5月に入って最初に広義の和歌浦の景観と和歌浦漁港交流拠点施設「おっとっと広場」において、ゴールデンウィーク期間中の休日に「丼まつり」が開催されていることをアップしましたが、この12日(日)「和歌祭」が開催されます。
ご存じの通り「和歌祭」は紀州・東照宮には徳川家の始祖・家康公と紀州藩始祖・頼宣公(南龍公)を お祀りしている訳ですが、その歴史を振り返れば、元和7年(1621年)に徳川家康の十男である紀州徳川藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称され、本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵がある豪華な造りです。
東照宮からの景観 |
東照宮は、雑賀山に位置し、雑賀山は和歌浦湾の入江を眼下に納め、右手には天橋立のような片男波の砂嘴が延び、左手には北岸をみるまさに「扇の要」の位置にあります。西には天満宮が、東には玉津嶋神社が位置し、 元和5年紀州初代藩主として入国した徳川頼宣(1602~71)により、東照大権現を祀る東照社として建立されました。
頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われた。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであった。現在は頼宣公(南龍院)も合祀している。
東照宮の例祭は、元和8(1622)年に趣向を凝らした絢爛豪華な風流(ふりゅう)の祭りとして創始されているが、江戸時代には、国中第一の大祭であった。
諸国から多数の見物人がきたという。明治以降も「和歌祭り」と呼ばれて、大勢の観衆を集め、親しまれた。近年段々と往古に復した祭へと復興されてきつつある。
今回アップしたのもその現れの一つであり、その始まりは元和7(1621)年というのだから、390年余の歴史がある。したがって、2021年には400年祭を迎えることになるが、8年後にはこの時期を迎えるため、それまでに往古の祭に復元を目指した活動が高まるに相違ない。今回の企画もこれらの流れに沿っておこなわれたものであろう。
歴史は一年一年の積み重ねであるから、このながい流れに中で幾多の変遷があったろうにと思われるので、この際、12日のお祭り開催まで3回位にに亘って往古の「和歌祭の姿」を追ってみよう!
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・和歌山大学企画展「和歌祭大正九年(1920)・藩祖入国三百年祭」 (wbs和歌山放送4/19より)
ことし(2013年)も5月12日に和歌山市で開かれる「和歌祭(わかまつり)」を前に、和歌山大学では、大正9年(1920年)の和歌祭を撮影した写真や、貴重な資料などを展示する企画展を行っています。
大正9年の和歌祭の写真(4月19日・和歌山大学にて)
これは、和歌山大学・紀州経済史文化史研究所が4年前から和歌祭の時期に開いているものです。今回は大正9年に、紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)の入国300年を記念して開かれた和歌祭の模様を写した写真と、その準備費用を記録した特別会計簿や領収証が、初めて公開されています。
見物客(上)や行列(下)の写真(4月19日・和歌山大学にて)
写真には、唐船(とうぶね)や母衣(ほろ)の行列のほか、見物客の模様も撮影されています。
大正8年の特別会計簿(4月19日・和歌山大学にて)
また特別会計簿や領収証には、紀州藩家老・三浦家の子孫で男爵(だんしゃく)の三浦英太郎(みうら・えいたろう)が当時3705円を寄付したことや、祭りの道具を作る職人の日当などが詳細に記録されています
このほか、昭和42年(1967年)当時3歳から4歳だった男の子が初めて祭りに参加するのを祝って作られた「赤(あか)母衣(ほろ)」や、昭和10年(1935年)の和歌祭の行列などを撮影したフィルム映像、また大正4年(1915年)の徳川家康300回忌の和歌祭で、藩の軍船・御関船(おせきぶね)に掲げられた、葵(あおい)の御紋(ごもん)の旗なども展示されています。
吉村特任准教授(4月19日・和歌山大学にて)
監修する和歌山大学の吉村旭輝(よしむら・てるき)特任准教授は「観客は当時10万人を超えたとされ、資金面で運営に苦労したことが展示から読み取れる」と話しています。
この企画展は、来月(5月)17日まで、和歌山市栄谷(さかえだに)の和歌山大学・紀州経済史文化史研究所展示室で開かれています。入館料は無料です。
開館時間は平日の午前10時半から午後4時までで、土日と祝日は休館となります。
昭和10年の和歌祭のフィルム映像(4月19日・和歌山大学にて)
御船歌、朗々練り歩き 5月12日の和歌祭をPR
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