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2010年8月23日月曜日

23日・和歌浦の南・海南市に遺る万葉集歌その1

 前回まで都合5回にわたって「和歌浦」が国の名勝指定に関する記事と和歌浦を詠んだ万葉集歌、名所旧跡を訪ねる旅をしてきましたが、紀州を詠んだ万葉集歌が107首のうち和歌浦を詠んだ歌が13首、和歌浦湾を南に下ること5kmの海南市に遺る万葉集歌が14首あり、これを巡る旅へとみなさんをご案内するととにいたしましょう!

 海南市の西側は今では海浜が埋め立てられた地になってしまっていますが、万葉集が詠まれたいにしえは和歌浦湾の南に位置する入江で通称「黒江湾」と云われて来ました。わたしの家から直線距離で半径5km内に万葉集歌に詠まれた処が和歌浦13首、海南14首と27首もあるという、いにしえの古跡に恵まれた土地柄でもある訳です。
   
 
 わたしが生まれ育った海南市黒江は今の家から東へ1.5km、紀州漆器で全国的に有名ですが「黒江」の名は、潮に満ち干きで見え隠れする「黒牛潟」からきたものと云われ、黒江に東隣の「日方」も干潟から、その南の「内海」は「名高の浜」として万葉集歌にも詠まれた名勝の地で、この地がかつては入江だったことを今に伝えています。
(万葉の黒牛潟遠望の図・雑賀紀光画伯筆ー明治の頃を想定)



1.JR海南駅前



2.海南市役所前






























3.黒江・黒牛茶屋



















4.黒江・中言神社



つづく・・・

2010年8月20日金曜日

20日・和歌浦その4。「妹背山」と「三断橋」

(旧)和歌浦名所案内は、今回が最後になります。今回は「妹背山」を中心に、そこにある史跡と360年ほど前、松尾芭蕉が和歌浦、紀三井寺を訪れたときに詠んだ句碑を紹介します。

妹背山
 妹背山は、周囲250mの小島だがかつては相模の江ノ島、近江の竹生島、安芸の厳島と並ぶ水辺の名勝だったそうです。
      
 (妹背山の東側からの遠景)

 玉津島神社のすぐ東隣にある三断橋(約50m)を渡ると、万葉集に出てくる”妹背山”があります。
この”妹背山”は、和歌浦にある船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山のなかで唯一小島として残っている山で、昔の面影が色濃く残っていて当時を偲ばれる場所です。この”妹背山”には、初代紀州藩主徳川頼宣が造った多宝塔や観海閣があります。

三断橋
 妹背山の西側には、砂岩製高蘭付きの三断橋が架けられている。県内最古の石橋で、妹背山を整備した慶安期に建造したもので、『紀伊國名所圖會』に、「こは杭州西湖の六橋のおもかげありて、風景真妙にして、壮観足らずということなし。」と記されている。西湖は、白楽天や蘇東坡の詩文に唱われ、由来、時として艶麗な美女に、あるいは神仙の境域にみたてられてきた中国有数の景勝地である。三断橋の欄干、板石、橋桁、橋脚などが、西湖を模したものといわれている。三断橋は、何度か補修されているが、橋の原型そのものは4世紀にわたって崩される事なく、今日まで継承されている。























観海閣
 「観海閣」は、初代紀州藩主の徳川頼宣が承応元(1652)年に水上楼閣として建てたものだそうです。頼宣は、母の霊を多宝塔に拝んだ後、この”観海閣”から名草山にある紀三井寺を遥拝したと伝えられています。残念ながら昭和36(1961)年の第二室戸台風にて当時の木造の建物が倒壊したため、現在のようなコンクリート製の建物になりましたが、今も尚、”観海閣”から眺める名草山、片男波には素晴らしいものがあります。























海禅院多宝塔
 妹背山に建つ総欅(けやき)造の二重塔は海禅寺多宝塔で、承応2(1653)年に建てた総欅造で高さ13mの上品なものです。観海閣の前の石段を登っていくと妹背山の中腹に”多宝塔”が姿を現します
 紀州徳川藩初代藩主頼宣が母の養珠院をしのんで建てた。養珠院は家康の側室でお万の方と呼ばれ、頼宣と水戸藩初代藩主・頼房を生んだ。8代将軍・吉宗の曽祖母にもあたる。
 日蓮宗に帰依していた養珠院は家康の三十三回忌供養のために、石に「南無妙法蓮華経」と書いた経石を多宝塔下の石室の納めた。
 これに後水尾上皇をはじめ庶民ら多くの人が賛同して15万個もの経石が納められていた。この経石奉納の運動は今に続けられているという。






















松尾芭蕉句碑  
”行春に わかの浦にて追付たり"

 

2010年8月18日水曜日

18日・和歌浦その3.「奠供山(てんぐやま)」と「不老橋」

 玉津島神社の本殿の右側に「奠供山(てんぐやま)」への登山の案内板が設置されていて、位置的には 玉津島神社の背後の山である。奠供山の名前は、天皇の祭事に用いられた祭具(奠供)よるとのこと。標高わずか約34mの岩山である。






 














 
神亀元年(724年)即位した聖武天皇は、同年10月に和歌浦へ行幸して14日間滞在した際、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る、故に弱浜(わかはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)と為せ、宜しくし守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ、春秋二時官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せよ」という詔を発した。

 聖武天皇は和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じたのである。『紀伊続風土記』では「神亀元年御幸の時、登山望海此間最好と、詔し給ふは即此山なり」として、奠供山を詔が発せられた場所であるとしている。












玉津島 見れども飽かす いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため  藤原卿

 天平神護元年(765年)10月聖武天皇のあとを継いだ称徳天皇行幸の際には、南浜に「望海楼」が営まれ7日間滞在したとされているが、江戸時代後期の儒学者仁井田好古は「望海楼」を奠供山の南麓の市町にあったものとし、好古の撰文になる望海楼遺址碑(和歌山市指定文化財)にはそのことが刻まれている。

 この奠供山周辺はその後妹背山を除いて陸化してしまったが、聖武天皇が奠供山山頂から臨まれた和歌浦一体は今とは異なる景観だったであろうことが想像できる。付近にはいにしえ、玉津島と呼ばれる小嶋が連なり、片男波と呼ばれる干潟ももっと広くて入江奥深くまで入り組んでいたことと推測できる。

 和歌浦東側の入り江近くに架かるアーチ型の石橋「不老橋」は、片男波の松原にあった東照宮御旅所の移築に際し、嘉永4年(1851)紀州徳川家10代藩主・治宝(はるとみ)の命によって架けられた。
この橋は家康を祀る東照宮の例大祭・和歌祭の時に、徳川家や東照宮の人びとが御旅所に向かうための「御成り橋」として使用された。 


 片男波海岸も人工の海水浴場として天然の砂嘴の趣が失わたが、それでも和歌浦・和歌浦湾の景観は見応えがある。

 この片男波の人工浜化と海水浴場の整備によって史跡「不老橋」の東に新しく「あしべ橋」と道路が造られ、これが和歌浦の景観を害するとして裁判沙汰の及んだが、原告側が敗訴、現在の道路状況となった。


 





 



 話が変わるが、聖武天皇を継いだ称徳天皇行幸のとき、奠供山南麓に行宮「望海楼」であるが、明治時代後期に旅館「望海楼」がその地の建設された。そこには明治43年客引きのために日本で最初の鉄骨製エレベーターが建設されている。高さ約30mであった。今では景観問題でとても建設できないであろうが・・・
 明治44年、和歌山での講演のため夏目漱石が来和、和歌浦「望海楼」に宿泊して句を詠み、このエレベーターに乗り、その著書『行人』で和歌浦につい次のように述べている。いまから100年前の出来事である。
 
《手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂まで物数奇(ものずき)な人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。(中略)
 二人は浴衣がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人這入(はい)ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶しい感じを起した。
「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語(ささや)いた。
「そうですね」と自分が答えた。
「人間もこの通りだ」(中略)
 牢屋に似た箱の上りつめた頂点は、小さい石山の天辺(てっぺん)であった。そのところどころに背の低い松が噛(かじ)りつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼に嬉しく映った》(「行人」)

 このエレベーターも、大正5年(1916)には、第一次世界大戦の影響で解体され、軍用船へと変わったのでした。

なお、和歌浦滞在中夏目漱石は
  「涼しさや 蚊帳の中より 和歌の浦」
     「四国路の 方へなだれる 雲の峰」、
の2句を遺している。

2010年8月16日月曜日

16日・和歌浦その2.「玉津島神社」

 いにしえ神亀元(724)年、聖武天皇が和歌浦に行幸された当時、紀ノ川の河口は、大きく和歌浦湾に注いでいて、(今の和歌川河口)現在の何倍ものスケールの干潟が広がっていました。
 いまでも和歌浦の北方に「鶴立島」という古くからの小字名が残っていて、山部赤人が”若の浦に 潮満ちれば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る”と詠んだのはこの鶴立島辺りではなかろうかと推測されます。そして潮が満ちると六つの玉のような小島が連なって海に浮かぶ、それが玉津島です。
 今それらの島は、妹背山、奠供山、鏡山、雲蓋山、妙見山、船頭山と呼ばれ、いまは妹背山だけを海上に残して陸地となっています。
 この“若の浦”は平安時代になると“和歌の浦”と呼ばれるようになり、和歌の歌枕の代表的な地として都人たちのロマンを掻き立ててきました。

 今回は「和歌」の神様と讃えられる「玉津島神社」を中心に紹介してゆきます。




祭神・稚日女尊,息長足姫尊,衣通姫尊,明光浦霊 和歌浦湾へそそぐ和歌川の河口部にある。

当初、稚日女尊のみを祀っていたが、後に、稚日女尊を尊崇する神功皇后(息長足姫尊)を合祀。さらに、衣通姫尊を合祀し、女神三神を祀る。

聖武天皇神亀元年、玉津島の行宮へ幸したおり、弱浦(わかのうら)という名を改めて、明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して歌を詠んだ。

 
立ち帰り 又も此の世に跡たれん 名も面白き わかの浦浪  

以来、衣通姫尊が主祭神の位置になり、住吉、(柿本)人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになった。

 衣通姫尊は、容姿が美しく、艶色が衣を通して光り輝いたほどの女性。『古事記」では第十九代允恭天皇の皇女軽大郎女(かるのおほいらつめ)の別名。『日本書紀』では允恭天皇の妃弟姫、また衣通郎女(そとほりのいらつめ)。皇后は姉の兄姫。姉皇后の嫉妬にあい身をかくす、とある。

いかにも女神を祀るお宮、といった風情がある。社殿後方は奠供山で、それほど高くない丘といったところ。
山頂からは和歌浦が見渡せる。






      

       (左・玉津島神社拝殿   右・本殿ー奠供山山麓)
 鳥居の右手の赤い塀は、小野小町の袖掛塀という。拝殿奥に神門があり、垣内に一段高く前庭がある。そこから階段上に本殿がある。


社殿後方は、奠供山。山頂からの眺めは良い。朝夕はきっと美しいに違いない。
 当社の南、海沿いの道路の曲り角に、鹽竃神社がある。鹽槌翁尊、製塩の法を伝えた。
由緒 もともと玉津島神社の祓い所であった。神社としては実にあたらしく、1917年である。
窟の中に祠があり、安産の神。


玉津島神社由緒略記
 社傳によれば神代以前の創立にして天照大神の御妹稚日女尊を祀り後此の大神をいたく尊崇せる神功皇后を併せ祀り其の後光孝天皇の御脳を平癒せしめられし衣通姫を御勅命により合祀せらる。
小松天皇の勅願所として知られ又住吉神社人丸神社とともに和歌三神として朝野の尊敬殊に厚く後西天皇以下八代の御製宸筆を奉献せられ古来京師より春秋二季官人の差遣ありて祭祀を巖修あらせらる参拝人各々福録寿楽を願ふとしてかなはざるなしと言ひ伝へらる大神なり
衣通姫神詠
 たちかへり またも此の世に 跡たれむ
   名もおもしろき 和歌の浦波

-境内案内板-


神亀元年 甲子冬十月五日、紀伊国に幸しし時に
山部宿祢赤人の作る歌一首

やすみしし わご大王の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ
背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騒き
潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貫き 玉津島山

(巻六-九一七)

返歌二首

沖つ島 荒磯の玉藻 潮干狩満ち い隠りゆかば 思ほえむかも

(巻六-九一八)
わかの浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

(巻六-九一九)

和歌浦にある船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山は、もと小島で、当時それらはみな、玉津島山と呼ばれていた。今は、その一つ、妹背山だけが、もとどおり島のまま残っている。

-境内万葉歌碑説明-
 このたびは、万葉のふるさと玉津島神社へようこそご参拝いただきました。
 当社は「神つ世」から鎮リます古社で、三柱の女神様をお祀りし、なかでも衣通姫尊様は「和歌の神様」として古くから敬われ親しまれております。(全国八万社中「和歌三神」の一つ)
 春日造りのご本殿は漆塗り最高の總蝋色仕上げで、屋外社寺建築としては他に比類をみない絢爛たる貴責な文化財であります。
 神社背後の奠供山は聖武天皇様ゆかりの聖地で、頂上からは万葉の御代歌枕の池として称賛された玉津島・和歌の浦のすばらしい景観を今も展望することができます。
 なお、神様のご加護によりあなた様のご旅行のご安全と今後のご健勝を心からお祈り申し上げております。

万葉のふるさと
 和歌三神 諸願成就  玉津島神社-『御参拝のしおり』-

      (玉津島神社境内に保存されている天然記念物「根上がり松」)