ブログ アーカイブ

2013年5月9日木曜日

総括「和歌祭」-今も昔も和歌浦讃えー

12日()当日は、復古調の「和歌祭」を堪能下さい!!!





広義の和歌浦図(紀伊名所図会から)
 

わたしは5月に入って3.5.8日と都合3回にわたって「和歌祭」のことをブログ・         アップしてきたが、和歌浦が国の名勝指定を受けるの及んで国の名勝指定の区域を拡大して貰おうとの動きが産官民の中で高まり、この地域は及ばず往古は日本三大祭りの一つに数えられた「和歌祭」であるが、資金難・後継者難等幾多の課題を抱えて衰退の途を辿った「和歌祭」は、ようやくにして地域の祭ではなく400年近くに及ぶ歴史・由緒ある祭だと云うことが再認識され、幾多の乗り越えねばならない困難な課題を抱えつつも、それらを乗り越え来たる400周年祭を豪華絢爛にして盛大な往古に帰った祭とすべく若者達が自ら立ち上がったのだ.

 

そうして、「和歌祭」を「和歌浦」地区の名勝指定拡大の一つの目玉に使って観光客を多数動員しようとの企画がうかびあがったのだ。「和歌祭」は地域の祭であり観光客をも呼び込めるイベントなのだと・・・!こうして往古の「和歌祭」復活の灯が点されたのだ!これが、今年の地元和大の和歌山大学・紀州経済史文化史研究所が開催した大正9年の「和歌祭」の企画展開催なのだ。同研究所は4年前から「和歌祭」の企画展開催をおこなっており、国立大学法人で唯一観光学部を有する地元大学の地域に根を下ろした研究とその成果発表のばでもある訳だ。 

わたしは、以上のような視点から「和歌祭」と国の名勝指定の「和歌浦」の指定区域拡大活動が相互に密接に結ばれた関係にあることを念頭に、またそうあって欲しい願いを込めてブログを綴ったつもりだったが、第3回目をアップしたあと、地元のローカル新聞を手にしてみたら、「和歌祭」のことが詳しく紹介されているではないか!それも、見出しに「今も昔も和歌浦讃え・・・」とあり、「和歌祭」は昔から地域に溶け込んだお祭りだったようである。この記事を目の当たりにして、これを書かれた方はキッと郷土和歌浦を愛し、「和歌祭」の往古復活を心から願っている方に違いないと思い、同新聞に連絡し転載のお許しを得て、駄目押しの積もりでアップした次第ですから、固いわたしのブログの表現と異なり、読みやすいと思います。ぜひとも、ご覧になるようお願いして、わたしの筆を擱きます。     

----------------------------  

2013.5.8

                
わかやま四方山塾〜和歌祭
      

 和歌山の話題をより深く、より楽しく解説する「わかやま四方山(よもやま)塾」。

今回は5月12日(日)午前11時半から紀州東照宮で開かれる和歌祭です。まずは祭の芸能のひとつ「唐船」(とうぶね)の「御船歌」にまつわるエピソードを。

もうひとつは和歌山大学で開催中の企画展「和歌祭藩祖入国三百年祭」を紹介 します。歴史との絆を取り戻す祭の現在を伝えます。

取り戻す歴史との絆

御船歌が復活

長刀、母衣、雑賀踊りなど多数の芸能を誇る和歌祭。このうちの花形芸のひとつが「唐船」だ。江戸期に紀州藩御船手方が御船歌を歌って船をこぎ、陸上で唐船を押した。明治以降は御船手方の末えいが受け継いだが、戦後、商工祭と一体化した影響などで担い手は減り、歌は途絶えた。
 この御船歌が復活したのが2010年。約30年ぶりだった。県文化遺産課の蘇理剛志さんが和歌祭の芸能の記録作業を進める中、歌の音源を発見。復活に向け協力者を募り、歌に加え、太鼓、ほら貝の練習を重ね、よみがえらせた。蘇理さんは「御船歌は和歌浦の讃歌。

歌は『和歌浦には名所がござる』と始まり『一にゃ権現 二にゃ玉津島』と続く。


歌にメッセージがあり、復活させたかった」と振り返る。
 この時、再現を果たしたのは御船歌の「端歌(はうた)」「せり歌」「やれ節」。実は御船歌にはもう一種類「長歌」がある。「長歌」は祭の前に紀州藩主の御前で歌った特別な歌で、歌詞については約30曲分の記録が残るが、節を知る人はいないと思われていた。


歌継承に成功
 

 しかし、10年の祭の後、「ニュース和歌山の記事を見た」と和歌山市内の女性から蘇理さんに連絡が入った。「みなさんが御船歌を正しく歌えているか聞かせて欲しい」との内容だった。
 実は女性の父親が御船歌の音頭取りを長年務め、毎年、祭の前になると自宅に大勢の人が集まり、練習していた。そのため女性とその兄、兄嫁の3人の耳にはっきりと御船歌が残っていた。
 「いい声で正確に再現してくれている」。東照宮で蘇理さんらの歌を聞いた3人は感心。その時、あるメンバーが長歌の資料を示すと、高齢で声が出にくかった女性の兄が「あめふり」の節回しを口にし始めた。
 「ヤンレ雨降りて エイ曇らぬ空の めでたさや 京も 田舎も 月見花見の遊山して…」
 驚いた蘇理さんらは教えをこい、歌を継承。江戸期の和歌祭とのつながりを取り戻した。
11年には神輿おろし前に東照宮で歌声を響かせた。
 さらに昨年4月、和歌山ロータリークラブ75周年の会に招かれた紀州徳川家19代当主
徳川宜子さんの前で御船歌の披露を果たした。蘇理さんは「御前で歌ったのは江戸時代
以来では」と笑う。
 歌を伝えた女性の兄嫁は「長歌は特別な歌だったので知っている人は少なかったと思
います。難しい歌なのに懸命に覚えてくれた。耳に残っていた歌を生の声で伝えることが
できて、うれしいです」と喜んでいる。

写真上=「唐船」は和歌祭の花形芸能、写真下=御船歌を復活させた瞬間
 和歌祭紀州初代藩主、徳川頼宣が父家康の霊を慰めるため1622年に、前年建立した紀州東照宮を中心にして始めた祭礼。紀州東照宮の階段を勇壮に下る神輿おろしの神事のほか、多彩な芸が披露される。今年は5月12日(日)午前11時半に神輿おろし、正午に東照宮会館から出発し、行列お渡りを披露する。
    
大正期の祭と芸能

和大紀州研が企画展

 大正期の和歌祭を取り上げた「和歌祭大正九年 藩祖入国三百年祭」が5月17日(金)まで和歌山大学(和歌山市栄谷)の紀州経済史文化史研究所で開かれている。昨年発見された新資料をもとに祭の姿を振り返っている。

 昨年、和歌祭保存会の和田公一さんが「WAKAMATURINOKI」とのアルバムを発見した。徳川頼宣の紀州入り300年を記念し開かれた1920(大正9)年の「藩祖入国三百年祭」の写真が数多くあり、唐船や雑賀踊りなどの当時の様子がうかがわれた。

 企画を担当した同研究所特任准教授の吉村旭輝さんによると、

和歌祭は明治期、徳盛社、明光会ら寄付団体が運営を支えたが、

解散。その後、和歌浦東照宮保存会が引き継ぐも大正期は資金難にあえいだ。その一方、明治末期に『南海鉄道案内』との本で和歌祭が「天下3大祭りのひとつ」として紹介され、観光客が殺到した。大正期には10万人を超えた年もある。

 「藩祖入国三百年祭」は、徳川家の家臣だった三浦家の寄付で開催された。今回展示して  いる16点の写真を眺めると、唐船の龍が張り替えられていたり、母衣が新調されていたりと、 随所に寄付の効果を見いだせる。また、この時の特別会計簿と領収証も展示した。吉村さんは「この資料により、祭の何にどれぐらい払ったかを調べることができます」。このほか、当時の新聞記事やかつて子どもたちが参加した時に準備した「赤母衣」、2010年の調査で発見された唐船の法被なども並べている。1935(昭和10)年の和歌祭の映像も視聴が可能だ。

 吉村さんは「和歌祭は大正に5回、昭和は20年までに3回開かれていますが、祭はジレンマを抱えつつ多くの人でにぎわっていました。その姿を知って欲しい」と話している。

 午前10時半〜午後4時。無料。土日休館。同研究所(073・457・7891)。

写真中=祭に使う旗なども並ぶ、写真下=餅搗き踊りを撮影した1枚

    

0 件のコメント:

コメントを投稿