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2012年4月20日金曜日

和歌浦を訪ねて「玉津島」その1.

   前に述べたが、ここで紹介する「和歌浦」は、国名勝指定の和歌浦(狭義の和歌浦)である。
従ってブロック分けをすると
1.玉津島界隈=玉津島神社・塩竃神社・鏡山・奠供山(てんぐやま)・芦辺屋・朝日屋跡・望海楼跡&エレベーター・歌碑&句碑・案内板
2.妹背山=観海閣・多宝塔・三断橋・経堂・案内板
3.片男波=片男波萬葉公園・片男波干潟・片男波海水浴場・不老橋・案内板
の3ブロックに分類できるだろう。そこでブロック別に分けて個別紹介しよう。

(すべての画像はクリックで拡大するので大きくすれば読みやすくなります)
上の画像を航空写真にして空から見てみると陸地化した小嶋がよく分かります(緑色)

 

 そこで、1.の玉津島界隈からスタートします
メインになるのは、何と言っても「玉津島神社」ですが、同社の由緒等については
2012年4月18日水曜日・國名勝指定「和歌浦」の歴史と景観保全活動と県の景観条例制定について で、概況を説明したので、そこで紹介していないその箇所を紹介させていただきます!

不老橋から玉津島・鏡山・塩竃神社を臨む
玉津島神社は「奠供山」という道路から奥まった所にある小山に抱かれるようにして本殿が建立されている。本殿横から奠供山に登る登山道があり山頂は拓けて碑や説明板が設置されている。
ここは、聖武天皇が神亀元(724)年ここから眼下に広がる和歌浦と片男波の素晴らしい景観に見惚れて「明光浦(あかのうら)」と名前をかえ、随伴した歌人・山部赤人が歌を詠んだところで全国的に名高い名所である。
奠供山(てんぐやま)登り口
      
奠供山(てんぐやま)
奠供山(てんぐやま)は、和歌山市和歌浦にある玉津島神社の背後にある山である。
 神亀元年(724年)2月4日に即位した聖武天皇は、同年10月8日に和歌浦へ行幸して14日間滞在した際、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る、故に弱浜(わかはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)と為せ、宜しくし守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ、春秋二時官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せよ」という詔を発した。
聖武天皇は和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、さらにこの地の景観を守るため守と戸を置くことを命じたのである。
、『紀伊続風土記』では「神亀元年御幸の時、登山望海此間最好と、詔し給ふは即此山なり」として、奠供山を詔が発せられた場所であるとしている。

奠供山(てんぐやま)山頂
奠供山山頂に建つ碑と説眼板

万葉集歌・藤原卿作
(ふじわらのまえつきみ)

訳:玉津島を見ても飽きない。 これほどの景色を, どのようにして包んで持ち帰ったらよいのだろう。
見ない人のために。

      江戸時代後期の儒学者(紀州徳川藩に仕える)仁井好古撰
(旧)望海楼碑・かつては山下にあったが山頂に移された

  山を降りて名物の天然記念物「根上がり松」と山部赤人の歌碑に出会う

玉津島神社に置かれている「根上がり松」(天然記念物)

  万葉歌碑の説明板によると、神亀元年 甲子冬十月五日、
 紀伊国に幸しし時に山部宿祢赤人の作る歌一首 並びに短歌


(玉津島編・2へ続く・・・)



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2 件のコメント:

  1. 玉津島2へはどう言う訳か書き込めませなんだ><

    貴重なる古写真の数々拝見仕り申したw
    まさかあのような時代にエレベーターまであったとは、
    これは流石に驚きにござりましたぞ!
    どちらの旅館も風情がござったのじゃなぁ^^

    名前が書き込めぬゆえこちらに^^;
    モノノフ

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  2. モノノフ殿
    和歌浦の今昔については割合資料が豊富にあります。
    昔から有名な処に有名人が訪れた、ということでしょう!
    旧望海楼のエレベーター、当時客寄せに拵えたモノだそうで
    すが、周囲の景観とマッチせず、景観としての評判は不評で
    しかも大正5年解体され第一次世界大戦の際、軍艦に生まれ
    替わったそうです。スクラップ化したんですね!
    漱石がここに宿を取り、このエレベーターのも乗ってます。
    翌日は元県会議事堂で講演を行う間を利用して和歌浦・紀三井寺
    を歩き回ったようです。彼の小説『行人』に描かれています。

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