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2011年1月17日月曜日

17日・紀州古代墨を用いた「春日神社」書初め会開催(その3)!





松代墨」を語る三上宮司さん
 今日17日は阪神大震災から丸16年、1995年1月17日早朝の激震を今でも鮮明に記憶している。大震災関連のことは置くとして、「紀州古代墨」シリーズを続けよう。
 
 まえ2回は紀州古代墨の復活にかける二人の方を紹介したが、今回は境内の西にある熊野古道「松代王子」の名から紀州古代墨・松煙墨「松代」を復元し、松煙墨で毎年「書初め会」を開催している春日神社宮司・三上秀信さん(親しい友人)に登場願い、書初め会に託する三上さんの抱負を語ってもらった。
 
 この書初め会は参加する小中高校生が年々増える一方で今年は780名が参加したとか・・・!
 この書初め会には同神社に縁が深い「大野十番頭」の後裔者も書初め会の役員を務めるなど、宮司さんと一緒になって、かつての「春日神社」の繁栄に想いをかける。 
  
 今年の元日と2日、海南市の春日神社には小中学生約780人が集い、松煙墨を使った書き初め会が催された。墨の香りが満ちた会場で、和歌山県日高町から来た中学1年の稲葉瑞希さん(13)は「いつもよりにじみやすくて難しかったけど、なんとかうまく書けたかな」。


「春日神社」書初め会会場風景

 今年で16年目。宮司の三上秀信さん(48)は「せっかく復活した墨。書道が盛んだった地元の歴史を知る機会にもなる」と話す。ふるさとの墨は確かに、紀州に息づいていた。 
 では、地元「わかやま新報」で掲載された「書初め会」の様子と、昨年の優秀作品を紹介することにする。(今年の優秀作品の展示発表会は20日頃の予定です)。




海南「春日神社」拝殿






復元された古代墨「松代」
  
熊野古道「松代王子」
   




2006年「ニュース和歌山」が「街を元気に!」でインタービューした記事ですが、宮司さんの紀州古代墨(松煙墨)にかける想いが伝わってきます。




 古代墨で郷土感じて」・春日神社(海南市大野中)三上秀信宮司
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Q. 小中学生対象に紀州古代墨を使った書初会を開いています。古代墨とは何ですか。
A. 古代墨とは松煙墨のことです。松煙墨は、松の木を燃やしたススを原料にした墨で、奈良時代ごろから海南や和歌山、田辺などで盛んに作られていました。このススはかつて黒江の漆器や、内海の和傘にも用いられ、海南の特産品に生かされています。
Q. 書初に使うきっかけは。
A. 今の墨はナタネ油を燃やしてできるススで作る油煙墨が大半。また、子どもたちが学校で使う墨汁はカーボンブラックと言い石油製品です。松煙墨は上質の墨ですが、ながく途絶えていました。これを海南市の平岡繁一さんが復元を果たしたのがきっかけです。また、春日山にある熊野九十九王子のひとつ松代王子社のご神体は、ナギの葉の形をした墨です。こういう形で、郷土の歴史に親しんでもらいたいと考えました。
Q. 来年で12回。恒例になりました。
A. 1月2日に日を設定し、当初は3回続いたらいいと思っていました。しかし、初回だけで300人。要望もあって2回目から硬筆も加え、700人が集まった年もあります。海南に限らず、県内全域から来てくれていて、書道の腕試しに来る人や、着物姿で来て昔ながらのお正月らしい雰囲気を味わう人までさまざまです。みんな書き始めると、真剣そのもの。中には、凄く上手な書を書き上げる子どもがいてびっくりします。
Q. 展示会も開いています。
A. 神社に作品を並べますが、暖房で部屋を暖めると、室内が松の香りに染まります。本当はそこまで感じてもらいたいのですが・・・。
Q 今後の展望は。
A. 最近は学級崩壊が言われますが、書初会を通じ、はっきりした目標があれば子どもは集中するのが分かりました。そういう力を育てる場にしたい。昔参加した子どもが親になり自分の子どもを連れて来てくれればうれしいですね。
Q. 来年の書初は。
A. 来年から元旦、2日と日を増やします。午前9時から午後4時までで事前申し込みはいりません。無料で、毛筆は道具持参です。

 (余韻)松の命が吹き込まれた墨は、する音まで温かく聞こえます )
                  (2010年の優秀作品)
         
 これにて3回シリーズで辿ってきた紀州古代墨の話を終ります。
最後に今から半世紀余り前に刊行された『海南風土記』(著・雑賀紀光)から「墨屋谷」のお話を引用して終わりたいと思います。ありがとうございました。


第二十一話「墨屋谷」
 H田K蔵氏は中学生の頃、剣道初段の腕前であった。その頃彼は藤白に住んで居た。
ある日曜日、裏の花畑を耕していた時である。彼は鍬を剣の如く上段に振りかざし、宮本武蔵気取りでエイッと打ち下ろしたとたん、カチンと鍬の先に手ごたえがあった。さては花咲爺ではないが小判でもと掘り上げて行って見ると、出るは出るはザクザクと小判ならぬカワラケが無数に出て来たのである。縄文土器でもなくかといって弥生土器でもない。色々薄黒くよごれている。
 遂に郷土史家久鬼眞一郎先生の鑑定を乞うた結果、藤白墨をやいた土器であることがわかった。


 墨型を作る木は批把に限られているが、彼の家の近辺に野生の批把が沢山生えているわけも説明された。
 奈良の古梅園よりもずっと古くおそらく日本最古の墨であった。藤白墨は能筆で知られている(※)尊円親王家入木抄に「御稽古には紀州藤代墨、相違あるべからず」と出ているほか、後白河法皇も絶賛遊ばされている。
 
 紀伊国名所図会に「藤白のひがしみなみに墨屋谷という所にて松煙を焼きて墨を製したりという」とあり。本来のものは棕梠皮で握り固め色つやをよくする為に紅を入れて製した。今の紅花墨という墨はその法をとったものである。


 幕末の頃からこの墨も中絶し、天保頃新製品を出したが、長く続かなかった。最近川久保得三氏を中心としてその再興が考えられている。
(※ 尊円法親王(そんえんほうしんのう、永仁6年6月23日(1298年8月1日) - 正平11年/延文1年9月13日(1356年10月7日)は、青蓮院第十七世門跡。伏見天皇の第6皇子。母は三善俊衡の娘。初名は守彦親王。尊円入道親王とも。青蓮院流書風の大家)

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  それから二十年、ようやく平岡繁一氏の手によって見事復活を遂げ、製品化まで漕ぎ着けた長い間の努力の結果がもたらしたまことに涙ぐましい話である。
 これで、3回にわたり書き綴った紀州古代墨を終ります。

(この「紀州古代墨」執筆に当たって、「朝日新聞」(響)「ひびき紀行」、「ニュース和歌山」、「わかやま新報」および㈱ウイング広報「ほうぼ」から引用または参考にさせて頂いたことを報告し、感謝します)

2 件のコメント:

  1. 海南では、奈良よりも古くから墨が作られていたんですね!
    実家には、今でも私と妹が書いた書道のパネルが飾ってあります。
    母は、毎年墨をすって年賀状を書いています♪

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  2. megさん
    世界でいまの墨の原型ができたのは中国で紀元前200年
    とも云われ、我が国には推古天皇の18年(610)年に
    高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が製紙、製墨の技術を伝
    えたという記録が残っています。当時都は飛鳥でしたから
    この付近で製墨が始まったか、輸入に頼ったカモしれません。
    わたしも小さいころ書道教室に通いましたが、今は硯で墨
    を摺ることはありません。megさんは昨年薬師寺で写経を
    ヤラれたから、墨を摺ったのでは、心が落ち着きます。
    この「春日神社」の書初め会は奈良の㈱呉竹が後援して呉れ
    墨も提供してくれています。とはいっても墨汁ですが・・・
    地元で平岡さんや春日の宮司さんが紀州古代墨の復元に取り
    組み、松煙墨「松代」として販売するまでになりました。
    「墨」の製法については堀池さんのHP「紀州松煙」か奈良の
    ㈱呉竹にアクセスすれば動画で製造過程を見ることができます。タイトルを検索に入力すれば出てきます。お試し下さい。

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