天皇陛下のお言葉全文 フィリピンでの晩餐会・1月27日
ご高齢の両陛下にとって、本年以降は公式行事ご出席はご出席を減少するなど、ご体調を慮るなか、両陛下にとって最後の外遊となるかもしれないフィリピン訪問が両陛下の強い希望のもと、行われた。天皇陛下とは、年齢にして1つ下のわたしも戦争を知る一人であるが、陛下の場合は父君であらせられた「昭和天皇」は第2次世界大戦の大戦仕掛け国・日独伊3国の日の国家元首(現人神)であらせられ、敗戦により現人神から国家の象徴となられ、自ら戦争責任を負われるお覚悟を貫かれただけに、「戦争」にたいするお考え方はわれわれが計り知れない強い想いがおありだったに相違ない。その長子として薫育されただけに「戦争」にたいする考え方は、われわれが知るべくもないお考えをおもちのことと憶測申し上げる。
・・・ことにフィリピンは日米戦争の主戦場となり、フィリピンはこれらの戦場となり、現地で没した日本人の数は約52万人にのぼるといわれる。だがフィリピ住民の犠牲はそれに倍するという。
日米戦争に巻き込まれるなどして約111万人が死亡。なかでもマニラ市街戦では約10万人が亡くなったとされる。今回の訪問を前に天皇陛下が述べられた「無辜(むこ)の市民」である。
死者を数字で比べる非礼をためらいつつ書けば、沖縄戦の住民犠牲者や東京大空襲のそれにおおむね等しい。ところが、日本では、異国のこの悲劇はあまり知られてこなかった。・・・(以下略・「1/28天声人語から)※「無辜」たまたま、そこに居合わせた(その時代に生まれ合わせた)ために、戦火・殺傷事件などの、とばっちりをうけて、虐げられ迷惑をこうむった住民たち)
天皇陛下は27日、フィリピンでの晩餐(ばんさん)会にあたり、お言葉を述べた。全文は次のとおり。
◇ ◇ ◇
貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下の御招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。
今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。
私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領御夫妻が国賓として我が国を御訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えて下さったマカパガル大統領御夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。
貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。
当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1カ月半滞在し、日本への理解を培い、来たる将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。
昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。
貴国は今、閣下の英邁(えいまい)な御指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。
この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びに御姉上の御健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。
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わたしは、この両陛下のフィリピン訪問を受けて、さきの大戦で幾多の国へ、いかに多くの被害を及ぼしたのか、また。それらの被害国が如何に寛大であったのかを、改めて知る思いがした。
戦後70年を経たいま、戦争の記憶を風化させるのではなくて、反対に語り継ぐことの大切さを、天皇・皇后両陛下のお姿から改めて再認識した。
はたして、現安倍政権の閣僚達は天皇・皇后両陛下のフィリピンご訪問をいかに受け止めようとしているのか?はなはだ興味ふかい思いがする! 以上
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貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下の御招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。
今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。
私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領御夫妻が国賓として我が国を御訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えて下さったマカパガル大統領御夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。
貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。
当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1カ月半滞在し、日本への理解を培い、来たる将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。
昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。
貴国は今、閣下の英邁(えいまい)な御指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。
この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びに御姉上の御健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。
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わたしは、この両陛下のフィリピン訪問を受けて、さきの大戦で幾多の国へ、いかに多くの被害を及ぼしたのか、また。それらの被害国が如何に寛大であったのかを、改めて知る思いがした。
戦後70年を経たいま、戦争の記憶を風化させるのではなくて、反対に語り継ぐことの大切さを、天皇・皇后両陛下のお姿から改めて再認識した。
はたして、現安倍政権の閣僚達は天皇・皇后両陛下のフィリピンご訪問をいかに受け止めようとしているのか?はなはだ興味ふかい思いがする! 以上