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2013年5月5日日曜日

江戸時代の東照宮の「和歌祭」(その2)

 紀州東照宮は紀州徳川藩の初代藩主・徳川頼宣の手によって建立されたが、廃藩置県となるまでは、徳川家康公&紀州徳川藩初代藩主・頼宣公を祀るだけに、財政的に困難な状況下でも、盛大に「祭」が行われてきたが、その後においては、開催が危ぶまれる状況にさへ遭遇したようだが、近年は名勝和歌浦を代表するお祭りとして、来る400年祭を数年あとに控えて古式に則り、開催できるよう努力が払われてきている。


 1621年、紀州初代藩主徳川頼宣が久能山に模して、父家康の霊を祭ったのが始まりで、1645年に日光山の改称にともなって、東照大権現から東照宮に改称したそうな! 

        楼門は国の重要文化財に指定されている。

  石灯籠の続く参道は紀州産青石が敷き詰められ、108段の侍坂を登り、楼門をくぐると朱塗り  と白壁の本堂が鎮座している。 

 


・東照宮の大祭:和歌祭・  

2006年 02月 12日

 江戸時代からの伝統的行事で、昔は日本3大祭といわれたそうな!1623年、紀州藩主徳川頼宣が父家康の霊を慰める為に始められた。当時は4月と9月に行われ、特に4月17日の家康の命日にあたる春祭りは渡御行列が盛大に行われたそうな!


 従来は商工祭の一環として、5月に行われてきたが、現在は独立して5月の第2日曜日に行われるようになった。来る400年祭は盛大に開催できるよう、また古式に則り開催すべく往古のしきたり等を調べながら、復興を遂げようと努力を傾けている。


渡御行列は東照宮から和歌山城まで、家康と頼信の御霊を中心に前後500m続く。


東照宮渡御行列
・紀伊国名所図会・(きいのくにめいしょずえ)
紀伊国名所図会 きいのくにめいしょずえ

高市志友(出版)(1751-1823)・たけちしゆう

江戸時代後期刊・版本
各縦26.0cm,横18.2cm
23冊


 江戸時代後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌で、紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載する。初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)、三編(加納諸平編)は天保9年(1838)、後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)に、それぞれ刊行されている。単に名所だけでなく、広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられる。

この「名所図会」の絵に彩色を施して近年「ニュース和歌山」から発行された図書に「和歌浦の風景」という図書があります。それによると・・・以下のようにあります


 
不老橋(ふろうばし)は、和歌山市和歌浦に位置するアーチ型の石造りの石橋である。

片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治寶(はるとみ)の命によって架けられた。第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成した。

 石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。

 不老橋は、徳川家康を祀る紀州・東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したものである。

 橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については地元湯浅のの石屋忠兵衛の施工と推定されている。勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。


                   

   「不老橋」



「不老橋」(西側)

不老橋の欄間に刻まれた彫刻(雲図)

和歌山市指定建造物「不老橋」
 

「不老橋」(東側)

 

「和歌浦の風景」~カラーで読む『紀伊国名所図会』

※ニュース和歌山2009年11月28日号

 上の絵は、和歌浦の東照宮付近の約200年前の風景です。東照宮は、元和7年(1621)に徳川頼宣が父家康を祀るため権現山(標高60メートル)中腹に建立したもので、そこには壮麗・豪華な社殿七棟(重文)が建っています。石段下には別当寺(附属寺院)として創立された雲蓋院(うんがいいん)をはじめ、内六ヶ坊のうち和合院・宝蔵院・玉仙(泉)院・正法院がみえます。

  和歌道(明光通)から市町前に出たところには、東照宮の境内を通らず対岸の出嶋に行けるように、入江を斜めに横切る新道(中道)が造られました。新道はまっすぐで、途中2か所に橋が架けられ、小舟が行き来できるようになっています。また、東照宮の神域性を高めるため、和歌道と平行に堀川が掘削され、明暦3年(1657)には下馬橋が架けられました。橋の手前には松屋・竹屋の二軒の茶店がみえます。橋を渡った所には木戸が設置され、通行が制限されていたようです。 

入江の対岸の片男男波砂州には、東照宮の例祭、和歌祭の御旅所(現=八の字公園付近)があり、松林に囲まれています。  

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和歌山市教育委員会 額田雅裕 ※ニュース和歌山2009年11月28日号記事

 
 の絵は、和歌浦の東照宮付近の約200年前の風景です。東照宮は、元和7年(1621)に徳川頼宣が父家康を祀るため権現山(標高60メートル)中腹に建立したもので、そこには壮麗・豪華な社殿七棟(重文)が建っています。石段下には別当寺(附属寺院)として創立された雲蓋院(うんがいいん)をはじめ、内六ヶ坊のうち和合院・宝蔵院・玉仙(泉)院・正法院がみえます。
 


  和歌道(明光通)から市町前に出たところには、東照宮の境内を通らず対岸の出嶋に行けるように、入江を斜めに横切る新道(中道)が造られました。新道はまっすぐで、途中2か所に橋が架けられ、小舟が行き来できるようになっています。また、東照宮の神域性を高めるため、和歌道と平行に堀川が掘削され、明暦3年(1657)には下馬橋が架けられました。橋の手前には松屋・竹屋の二軒の茶店がみえます。橋を渡った所には木戸が設置され、通行が制限されていたようです。



 
入江の対岸の片男男波砂州には、東照宮の例祭、和歌祭の御旅所(現=八の字公園付近)があり、松林に囲まれています。  
                     和歌山市教育委員会 額田雅裕

                                                                     ※ニュース和歌山2009年11月28日号

 
(付録) 
和歌浦から名草山・紀三井寺方面を臨む
和歌浦遠望・左に長く伸びるのは片男波海岸(外海・夏は海水浴場)
 
名草山遠望(片男波内海・対岸中腹に西国2番札所・紀三井寺がある)

 
明治時代の中頃までは和歌浦の玉津島神社付近から遊覧がてらに渡し船で、紀三井寺まで渡った。現在の紀三井寺側は塩田で、いまは和医大の構内に「塩田址」の碑が立てられている

                                                 以上

 

PS:.きょうは「子供に日」ですから、この日に相応しいオマケを付けて置きます.

お楽しみ下さい!

 
しげやん所蔵・山口蓬春筆(1893~1971・1965文化勲章・文化功労者)
 

「あやめ」

 
 
 


                                               以上

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