このところ、南海トラフのハナシで、南紀「熊野川下り」や「串本・橋杭岩」が過去の大地震の置き土産の話題が相次いだが、今回は地元海南市のハナシ!それも昨夕のホットニュース!
昨夕17日、かねて海南市から要請を受け、所有する岩山を無償で提供し、市側で大津波発生時避難場所として整備を進めてきた工事が完成し、大安に当たる同日夕刻、附近の自治会長さんや関係住民に披露・見学会が海南市総務部危機管理課が開催した。これに岩山の提供者としてぜひ出席願いたいという市の要請に応えて夫婦で出席してきた。
この岩山は黑江と船尾の間に横たわる東西に細長い低い岩山で、われらが所有するのは西の端に位置する882㎡、全て青石でできていて、今回工事したのは高さ13m、海南市で想定されている津波の高さは最大8mとのことだから、海抜2mの上にあるのだから、十分間に合う計算。
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◯が今回完成した津波避難場所 |
予算の関係で、今回は、鉄鋼構造物で拵えた階段にお金がかかり、避難スペースは150人程度、しかし海南市では継続的に予算をとり、数年後には東へ延長整備し、約2000㎡、昇降個所設置も4個所を検討、津波時避難だけで無く、普段は市民「憩いの場所」にしてゆきたいとの構想である。
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避難場所への昇降設備と海南市街 |
わが家の遠祖は奈良朝時代に、大和は春日に地より紀州大野郷(現:海南市大野中)の地に春日神社(祭神は人王5代孝昭天皇の長子・天押足比古命(日本書記:天足彦国押人命)で大和春日の地を支配して居た古代豪族・和邇氏の始祖とその孫・彦国葺命を祀る。新興の藤原氏により春日に地を乗っ取られ春日に地から追い出される。藤原氏はそのあとに春日大社を建立、従って同じ春日でも祭神は全く異なる)を勧請のとき、それを供奉してきた十家のうちの一家、所謂「大野十番頭」のうちの一家で、一年交替で春日神社の神官を務め、のち土豪化して、元弘の変(1332年)で大塔宮護良親王が熊野へ落ちられるとき十番頭らが一時宮をお匿い申し上げるなどし、のち紀州守護職畠山氏の被官となり、戦国時代には織田信長の紀州雑賀攻めのとき仲間内で信長方と反信長方に分かれて骨肉相争い、わが祖は信長方につき海南井松原合戦で討ち死にした記録がある。
時代が下って徳川の世になると、紀州徳川初代藩主・頼宣公から藩の大番頭与力として召し抱えられ、その子は有田川普請奉行や海士郡代官を仰せつかるなど藩に仕え、春日神社の西北・神田に地に長らく居住してきたが、紀州徳川藩に出仕した4代目久豊の代に黑江村の地士馬場長右衛門の一人娘と婚姻、従って両家相続の形で神田村から北西へ3kmの黑江の現在に地に引っ越し(享保17(1732)年)これに先立ち馬場長右衛門が元禄比(1600年代終わり頃)南ノ浜の地を埋め立て、この石垣を築くため池崎の山を入手、ここから埋め立てに使う青石をキリ出したあとの小山である。
この小山は岩でできていて、この山を取り囲むように家が建てられ、急斜面で落石防止の工事を和歌山県が施工するなど、市中に東西の長く横たわる無用の長物だったが、この度は南海トラフの大地震の大津波来襲時の格好の避難場所として陽の目をみることになり、無用の長物が万ヶ一時に人の生命を救うことに活かされようとは、地域住民のお方にかけてきたご迷惑を、反対に非常時避難場所に活用できることに生まれ代わって所有者の一人として地域のお役にたてる地域貢献が果たせたことが望外のよろこびであり、防災に熱心な海南市だからできたことでもあろう。
以下、昨夕のスナップ画像を貼り付けて紹介し、数年計画と聞くがさらに充実した施設になり、併せて市民憩いの場所に生まれ代わることに期待したい!
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集まって来た地区住民ら・右端は雑賀光男県会議員 |
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披露と今後の計画を発表する海南市橋本危機管理課長 |
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避難施設から地上を見下ろす。道路から高さ13m |
以上
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