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2010年12月15日水曜日

15日・「熊野の地」とは(その1)?

 このブログで11月下旬には高野山西麓にある「天野の里」をシリーズで、前回は高野山と熊野本宮大社のことをアップしました。
 
 これらはいずれも世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を南北に貫いた話でしたが、和歌山・奈良・三重の三県に跨る地域であるだけに、折角遠路はるばる熊野まで来たのだから、熊野本宮大社のある本宮町にある温泉郷(湯の峰・川湯・渡瀬)にしばし逗留して「熊野」をもう少し掘り下げて調べてみたいと思います。
 
 わたし自身地元にあって「熊野」について少々の知識はあり、熊野古道を断片的ではあるが要所要所をわが足で歩いたことがあり、その際熊野について調べたことがあります。が、いずれも断片的なのでいろんな資料をあたながらもう少し突っ込んで、そのうえで自分なりに組み立ててみたいと思う次第です。
 
 まづ、思いつくまま熊野に関することを時代順に列記してみると、はるか昔「神話の時代」に、イザナギ・イザナミノミコトが熊野は有馬(いまの三重県熊野市)の「花の窟(はなのいわや)」という処で「火の神・カグツチ」を生み、女性の急所を焼かれて亡くなることから始まり、神武天皇が熊野の地へ上陸、本宮大社の守り神である「八咫烏」に道案内されて、大和に至りわが日本の国を創ります。このことにも「熊野」は大きく関わっています。
 
 万葉集には熊野を詠んだ歌が数多く遺されており、都人がはるか辺境の熊野の地を訪ね来た証でもある訳で、平安時代に入ると法皇ら貴人が挙って熊野詣でに励み、後白河法皇のお供をして熊野古道を難行苦行して本宮へ辿りついた藤原定家が「熊野御幸記」で、はるか京都から熊野本宮にいたる記録を日記風に書き残していますし、歴代の法皇が熊野詣の途次宿泊した地で宴を催し歌を詠み、これが「熊野懐紙」として国宝指定されています。 
 
 これが鎌倉時代に入ると庶民にまで及び、「蟻の熊野詣」とまで称されるほど賑わいをみせました。源平時代には、平清盛が熊野詣の途次、紀伊の田辺の手前の切目に差し掛かったときに、京に不穏な動きがあるとの情報で急いで京へ引き返したり、また源平相争うなか熊野別当湛快は平家に与し、子の湛増は源平どちらからも味方に付くよう誘われ、迷った湛増は赤白二羽の鶏を闘わせ、その結果白い方の鶏が勝ったので源氏に味方し、「熊野水軍」を率いて源氏の勝利に大いに功績を挙げた話、義経の家来で怪力無双の武蔵坊弁慶が熊野別当湛増の鬼子で、時代が下って南北朝の元弘の変では後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が熊野落の途中、紀伊切目王子で夢に見た神の「熊野は必ずしも味方ならず、十津川へ落ちよ!」のお告げに従い中辺路を一路十津川に進路を変え、そこに隠れ住み再起を図った話や落ちるく旅の途中に大塔宮にちなんだ大塔の地名や伝説がいまに遺る。
 
 また和泉式部の話や浄瑠璃・歌舞伎で人気の「小栗判官・照手姫」蘇生伝説、歌人西行が熊野を詠んだ歌や戦国時代に織田信長、豊臣秀吉が天下を取ったとき熊野別当・九鬼嘉隆が「熊野水軍」を率い本願寺に味方する毛利が支配する伊予の「村上水軍」と海上で戦い、鉄板で船を覆った「安宅船」を発明、村上水軍を撃破し、太閤秀吉の朝鮮遠征に熊野水軍が加わり活躍するなど、話をすれば枚挙に暇がありませんが、この熊野詣も江戸時代以降には段々すたれ、古道も荒れてゆきましたが、近年は30年近く前46歳の若さで亡くなった地元新宮市出身の芥川賞作家(故)中上健次が提唱し創設した「熊野大学」がいまに後継の人々により継続するなど、癒しを求める現代の時代の要請とも相俟って、世界遺産登録もあり賑わいを取り戻しつつあるのは地元にとっても日本の国にも、まことに喜ぶべきことかと思います。
 このように、神話の時代から知られた「熊野」ですから、一口でこうだとは到底語り尽くせません。
 したがって、しばらく続くと思いますが、みなさんの興味がもてる話に絞ってお伝えしたいと思います。どうぞ、ご覧頂けるようお願いします。


まづ、「熊野」とはなにか? から始めさせて頂きます。


 熊野本宮(本宮)・熊野速玉(新宮)・熊野那智(那智)大社の熊野三山が鎮座する熊野(くまの)の地。 
          (左・熊野速玉・左下・熊野本宮・右・熊野那智大社)

 紀伊国牟婁郡は古くは熊野国としてあり、孝徳天皇(596~654)のときに紀伊国に牟婁郡として編入されたとの説もあり、面積的にはそれだけでひとつの県となってもおかしくないほどに広かったのです。

 
 紀伊国牟婁郡は明治になって、近畿最長の河川である熊野川を境に和歌山・三重の二つの県に分けられ、熊野川以西は現在の和歌山県に、熊野川以東は現在の三重県に属することになりました。
 ですから、熊野とは大体現在の和歌山県の東牟婁郡・西牟婁郡と三重県の南牟婁郡・北牟婁郡の辺りということになります。

 つぎに「熊野」という地名が何を意味していたのか?
その語源ははっきりとはわかっていません。さまざまな説があります。
その説を掲げてみますと・・・
・「クマ」は古語で「カミ」を意味し、「神のいます所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「樹木が鬱蒼と隠りなす所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「神が隠る所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「死者の霊魂が隠る所」の意とする説
・「クマ」は「隅(くま=すみ)」の意で都から見て「辺境の地」の意とする説
・「クマ」を「影」の意とする説
・「クマ」を「曲(くま)」の意とする説

 どの説を取るにしろ、熊野には開けた明るいイメージはありません。
木々が鬱蒼とおい茂る、陽のあまり当たらない未開の地というイメージ。

 実際、熊野三千六百峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の所が多い熊野は、人が農耕をして暮らすには不便な場所でした。 
 その地形により人間の手による開発を免れていた熊野は、ほぼ全域をシイやカシなどの日の光を照り返す木々を主とした照葉樹林に覆われていました。 
 明治時代、世界的な博物学者・南方熊楠が熊野の山中を駆け回り、粘菌類や隠花植物の採集に努めたことからまた明治政府の神社合祀令に猛反対し自然破壊から鎮守の森の自然を護った、いまでいう自然破壊に反対する先駆者でもあったことからもご理解いただけましょう。 
 大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界としてイメージされたに違いありません。
 われわれ同じ和歌山県(紀州)でも紀北と紀南(熊野)とでは、全く性格を異にします。まるで異郷・異国に来たかの感じです。

 熊野の地名が初めて登場する文献は『古事記』『日本書紀』ですが、『日本書紀』では、熊野はイザナミノミコトの葬られた土地として登場します。 
 また、やはり『日本書紀』には、スクナヒコナノミコトが熊野の御崎から常世(とこよ。海底他界)に渡った、との記述もあり、熊野の名は記されていないものの、スサノオノミコトが紀伊国に渡り、熊成峰から根の国(地下他界)に入った、との記述もあります。
 スサノオの話に関しては、熊成峰ということで熊野とは述べられていませんが、紀伊国にあるというのだから、熊野三千六百峰の一峰であると捉えてもおかしくないと思います。

 また秦の始皇帝の命により「不老長寿」の秘薬を求めて童女3千人を伴って船出し熊野は新宮の地へ辿りついた「徐福伝説」が残されています。こらは一種の国外逃亡とも考えられますが、このように黒潮の潮流は国外との交流があったことを示していると受け取れます。

 大和地方の人々は熊野を死者の国(黄泉=死後の世界)に近い場所と考えていたようです。黄泉がえり(蘇り=生き返る)の国、隠り国(こもりく)ともいわれることからも、お分かりいただけると思います。地元新宮出身の芥川賞作家(故)中上健次が好んで熊野を描いたことでも知られるところです。 
 熊野には以前から死者の国としてのイメージが与えられていたので、のちに浄土信仰が盛んになったときに、熊野は、やはり死者の国である「浄土」と結びつけられたのでしょう。黄泉の国=死者の国、隠り国(こもりく)とも云われましたが、この黄泉は黄泉返り=死者が蘇る=蘇る。に通じ、近年には「癒しの国」と、もて囃される地となりました。 
 神仏習合や浄土信仰の隆盛により、本宮=阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮=薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智=千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになりました。
 事実、那智には「補陀落山寺」があり、ここから西方浄土に向かって小舟に閉じこもりはるかかなたの海上へと船出した記録が遺されています。 
 熊野が広くその名を知られるようになるのは、平安時代の院政期、上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われるようになってからです。
 院政期、熊野御幸がほぼ年中行事と化すほど、上皇たちは熊野信仰に熱を入れました。このことにより熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立したのです。ことに34回に及ぶ後白河法皇の供として熊野御幸に随伴した藤原定家は「熊野御幸記」を遺しており、当時の熊野詣を偲ぶことができます。

 武士の世となり、院政が衰え、熊野御幸は衰退していきましたが、熊野信仰は衰えませんでした。上皇たちは来なくなりましたが、今度は武士や庶民による熊野詣が盛んになります。
 室町時代以降、「蟻の熊野詣」と、蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様にたとえられるほどに、大勢の人々が列をなして熊野を詣でるようになったのです。

 この熊野信仰の隆盛には、一遍上人(1239~89)を開祖とする時衆(じしゅう。のちに時宗)という浄土教系の鎌倉新仏教の念仏聖たちの働きがありました。
 時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖地と考え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのです。
 また熊野本宮社家である九鬼氏は熊野の地で大名になり、嘉隆の時代信長・秀吉に仕え「熊野水軍」を率い、本願寺の戦いでは信長方の水軍として鉄板貼りの「安宅船」を考案し、本願寺に味方する毛利方の「村上水軍」を撃破したことは有名ですし、秀吉の朝鮮出兵に水軍として従軍した記録もあります。また黒潮にのって広く密貿易や海賊行為を行っていとのも事実です。
 このように浄土信仰の日本第一の大霊験所として栄えた熊野は、やがて神仏の権威の衰退や浄土信仰の衰退さらに江戸時代の仏教、修験道政策や明治政府の神社合祀令等庶民の信仰の衰退ととともに衰えていったのでした。
 近年、「癒し」をもとめる時代の要請に応え、癒しをもとめて熊野古道を辿る観光客が増加し、高野・熊野の参詣道が世界遺産登録をうけて和歌山県は観光の目玉として大いにPRし、環境整備と相俟ってかつての賑わいを取り戻しつつあることは、まことに喜ばしい限りです。自然破壊でなく自然を満喫するこの参詣道は、今後いよいよ訪れた観光客の心を癒す場所を提供して行ければと思われます。
 ◆ 参考文献
宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
小山靖憲『熊野古道』岩波新書
町田宗鳳『エロスの国・熊野』法蔵館
小松和彦『新編・鬼の玉手箱 外部性の民俗学』福武文庫
梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社


 以上とりあえず「熊野」についての概略説明を終り、次回から各論に移ります。

4 件のコメント:

  1. しげやんさん こんばんは。
    熊野の特集楽しみです。
    熊野詣をしたのは10年以上前で、最近はこの字を見て「ゆや」と読んでしまうありさまです。
    年末でバタバタしてますが、ボチボチ参りますね♪

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  2. しげやん^^おはようございます^^
    那智勝浦に以前行きましたがそれ以来は言ったことがありません^^atitiもmegさんと同様に年末に向けてバタバタするので沢山の字をゆっくり読んでいる間がありません
    またゆっくりした時に・・・・・・^-^
    昨日は寒かったですね^^

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  3. megさん
    承ったところ、年内の予定がビッシリとか!
    寒さも一段と厳しくなりましたが、さらにきびしい所へご旅行の
    ようなので、お身体十分にご自愛のうえ、お楽しみ下さい。
    この「熊野シリーズ」自分の今までの熊野考として書き綴って
    置きますので、お時間がとれる時にお越し下さい。
    では、ボン・ヴヤージをお祈りしておきます。

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  4. atitiさん
    可愛げのないことをいうatitiさんか?
    忙しい中を時間をやり繰りしてきました、といえばまだ可愛げが
    あるのに!
    ”丸い卵も切りようで四角、モノもいいようで角がたつ”とは
    都々逸の有名な文句です。
    atitiさんはすべて直球勝負のもの言いですね!

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