さんは「いつでも掃除できるよう、ひしゃくやぞうきんを用意しています。看板を作って設置したメンバーもおり、皆それぞれあの場所に思いがあるようです」。
 硯石のくぼみ部分にはハイカーが投げ入れたと思われる小銭が。
「お願いすると、字がうまくなるかもしれませんよ」と笑顔を見せる平岡さん。
「掘り起こした後、市の観光パンフレットに筆捨松と合わせて紹介されるようになった。忘れられることなく、本当に良かった!」

 地元の郷土史家の熱意で忘れ去られる危機を脱した硯石。400年の時を超えた今も、熊野古道を行き交う人たちを見守り続ける。これが平岡さんの真骨頂。

(つぎは、紀州古代墨「松代墨」を復元、毎年書初め会を開催する「春日神社」(わたし等の遠い祖先10家が大野郷の地へ勧請した)のことを書きます)

2 件のコメント:

  1. 藤白坂といえば、有馬皇子が死罪になった場所でもありますね~。古代から重要な土地だったのでしょう。
    漢字を書くときは中国の墨、仮名は日本の墨が合う、といわれます。さらさらと仮名書きをするときは、中国の墨では重たすぎるようです。残念ながら、ワタシは仮名が苦手で、一応日本の仮名用の墨も持っているのですが、ほとんど使うことがないままです(苦笑)。

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  2. 玲小姐さん
    奈良旅行如何でしたか?追々カキコで読ませて貰います。
    古代から紀州は都人が往来する憧れの地でした。
    藤代坂は熊野への入口ともいい、いろいろな伝承が残され
    ています
    仰っしゃる通り、有馬皇子は斉明天皇の658年11月11日、
    謀反の罪を着せられ、ここ藤代坂で処刑されました。
    この悲劇の皇子を偲び毎年11月11日直前の日曜日に「有馬
    皇子まつり」が催されます。藤白神社境内に有馬皇子神社
    があり、また、西へ200mに所に墓碑と歌碑があり、地元に
    人によりいつもキレイにされています。このとき斎明天皇
    は牟婁の温湯(いまの白浜温泉)へ行幸中でした。古代か
    ら摂津の有馬温泉とともに知られた温泉です。
    また、時代が下って聖武天皇の御世、藤白から北へ5km上った和歌浦の二度行幸があり、山部赤人の有名な歌が遺されています。下に有馬皇子の歌碑の歌を書いて置きます。

    ”家にあれば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の 葉に盛る” 有馬皇子(万葉集巻8)

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