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2012年4月27日金曜日

和歌浦を訪ねて「片男波」と「不老橋」

片男波海岸や海水浴場に行くには玉津島の南にある不老橋前から橋を渡らないと行けない。
和歌山県は観光客や海水浴客誘致のために片男波海岸に「萬葉公園」を造り、人工浜の海水浴場を整備した。萬葉公園には「萬葉の小径」や 「萬葉館」を拵え、紀州を詠んだ万葉集歌107首を解説付きで展示している。
このとき通行の便を配慮して不老橋と併行して「新不老橋」(のち「あしべ橋」)を建設した。これに対し萬葉の時代からの「景観保存」を訴え、反対したグループとの間で訴訟問題に発展した、いわゆる曰わく付きの「あしべ橋」なのである。「景観問題」はいまや全国的な問題だが、この例も二十年近く前の「景観」に対する一つの考え方を示すモノなんだろう!まづ、このことから始めよう!
新たに設置された「あしべ橋」・手前は不老橋

(左)あしべ橋(右)不老橋
その後全国的に景観問題が話題になることが多い。広島の「鞆の浦」も同じようなことである。

このことが「和歌浦」の景観を損なうとして、学者や地元有志が裁判を起こした。 昭和63年(1988)9月、和歌山県は「不老橋」の前に車道橋として「新不老橋」建設計画を発表しました。
平成元年(1989)頃から「新不老橋」建設反対運動が起こり、住民訴訟が提訴され、平成3年(1991)には関係する万葉学者などが和歌山地方裁判所で法廷証言を行ったものの、17回に及ぶ口頭弁論を経て、平成6年(1994)11月30日結審し、敗訴しました。
残ったのは、証言で提起された「住民が歴史的景観権を所有している」という考え方があることへの認識に留まりました。現在の景観論争の始まりともいえる訴訟であった。
この訴訟の原告団副団長として争った(故)多田道夫氏が生前つぎのように語っている。
この時は県指定内定段階でまだ國名勝に指定される前のことだが、2010.8.5国名勝に指定された。多田さんは、下の記事掲載の1ヶ月後の6月2日心不全により不帰の人となられた。
おそらく多田さんは天国で大喜びされたに相違ない。
また、景観保存問題として学ぶべきことが多い問題でもあった。
◇                             ◇
(ニュース和歌山・2008.5.3号)



景勝地「和歌の浦」保全へ
和歌山県 名勝・史跡文化財に指定

 奈良時代、聖武天皇が「山に登り、海を望むに、此間(ここ)最も好し」と絶賛した和歌の浦。この景観を守ろうと、和歌山県は玉津島神社や鏡山など九カ所を含む地区一帯を、名勝・史跡文化財に指定した。9カ所以外の追加指定や、国指定へのランクアップも視野に入れており、地元からは「指定は景観を守る根拠になる。万葉ゆかりの地として豊かな歴史や自然を将来に伝えていきたい」と歓迎している。
◇追加やランクアップも視野
 和歌の浦は、景色の美しさに感嘆した聖武天皇が景観を守る守戸(しゅこ)を設置したり、万葉歌人の山部赤人が「和歌の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして  鶴鳴き渡る」を詠んだり、景勝地として古くから親しまれている。戦前は県の名勝指定を受けていたが、1956年の新文化財保護条例施行後は申請されず、指定されなかった。以降、新不老橋建設問題や建設物に高さ制限を設ける風致地区指定など、開発と保全の間で揺れてきた。
今回、指定を受けたのは、奠供山、玉津島神社、天満神社、東照宮、妹背山と三断橋、芦辺屋・朝日屋跡と鏡山、御手洗池公園、塩竃神社、不老橋の9件を含む10・2ヘクタール。文化財や景勝地を個別に指定するのではなく、地区全体を指定したのが特徴だ。点在する文化財や景勝地、史跡などのバランスを考えて保存していく。
 指定のきっかけは、昨年(2007年)に計画された三断橋の石垣修復。県住宅環境課が行おうとしたことに対し、「史跡としての視点を無視した工事にならないか」と住民が危惧し、県文化審議会に相談した。この結果、県文化遺産課が中心となって工事を手がけることになり、修復に向け石垣の研究者である石川県金沢城調査研究所の北垣聰一郎所長を招いたところ、「国レベルで保存すべき」と評価。さらに文化庁からも調査官が訪れ、県は三断橋だけでなく景勝地、その周辺の景色の検証に乗りだし、指定に至った。
新不老橋建設に反対し、同地区で景観をテーマにしたシンポジウムなどを開く和歌の浦フォーラムの多田道夫代表(和歌山大学名誉教授)は「結局、あしべ橋ができてしまったが、裁判で負けた時の判決理由の一つが『文化財指定がない』というものだった」と振り返る。「景観や観光立国が叫ばれ、ようやく指定されたことに時代の流れを感じる。今回の指定は、開発されてしまった所を、元の昔の景色に戻していくきっかけになる」と意義を語る。
   


「和歌の浦万葉薪能の会」の松本敬子代表も「指定により景観が保護され、素晴らしい和歌の浦の魅力を次の世代に伝える力になる」と歓迎する。また、昨年地区のマップを作った「みちしるべの会」は、今年秋に指定を記念したウォーキング会を企画、指定地を重点的に巡るコースも考えている。
県は「地域全体でバランスをとりながら景観保全に取り組んでいく。保存への方向性を示す取り組みとして管理計画を立てていきたい」との方針。多田代表は「干潟越しに見える大きなパノラマも和歌の浦の風景の一つ。布引や対岸の景観も意識しながら、今後の指定を期待したい」と展望を話している。

写真上から=不老橋を背に「時代の流れを感じる」と多田代表、歴史を感じさせるたたずまいの和歌浦天満宮
(ニュース和歌山・2008.5.3号より)
……………………………
・「片男波」
「片男波」の名は神亀元(724)年、聖武天皇の「和歌浦」行幸に随伴してきた万葉歌人・山部赤人が詠める
    ”若の浦に 潮みち来れば  潟を無み  蘆辺をさして  鶴鳴きわたる”
片男波・「萬葉館」
の「潟を無み」が後に「片男波」となったモノである。片男波には萬葉公園・萬葉館・萬葉の小径等萬葉に関するもの、また内海は干潟を形成し珍しい生き物が生息する貴重な干潟でもあり、和歌浦湾に面した外海は人工浜で「快水浴百選」の特選10にも選ばれ、地元はもとより京阪神からの海水浴客で夏場は賑わう。
片男波・満ち潮
クロアシサギ

片男波・引き潮(干潟)


片男波内施設案内
景観保存のため定期的清掃作業

片男波については、かつて2010.8.5「和歌浦」が国の名勝指定されたのをを受けて、2010・8/9~27日まで数回にわたって地元で詠まれた万葉集歌とともに和歌浦から海南市にかけて紹介したので、ここでは和歌浦の土地と片男波をつなぐ「不老橋」の紹介に留め、和歌浦の紹介を終えることとしたい
----------------------------------------            ・不老橋(ふろうばし)」
和歌山市和歌浦に位置するアーチ型の石橋である。片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治寶の命によって架けられた。
第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成した。
和歌の浦のシンボル「不老橋」は、本州では珍しい石造りのアーチ橋で江戸時代に架けられたものである。橋は中国杭州の西湖の趣きを模して造られたものだと云われ、勾欄部分に雲の文様が刻まれている。千変万化する雲の形に吉凶の意を託したのだろうか。すぐ側に新しい「あしべ橋」が架かり周辺には新しい建物ができている今も、「不老橋」の橋のたもとにたたずむと遠い昔にタイムスリップした様に感じるのは、独りわたしの感傷か、ノスタルジックな想いだけなのであろうか!


石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。
不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したものである。橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

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橋桁に刻まれた勾欄の彫刻
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。和歌山市指定文化財 建造物がされていたが、更に県指定文化財 名勝・史跡「和歌の浦」として、平成20年6月15日に指定され、さらに平成22年8月5日に「和歌浦」が国名勝指定を受けた。

不老橋を渡った処にかつて「不老館」という老舗の和風料理旅館があり、有名だったが、取り壊され跡地には和歌山市が文化発信地の役を担う「アート・キューブ」が建てられた。
「アート。キューブ」
では、最後に片男波から臨む紀三井寺がある「名草山」の眺望と和歌浦湾の夕暮れを掲げて、「和歌浦」巡りの旅を終えさせていただこう!
名草山を望む

和歌浦湾の夕暮れ時
最後に「和歌浦」のおさらいとして下記動画の世界をお楽しみ下さい!

国名勝「和歌の浦」を巡る旅(動画)
http://www.wakayama-kanko.or.jp/marutabi/tekutekutabi/wakayama.html

                                         (和歌浦の旅・終わり)

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